坂上田村麻呂が武官になるまで
武芸専門氏族に生まれた坂上田村麻呂
坂上田村麻呂は奈良時代の中期となる758年に、坂上苅田麻呂(かりたまろ)の子供として生まれています。坂上氏は中国からやってきた渡来系の氏族であり、本当かホラかはわかりませんが、遡れば古代中国の王朝・後漢の霊帝の子孫であると自称していました。後漢と言えば三国志の少し前の時代に当たり、後漢の霊帝から600年近く後の子孫が坂上田村麻呂ということになります。
奈良時代に入った頃の坂上氏は藤原氏のような有力氏族ではなく、むしろ鳴かず飛ばずの典型的な没落氏族でしかありません。そんな中で坂上一族はなんとか朝廷内の官職にありつくため、ゴリゴリの武芸専門一族!という氏族のカラーを作り始めました。そんな特長づくりが功を奏したのか、田村麻呂の父・坂上苅田麻呂(かりたまろ)は上級武官にまで昇進することに成功しています。
父・坂上苅田麻呂の昇進
坂上苅田麻呂は藤原仲麻呂の乱にも出陣、敵を弓で射殺するなど大きな功績を挙げました。またその後には宇佐八幡宮神託事件を発端とする弓削道鏡の排斥にも関与、功績を挙げながら順調に出世街道を突き進んでいます。その過程で苅田麻呂は陸奥鎮守将軍に任命され、任地である東北地方、つまり蝦夷が住む地域のすぐ近くに赴任していますが、この時10代前半だった坂上田村麻呂も同行していた可能性があります。これはあくまで可能性でしかない話ではあるのですが、戦争の実績がない田村麻呂が後々の蝦夷征討で責任のある立場に抜擢されたことを考えれば、むしろ現地の知識を持っていた方が自然なように思えます。
藤原仲麻呂の乱や道鏡についての記事はこちらからどうぞ。
当時の東北地方の情勢は比較的平穏を保っており、朝廷と蝦夷との民族間の争いはほぼ起きていません。この時期の平和を享受していた東北地方で、子供だった田村麻呂は方々を駆け回り、当地の地理や気候・習俗をその身で体験したのでしょう。その後の苅田麻呂は平城京へと戻って順調な昇進を果たし、ついに上級貴族である公卿の仲間入りを果たしました。そんな中で田村麻呂も武官として仕官すると、その直後に桓武天皇が即位し東北地方の武力統治が取り沙汰され始めます。
坂上田村麻呂の蝦夷征討
大伴弟麻呂の副官として
蝦夷征討の総大将には大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が任命され、10万人からなる大規模な朝廷軍が編成されました。ここまで実戦経験が全く無かった坂上田村麻呂でしたが、この尋常ではない規模の征討軍に、なぜか副官という大きな責任を持つ立場として参加しています。このことについての根拠となる資料は残っていないのですが、田村麻呂の現地での知識が考慮された可能性は高いかなと思われます。
この征討軍は1年の間東北の平定に努め、そこそこの戦果を挙げたところで帰還を始めています。田村麻呂達が出発した頃にはまだ計画段階だった平安京の造営も、この頃にはすでに都市の体を成していました。新都に凱旋した田村麻呂は桓武天皇に戦果を報告、しばらくは休養ついでに都市造営の監督を勤めています。
征夷大将軍に就任して蝦夷征討へ
大伴弟麻呂の蝦夷征討が終わってから1年後、朝廷では再び東北地方平定の必要性が取り沙汰されました。今回の征討はかなり本気度が高かったようで、前回の征討で副官を務めていた坂上田村麻呂を蝦夷を討伐する将軍という意味を持つ「征夷大将軍」に任命、さらに東北地方全般の行政まで統括できる権限が与えられています。この時44歳の田村麻呂は5万という大軍の兵権を手にし、蝦夷征討のために平安京を後にして旅立ちました。
この遠征は1年にも満たない期間だけでしたが、幾人もの族長を降伏に追い込むなど大戦果を挙げています。田村麻呂は戦果報告のために平安京へ一旦戻ると、翌年には経営のために再び東北地方に舞い戻り、胆沢城を建設し政治拠点を作り上げました。すると侵攻に耐えきれなくなった蝦夷の大族長・アテルイも降伏、ここでようやく東北まで朝廷が影響力を持ち始めています。
蝦夷征討後の坂上田村麻呂
蝦夷族長・アテルイの処刑と清水寺拝領
坂上田村麻呂はアテルイを捕縛した後、朝廷への忠誠を誓わせるために平安京へ護送しました。近畿地方を中心とした朝廷と当時の東北地方では文化や習慣が異なるため、反乱の意思を持たない現地人に当地を任せるほうが効率的、という判断での護送だったようです。ところが公卿の会議でアテルイの信用性が議題に上がると、信用できないと判断され処刑されてしまいました。この結果かどうかはわからないのですが、この後の東北地方は反乱の頻発地帯と化し、長く朝廷を悩ませる存在となっています。
田村麻呂は桓武天皇のお気に入りであったのか、天皇の各地巡行のための宮殿を造営、また天皇の狩猟に同行するなど、かなりの頻度で桓武天皇ために動き回っていました。するとその働きが高く評価されたのか、公卿に列する昇進を遂げただけでなく、京都・清水寺を坂上氏のものとする公式な許可を受けています。田村麻呂は処刑された異国の族長・アテルイをも清水寺にて丁重に葬っていますが、この清水寺は幾度となく焼失と再建を繰り返した後、現代にまでその壮麗な姿を残しています。
徳政相論で蝦夷征討中止
アテルイ処刑後にも坂上田村麻呂は次なる蝦夷征討のため、各地に駅舎を造営し着々と準備に取り掛かっています。ところが度重なる蝦夷征討のために朝廷の予算は火の車となっており、また足りない分は国民への増税で捻出していたため、征討そのものの必要性が問われることとなりました。
この会議は後に「徳政相論」と呼ばれる程白熱したのですが、結局桓武天皇の鶴の一声で蝦夷征討は凍結され、田村麻呂は征夷大将軍の位を帯びたままではあれど、この後は東北地方へ向かうことはありませんでした。
蝦夷征討と徳政相論についてはこちらからどうぞ。
薬子の変を鎮圧
平安京への遷都を実現した桓武天皇が亡くなると、次代の天皇には平城天皇が即位しました。この天皇は即位前から結構女癖が悪かったようで、宮女として迎え入れた女性の母を気に入ってしまい男女関係を持っていたようです。この宮女の母は藤原薬子という人物でしたが、平城天皇の即位後は薬子の兄も朝廷で調子に乗り出し、皇族を追放するなどやりたい放題に振る舞っています。
そんな中で平城天皇は大病を患ってしまい、天皇の仕事を全うできないということで嵯峨天皇に位を譲り上皇となりました。ですが平城上皇は病が治ると再び権力欲をも取り戻したのか、過去の首都・平城京へと向かい、ここで天皇だった頃と同様に政治を執り始めています。さらに平城上皇は平安京から平城京への再遷都を目論みますが、さすがにこの事態に慌てた嵯峨天皇は坂上田村麻呂を派遣、事態の鎮圧にあたらせました。その期待に応えるかのように田村麻呂は薬子の兄を弓で射殺、そして平城上皇と共に関東へ逃げようとした薬子も捕えると、ようやく平城上皇も諦めて出家し事件は収束しています。
ちなみにこの「薬子の変」と呼ばれる事件での嵯峨天皇は相当不安だったらしく、当時売出し中の密教僧に祈祷を依頼していました。この時の密教僧こそが後に弘法大師とも呼ばれる「空海」であり、この事件をキッカケにして「空海」は日本仏教の頂点に立つことになります。
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平安京を守る守護神に
薬子の変が収束してから約一年後、坂上田村麻呂は病のために54歳で亡くなっています。嵯峨天皇は田村麻呂の死を非常に残念に感じていたようで、丸1日一切の政務を執らず、田村麻呂の功績を称える詩を作ったとされています。そして田村麻呂の遺体は立ったまま東を向いて埋葬され、死後も平安京を守る守護神として祀られ続けています。
数々の武勇伝を持つ坂上田村麻呂には、資料の少ない古代の人物であるにも関わらず異常な程の記録が残されています。身長や容貌についても細かな数字が残されており、なぜか胸板の厚さが36センチだの鋭い眼光や動きの機敏さについても言及されているため、これを記述した人は絶対に田村麻呂のファンかストーカーのどちらかでしょう。そんな熱烈な信者達は田村麻呂を軍神として崇め、この後に将軍職に就いた人物たちは必ず田村麻呂の墓参りをするという謎の慣習が生まれました。そして田村麻呂への敬意は貴族・武士だけでなく、文字の読み書きができなかった一般民衆にまで広まります。
近畿地方には田村麻呂の悪鬼退治の話が民間伝承としてそこら中に伝わっていますが、実は蝦夷征討で赴いた東北地方にも数多く残っています。むしろ東北では信者が多かったのか、田村麻呂が見つけた温泉!や、田村麻呂が休憩で腰掛けた石!など、それを特定して意味あるのかレベルの伝説が伝えられています。この伝説の大半は後世の創作であるようなのですが、そんな大量の伝説ができる程に坂上田村麻呂という人物が尊敬と憧れを集めていたのでしょう。数々の功績と後世への影響を残した英雄は、きっと今もなお京都の街と日本の国を守リ続けてくれています。
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