今回の記事では、平安京に首都を移した桓武天皇が東北地方の平定を目指す場面をご説明いたします。
蝦夷征討に至るまで
日本人とは異なる文化の「蝦夷」
7世紀頃の東北地方には、蝦夷(えみし)と呼ばれる先住民族が住んでおり、大和朝廷とは別の独立した文化を築いていました。もともと蝦夷は近畿地方あたりにも住んでいたのですが、大和朝廷によって関東に追いやられた後もじわじわと領域を圧迫され、飛鳥時代頃には関東北部から東北地方にまで追い込まれていた状況です。
その後奈良時代に入ると関係がやや改善したのか、蝦夷と大和朝廷の間で棲み分けができたのか小康状態が続きました。むしろ蝦夷の人々の中には大和朝廷に出仕する者も出始め、朝廷内での出世を遂げた人物も結構いたりします。
蝦夷征討の必要性と目標
奈良時代の後期、光仁天皇の頃の朝廷では蝦夷征討の動きが活発化しました。前代にあたる称徳天皇の治世ではあまり目を向けられることがなかった東北地方でしたが、称徳天皇が亡くなった後に光仁天皇が即位した途端、急に議題に挙がるようになっています。このことは飛鳥時代の後期に起きた、「壬申の乱」という天皇家の中の内戦に起因しています。乱に勝利し皇位を勝ち取った天武天皇の系統にあたる称徳天皇から、負けた側の系統にあたる光仁天皇に皇位が移ったことになるのですが、この時の光仁天皇としては「ウチの系統も色々やれるんだよ!」と周囲にアピールする必要があったという訳ですね。
ということで光仁天皇、そしてその長男にあたる桓武天皇は力を見せつけようとして積極的に蝦夷征討に取り組みました。とは言えただ単に討伐して終わりにしようということではなく、実のところ蝦夷征討の着地点は「蝦夷を仏教に帰依させる」と設定されていたようです。
仏教の教えを強制された蝦夷
というのも、当時ほとんどの仏教宗派は殺生を禁じており、熱烈な信者だけでなく日本全体で獣肉を食べることがタブー視されていました(魚肉はOK)。一方の蝦夷は狩猟中心で生活をしていたため、当時の文化人からすれば「そんな野蛮なことはやめなさい!」という感覚だったようです。
ですが狩猟で生計を立てていた民族が狩猟をするな、もしくは肉を食べるなと言われても困るだけですよね。ということで当然のごとく蝦夷は反乱を起こし、朝廷が保有していた城に攻めてきたところからお話がスタートします。
征夷大将軍・坂上田村麻呂とアテルイ
奈良時代後期の光仁天皇の時代から東北への蝦夷征討軍が度々送られていますが、反乱を鎮圧してもまたすぐに反乱が起きるというイタチごっこが続いていました。光仁天皇が崩御して桓武天皇が即位しても状況は相変わらずで、一進一退を繰り返しています。蝦夷の反乱軍はアテルイというリーダーに率いられ、勇敢に戦い征討軍を幾度となく撃退しています。
桓武天皇は平安京への遷都をした後、すぐに蝦夷征討を行うために征夷大将軍という臨時職を創設し、この将軍位に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)という人物を任命します。そして副官として坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)という武将を補佐に付け、蝦夷征討に送り出しました。この征討軍は坂上田村麻呂の活躍もあり、ある程度の戦果を得て平安京へ帰還します。
その後桓武天皇は前回の征討軍で活躍した坂上田村麻呂を征夷大将軍に抜擢し、もう一度蝦夷征討軍を出発させます。ここで坂上田村麻呂は天皇の期待に応え、蝦夷軍を打ち破りアテルイを降伏させることに成功します。そして坂上田村麻呂はさらに北側へ侵攻するための前線基地として志波城を建築し、後にこの志波城を拠点として東北地方の平定を完了させることになります。
坂上田村麻呂についてはこちらからどうぞ。
徳政相論とその影響
国軍維持の必要性を議論
坂上田村麻呂が大きな功績を挙げて蝦夷征討が一段落ついた後、桓武天皇は藤原緒嗣(おつぐ)と菅野真道(すがののまみち)という2人の部下を招集しました。これからの国政の方向性を決めるため、2人に議論をさせて良い方を採用しようという寸法ですね。
藤原緒嗣は民衆が貧困にあえいでいることを嘆き、平安京の造営と蝦夷征討を停止させればより良い国になると主張します。この頃の農民達は、長岡京と平安京への2回の遷都と度重なる蝦夷征討により重い税を課されていました。この藤原緒嗣の意見に対して菅野真道は猛反対し、蝦夷征討と平安京の造営を継続させるべきだと主張します。桓武天皇はここで2人の意見のうち藤原緒嗣の意見を採用し、平安京の造営と蝦夷征討の中止を決定します。
この桓武天皇によって決められたことは、いかにも平和的で良いことのように感じますが、実は後の日本に大きな影響を及ぼす重大な決定でした。
朝廷軍の大幅縮小
律令制では耕作地にあぶれた人が戦場に駆り出される
天智天皇によって始められた律令制では、日本の土地は全て朝廷というか天皇の物と明確に決まっています。農民達は天皇から耕作地を貸してもらう代わりに、「租庸調」といった負担を義務付けられているという筋書きになっています。
この租庸調の制度はかなりアバウトだったようで、人口に対して耕作地が足りないといったことが多くありました。そういった耕作地にあぶれた人達は、税金の代わりとして戦争に駆り出されて死闘を繰り広げるという、罰ゲームでは済まない義務を負わされていました。つまり戦場に出ている兵士達の大半は、耕作地が足りないという事情で強制的に兵士として戦わされているという状態でした。この兵役のシステムがあまりに悲惨すぎるということで、徳政相論で桓武天皇に訴えかけた人物こそが藤原緒嗣です。
無政府状態となった日本
徳政相論で藤原緒嗣案が採択された結果、耕作地不足での兵役負担は免除されることとなりました。墾田永年私財法という耕作地拡張のための法令もすでに出ていたため、働く場所が多くなってきていたことも追い風になったのかもしれません。
墾田永年私財法については、こちらのページの中見出しでご説明しています。
ですが実際に朝廷に軍がいないのはさすがにマズイということで、徴兵制度として「健児(こんでい)」という制度だけは残されることになります。
「健児」という制度も兵を強制徴収する制度なのですが、徴兵対象が「成年男性3人がいたら1人」というちょっと曖昧な決められ方がされていました。もちろん3人のうちの誰という決まりもなく、また当然誰しも戦場になど行きたくないため、対象となる成年男性はできるだけ言い逃れをして逃げ回るという事態が多発していました。また「健児」では武器や食料は自前となっていたため、軍に参加した人でも脱走することが非常に多かったようです。
こうして朝廷軍の兵士を集めるための徴兵制度が「健児」だけになった結果、兵が集まらなくなり朝廷軍が事実上無くなるという異例の事態が起きてしまいます。これにより日本国内で反乱が起きたとしても対処する軍がいないという、無政府状態とも言える時代に突入します。
諸国ごとの員数は、山城30人、大和30人、河内30人、和泉20人、摂津30人、伊賀30人、伊勢 100人、尾張50人、三河30人、遠江60人、駿河50人、伊豆30人、甲斐30人、相模100人、武蔵105人、安房30人、上総100人、下総 150人、常陸200人、近江200人、美濃100人、信濃100人、上野100人、下野100人、若狭30人、越前100人、能登50人、越中50人、越後100人、丹波50人、丹後30人、但馬50人、因幡50人、伯耆50人、出雲100人、石見30人、隠岐30人、播磨100人、美作50人、備前 50人、備中50人、備後50人、安芸30人、周防30人、長門50人、紀伊30人、淡路30人、阿波30人、讃岐50人、伊予50人、土佐30人となっており、全体として51ヶ国に3155人が配置されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%A5%E5%85%90
こちらはWikipediaの「健児」のページからの引用なのですが、配置されていた人員のあまりの少なさが伺い知ることができます。信濃は大体現在の長野県を指していますが、長野県全体を100人で守備するという、悲しさすら漂う兵員数となっています。
ただしこの時に兵役が廃止されなかった地域として、朝鮮半島からの襲来があるかもしれない九州北部や、蝦夷との国境となる東北地方諸国などがあります。異民族からの襲来に100人で立ち向かうのは無謀ということで、さすがに国境地帯には兵役免除がなかったようです。たった100人で数千人の敵に立ち向かう人達のことを考えると、逆にほっとしてしまう施策です。
農民達が自衛のために武装→武士
兵役がなくなってしまったことにより朝廷軍がほとんど機能しなくなり、農民達を守る物は一切なくなってしまいました。「健児」などからの逃亡兵や苛烈な税制から逃れようとした人、または自分の税を払うために他人からの横取りを企む人による盗賊行為は多発していました。そういった環境下で自分の家族と田地を守るために農民達が武装し、そして戦うための集団としてまとまりを持ち始めたことにより、武士の土台が作られることになります。
元々は農民が自衛のために武装を始めただけですから、平安時代には武士化した農民がどこぞの地域を制圧するといった事態はあまり起きなかったようです。平安時代初期にはまだそういった発想そのものがなかったのかもしれません。
ですが朝廷での出世レースに敗れた貴族達が地方に落ち延び、地域にあった武力と結びつくことで武士団が形成されていきます。貴族達になかった「武力」と、武士化した地元民達になかった「シンボルと目的」がガッチリと噛み合ったのでしょう。
半端に終わった平安京の造成事業
平安京として計画されていた区画は非常に広く、造営が開始されてから数年経った段階でも人家で埋まることはありませんでした。施設として予定されていた建物もあったようなのですが、ここで造営が停止されてしまったことで京内の発展もストップしてしまいます。平安京の西側に当たる右京(北にある平安宮から見て右にあるためです)はこの後も整備されることなく、室町時代の末期に起きる応仁の乱でさらに荒廃することになります。
応仁の乱についての記事はこちらからどうぞ。
ちなみに平安京の東側となる左京には藤原氏を始めとした有力貴族の屋敷が立ち並び、現存していないため見ることはできませんがいかにも平安時代な感じの家並みだったでしょう。左京の通りには貴族が乗る牛車が通行し、平安貴族達が優雅に往来することになります。そして仏教寺院も当然のように左京に建ち始め、左京では土地が足りなくなったため市街が東にどんどん伸びていきます。正方形の市街である唐の長安をモデルとして作られ始めた平安京は、時間が経過するにつれどんどんイビツな形へ変化していきます。
まとめ
今回の記事では、坂上田村麻呂による蝦夷征討と武士が誕生するキッカケとなった徳政相論についてのご説明をいたしました。
次回の記事では、桓武天皇が崩御した後に起きた遷都騒ぎと平安時代の主役・藤原氏が台頭していく場面についてご説明いたします。
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