摂政とは天皇の代わりに政務を執る役職

臣下初の摂政となった藤原良房 用語集
臣下初の摂政となった藤原良房

摂政とは

天皇が幼い場合や長期に渡って病に倒れている場合に、天皇に代わって政務を執る役職を指します。摂政は判断力を伴わない天皇の代理として執務を執るため、天皇の補佐が主な役割となる関白とは異なり、最終的な決定権を持つという特徴があります。現代でも天皇が急な病気や事故があった場合に備え、摂政に就任する皇族の順位が決められています。

摂政の役割

第二次世界大戦と明治維新という2つのタイミングで摂政が持つ権限は多少変わっていますが、概ねどの時代でも天皇の職務を代行するという職務とされています。日本近代でも大正天皇が重病に倒れた際、即位前の昭和天皇が摂政としての務めを果たしています。

明治維新前の摂政も、儀式においても天皇と同じ役割を果たす、朝廷に仕える臣下の官位を決める・与えるなど、職務としては天皇と同じとなります。また天皇からの命令書となる「詔書」を書き記す役目も持つため、摂政に就いた人物は一時的とはいえ多大な権力を手にすることになります。ですが摂政とは言えあくまで臣下という身分のため、内裏にある清涼殿といった建物は、天皇の同伴がある時のみ使用できるといった制約はあったようです。

摂政の歴史

初の摂政は聖徳太子

日本で最初に摂政に就任した人物は、飛鳥時代の女帝・推古天皇の時の聖徳太子となります。元々敏達天皇の后だった推古天皇は、自身の子を即位させるまでの中継ぎとして天皇位に就いており、他者に天皇位を渡さないという理由で即位しています。そのため皇太子として次代の天皇位に就くべき、聖徳太子が政治の実権を握るという構図が生まれています。実際には聖徳太子は即位することはありませんでしたが、蘇我馬子や推古天皇と協調しながら日本の政治体制を大きく進歩させています。

聖徳太子についての記事はこちらからどうぞ。

推古天皇の時代に始めて設置された摂政は、あくまで天皇が政務を執らない、または執れない場合限定の臨時職扱いとなっていました。その後平安時代に至るまで何人もの摂政が誕生していますが、設置されていない時期もかなり多くあります。また平安時代までは摂政と言えば皇族がなるものとされ、藤原氏を始めとした臣下達には与えられない特別な職分とされています。

日本初の摂政・聖徳太子
日本初の摂政・聖徳太子

藤原道長以降は常設職に

平安時代も中期に差し掛かった頃、藤原北家という藤原氏の一派が朝廷内で大いに幅を利かせ始めます。藤原北家の藤原良房は皇族出身の妻を迎え、皇族との繋がりを基に太政大臣という人臣最高の位に昇りつめ、さらに娘の明子を文徳天皇の后とすることに成功しています。明子が無事に皇子を出産したことで時代の天皇の外祖父となる良房の権力が拡大、この皇子が幼くして清和天皇として即位すると、良房は摂政として清和天皇を後見する形で政治を取り仕切る役目を担っています。

良房から数えて5代後となる藤原道長も、一条天皇に娘を嫁がせる形で外祖父の立場を得て、後一条天皇の摂政に就任しています。藤原道長のすごいところは摂政職を1年ほどで自ら退き、息子の藤原頼通へ譲り渡したことでしょう。道長親子の譲渡の事例が作られたこと、また道長の系統がこれ以降も繁栄を続けたことで、臨時職だったはずの摂政や関白がいつの間にか常設職に置き換わっています。慣例を最重視する朝廷での出来事であるためか、なぜか摂政に就任できるのは道長の子孫だけ、という暗黙の決まりごとまで出来上がっています。この摂政・関白に就任できるのは道長の子孫だけという決まり事は明治維新まで継続されており、唯一破られた例は戦国時代の末期、豊臣秀吉が甥の秀次に関白を譲り渡した1例のみ(秀吉は近衛家養子のためセーフ)となっています。

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