石高制に移行するキッカケとなった豊臣秀吉の太閤検地

その他考察
太閤検地事業を推進した豊臣秀吉さん

太閤検地に至るまで

戦国時代当時の納税事情

戦国時代の大名達はそれぞれ独自の国内統治を行っているため、当然課税の内容や税率も異なっていました。特に税率については大名ごとの差が激しく、例えば後北条氏の四公六民(収穫高の40%が税)といった良心的な税率の所もあれば、四国の長宗我部氏のように二公一民(収穫高の66%が税!)というエゲツナイ税率を課していた大名家もあります。

また、当時の支配構造は結構ややこしく、大名とは別に、国人や地侍、浄土真宗や天台宗といった寺社勢力にも納税していた地域もあったようです。そういった場合には当然ながら重複で取られていた訳で、これはもう結構な地獄ですよね。

お金に換算された土地の価値

まあ苦しむ民衆の方々は一旦置いておいて、税を搾取する側の人間としては、「ここの土地からは大体このくらいの米が取れる」という目安が欲しいですよね。これは計画的な事業をやるためには必要なことですし、家臣に土地をあげる場合にも、「価値」を明らかにしないと有り難みも薄めです。

そんな種々の事情があったので、当時は「貫高(かんだか)」と呼ばれる収穫高の概算値が使用されていました。これは収穫高をお金に換算した場合の金額、つまり土地の生産力をお金に換算して把握していた訳で、この貫高をベースにした土地の制度は「貫高制」と呼ばれています。

限界を迎えた貫高制

とは言え今も昔もお米の値段は相場価格であるため、地域に流通しているお米の量によって値段が上下するのが当然です。物流が整備された現代ではほとんど地域差はありませんが、戦国時代当時は毎年の収穫量だけでなく地域によっても米の値段は全然違います。

また貫高通りの税収があっても毎年同じ値段で売れず、そしてそもそも日本で貨幣が不足していたという事情もあり、換金を前提としていた貫高制は織田信長の時代あたりですでに限界を迎えていました。

鎌倉時代あたりから織田信長の頃までの貨幣事情はこちらからどうぞ。

太閤検地は織田信長の検地政策を引き継いでいます

織田家が勢力圏を拡大していくにつれ、織田信長が推進した「悪銭(ビタ)」を基準とする貨幣制度も合わせて浸透していきました。そんな中で信長は税の取りっぱぐれがないように、支配領域の「検地」を行って土地の生産力を再確認し、そこで算定された「貫高」を基準に功績のあった家臣に所領を与えました。実はこの時の「検地」奉行に羽柴秀吉も含まれており、秀吉はこの信長から学んだ管理法をさらに進化させています。

秀吉が豊臣姓を名乗り関白に就任すると、全国の石高を測定し直す検地事業を開始しました。この「太閤検地」は秀吉が明智光秀を倒した山崎の戦いが終わるとすぐに開始されており、秀吉の晩年まで16年もの歳月を掛けて行われています。ちなみにこの名称は、中国では関白という役職が「太閤」という呼ばれ方もされるということで、「太閤がやった検地だから太閤検地」というダイレクトなネーミングとなっております。それでは太閤検地の特徴や、その後に起きた日本への影響をご説明したいと思います。

天下を統一した豊臣秀吉ならではの太閤検地

自己申告ではなく五奉行主導の計測

太閤検地がこれまでの戦国大名のものと大きく違う点は、豊臣家の圧倒的な武力を背景とした強制的な検地だったことです。戦国大名は地域の村や国人達の協力を得て戦争に臨んでいたため、強制的に検地をして脱税を防ごう、なんてことをすれば地域ごとソッポを向かれて戦力ダウンする可能性がありました。そのため戦国時代は指出検地と呼ばれる形式が一般的で、要するに住民からの「大体このくらいです」という申請を鵜呑みにしていた訳ですね。

太閤検地に貢献した石田三成

ところが太閤検地では豊臣秀吉の家臣達がわざわざその土地まで来訪し、面積を測った上で土地の「質」の評価まで行いました。この調査作業には石田三成・長束正家・増田長盛・浅野長政など豊臣政権の五奉行主導で行われ、土地の石高だけでなく絵図まで資料として作成されています。この作業は天正年間から文禄年間、そして慶長年間まで継続して行われていますが、ここで出された土地の評価は全て「石高」で表されました。

豊臣政権の五奉行はこちらからどうぞ。

石高制への移行と基準の一律化

織田信長だけでなく戦国大名の多くは「貫高制」を採用してはいましたが、もちろん全ての大名家が同じではありません。そして戦国大名達は支配領域の拡大と縮小を繰り返すため、地域によっては統治方法もその都度コロコロと変わっていた訳です。ですがそこは天下統一政権の豊臣家、地域によって異なっていた土地の評価を「石高」に統一しました。これによって「貫高制」から「石高制」に自然と移行しており、米を主体とした税制は江戸時代にまで引き継がれています。

石高や尺貫法についてはこちらからどうぞ。

また「全国の土地の価値評価法が一本化された」ことに加えて、太閤検地は思わぬ副産物をも生み出しました。東アジア圏では中国発祥の「尺貫法」が使用されており、長さや面積、体積や重量は全て「尺貫法」で表されていました。とは言え日本では長さの基準となる尺、つまりモノサシそのものが時代や地域によって異なっており、また体積を計るための「枡(ます)」も地域差がありました。ですが豊臣家の役人によって全国的に同じ条件で測量されたため、この時から長さや面積、体積といった基準は日本中どこでも同じものが使用されるようになっています。

  • 6尺3寸=1間(けん)=191㎝
  • 1間×1間の面積=1歩(ぶ)
  • 30歩=1畝(せ)
  • 10畝=1反(たん)
  • 10反=1町(ちょう)

wikipedia:太閤検地のページより抜粋

複雑な権利関係の整理を模索するも

戦国時代当時の農民は一人ひとりが領主に対して納税せずに、村単位で税を納める形式が一般的でした。農民から有力農民や村の代表に税を納め、そこでピンハネがあった後に領主へと納税されるため、つまり領主は目減りした税を受け取っていた訳です。もしくは領主にキッチリとした税を納めようとすれば、当然農民は本来の税率以上を納める必要がある訳で、領主か農民のどちらかが割を食う仕組みとなっていました。

太閤検地ではこのような多重的な搾取構造の解消も目指し、土地に対して一人の納税者を設定しようと試みたようです。ですが残念ながらこの試みは実らず、地域に根づいた風習が残ってしまい、ピンハネのある複雑な関係は継続されました。そのため領主に向けた帳簿と実際の関係まで記した帳簿が別に作成されるという、村社会の闇を残したまま江戸時代に突入しています。

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