この記事では寺院や僧侶、または仏教的な習慣に対して若干批判的な内容を含んでいます。あくまで歴史的な事実としてご紹介しておりますが、不愉快な点などありましたらコメントにてご連絡ください。出来る限り善処いたします。
寺請制度とは
強制的に仏教信仰を義務付けた乱暴な(?)制度
現代の日本では人々の信仰の自由が認められていますが、江戸時代の頃はまったくそんなことはありません。江戸幕府はキリスト教といった外来の宗教をガチガチに取り締まり、仏教・神道以外の宗教は一切認めない方針を採っていました。中でも仏教は総本山といった言葉からもわかるように、ある程度組織化されていたため管理しやすかったようで、幕府が民衆管理をするための出先機関として活用されていました。
という訳で江戸幕府は日本中の人々に近隣の寺への入信を強要し、「宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう」で信徒をリスト化、これを徴税や民衆管理のための戸籍として使用していました。つまりお寺を現代で言うところの役所にした訳ですが、問題は「信徒にならない」ことが事実上不可能だったことです。
仏教徒にならなければ制裁が待ってます
人によっては地域で祀っている神様だけを信仰していた人もいたでしょうし、マイナーな新興宗教を信じていた人もいたでしょう。ですが寺請制度はそんなことはお構いなし、日本中のあらゆる階層の人に対して仏教への入信を強制しました。もちろん拒否もできたにはできたのですが、冗談では済まない程の過酷な茨の道が待ち構えています。
もし拒否した場合には家族ぐるみで「非人」というかなり悲惨な身分に落とされ、また地域の共同体からも相手にされなくなる「村八分」が待っているため、相当な覚悟がなければ拒否できる訳もありません。また仏教宗派には様々な宗派がありますが、それぞれ信じていた特定の宗派があった場合にも、強制的に地域で用意された手近なお寺に入信させられたようです。この幕府によるお寺を通じた管理体制は「寺請制度(てらうけ)」、あるいは「檀家制度(だんか)」と呼ばれ、現代日本にもガッツリと根ざし慣習化していたりします。
信仰心はいらないし腐敗まっしぐら
寺請制度ができたことで再建された仏教寺院
応仁の乱以降の戦国時代に多くの仏教寺院が破壊されましたが、江戸幕府が「寺請制度」を採用したことで急激に再建が進みました。当時も現代同様に個々のお寺は独立経営が基本ですが、仏教であれば宗派毎にそれぞれ教団組織を持っていたため、まとまった額で費用を用意しやすく再建もスムーズだったものと思われます。また幕府制度で完全に「お寺が必要」とされたため、元々お寺がない地域では住民の寄付で建築費用が賄われたケースもあったようです。
また住職になるお坊さんとしても「一定数の信徒が確実に確保できる」ため、僧侶の肩書さえあれば必死になって住職になれる場所を探したことでしょう。もし僧侶がいない場所を見つけたなら安定した収入が見込める上に、さらに感謝までされる至れり尽くせりな状況だった訳です。つまり江戸時代は寺請制度のせいで仏教に対する需要が異常に高く、現代風に言えば完全なる売り手市場となっていました。
圧倒的な強権を持つ寺院をさらに援助する「檀家」
こうして信徒になった地域住民は家単位で「檀家」と呼ばれましたが、「檀家」とは本来「寺や僧侶を援助する人」を指す言葉であり、つまりお寺は「援助を受けている立場なのに信徒を除名できる強権を持つ」、とんでもなくチートな存在になった訳です。
こうして何の努力もなく信徒が集まったお寺が次に考えることは、当然「どうやったらたくさんお金を取れるか」と言ったところでしょうか。という訳でお寺は檀家に対して様々な義務を付け加え、年に数度の付け届けという名の貢物、年忌や命日法要の強要、春秋のお彼岸のお墓参りなど、様々な名目を付けて搾取に走りました。お寺側は信徒に対して宗門人別改帳からの「除名」という切り札を持っていたため、お坊さんからの要望は常に脅迫と同じ効果を持っていたことでしょう。檀家は寺からの脅迫めいた要求を拒否することなどできず、そのためかお坊さんの乱行騒ぎやら汚職は跡を絶たなかったようです。
寺請制度が成り立った理由と経緯
豊臣秀吉の宗教政策はかなり緩め
江戸幕府がこの寺請制度を250年も続けた理由としては、やはりキリスト教に代表される「邪宗門」、つまり邪悪な宗教の排除、そして管理しやすい仏教を使った安定した統治が主な目的でした。1,549年に伝来したキリスト教は近畿や西日本で信徒を集めていましたが、特に多かった九州の長崎では改宗しなかった人々がなぜか「異教徒」扱いされる異常な地域となっていたようです。そして「異教徒」が奴隷として連れ去られた例すらあったため、それを聞いた豊臣秀吉は「バテレン追放令」でキリスト教宣教師の追放を図りました。
とは言えもともと「バテレン追放令」は日本人信者を対象としておらず、キリスト教をバラ撒く元凶の宣教師だけが追放の対象です。ですが悲しいことにキリスト教を取り締まった途端、当時の貿易相手だったポルトガルやスペインとの貿易量が激減してしまいました。するとお金の匂いに敏感な豊臣秀吉は即座に方向転換、一転してキリスト教に対してマイルドな態度をとり始めています。という訳で豊臣政権は宗教に対してはかなりアバウトだったのですが、関ヶ原の戦いに勝利し、江戸幕府を立ち上げた徳川家康は全く別の構想を持っていたようです。
寺請制度は徳川家康の苦い思い出でできた?
江戸幕府の創立者は言わずと知れた徳川家康ですが、この人物は意外と宗教関連で大ピンチに陥った経験があります。徳川家康の若かりし頃は本拠地を三河国(愛知県南部)としていましたが、当時のこの地域は浄土真宗が盛んで信者もかなり多めでした。そんな中で徳川家康は国内統治の一環として寺社の締め付けを図りましたが、これに反発した浄土真宗が一斉蜂起し大規模な一揆が発生しています。この三河一向一揆はかなり特殊な特殊な条件下で起きたためか、なんと徳川家の家臣も多く一揆勢に参加して家康と戦っており、この時家康は宗教が持つパワーを初めて目の当たりにしたのでしょう。
徳川家康はその後に起きた織田信長の比叡山焼き討ち、また浄土真宗との戦い・石山合戦のことも当然聞き及んでいたことでしょう。当時すでに日本一の勢力である織田信長にも牙を剥いた「宗教」というものに対し、徳川家康は底知れない恐れを抱いていたのではないでしょうか。だからこそ自身が政権を立ち上げたら宗教をキッチリ管理したい、という意図でできた寺請制度なのでしょう。豊臣秀吉の宗教政策がかなりガバガバだったこともあり、徳川家康としてはガチガチに取り締まる必要もあったと思われます。
三河一向一揆を含む徳川家康の三大危機はこちらからどうぞ。
民衆の余裕が生まれたことで必要になった「菩提寺」
寺請制度は僧侶の汚職と葬式仏教化を招いた政策ではありますが、「寺」という宗教的な権威と立派な建物、そして故人を安らかに埋葬するための場所を住民が求めた側面もあります。戦乱で荒れ果てた地域が復興するにつれ、その時の家族だけでなく代々受け継ぐべき墓所を置く「菩提寺(ぼだいじ)」の必要性が高まりました。それゆえに寄付金を募って寺を建てた地域もあった程で、幕府政策の一環というだけではなく住民の需要も少なからずあったようです。
江戸時代の250年を過ぎて明治時代に入って以降、そして現代でも「檀家」の制度が残っている地域は結構多いのではないかと思います。かく言う筆者の実家も普通に檀家になっていますし、お寺の改築なんかの話があると普通に寄付金を出していたりします。すでに葬式仏教となっていることは多くの人が理解しているでしょうし、その上でお寺を支えるために進んでお布施を払っている人もいるでしょう。これからの仏教がどのような変化をしていくのかはサッパリ見当が付きませんが、人々の先祖や家族・地域を想う気持ちは今も昔も大して変わりませんよね。檀家の経済的な負担とお寺側の管理負担がちょうどいい所で、両者が納得できる所で折り合えたらいいなと思います。
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