羽柴秀吉の中国大返しと山崎の戦い

山崎の戦い古戦場にある石碑 安土桃山時代
山崎の戦い古戦場石碑

山崎の戦いに至るまで・羽柴秀吉編

本能寺の変当時の羽柴秀吉

ほぼ天下人・織田信長が本能寺の変で倒れた頃、羽柴秀吉は中国地方の毛利家攻略の真っ最中でした。そもそも明智光秀は秀吉の応援に向かうという名目で軍を動かしており、そのため京都を通過すると見せかけての襲撃に成功、誰にも邪魔されず信長を討ち取っています。その本能寺の変が起きた6月2日、秀吉は備中国(岡山県西部)の高松城という城を、水攻めという城を水浸しにする方法で攻め続けていました。

本能寺の変についてはこちらからどうぞ。

秀吉による高松城の水攻めが続いていた6月3日の夜、1人の使者が信長の死を告げる密書を持って秀吉の陣に飛び込んできました。秀吉は信長の死を悲しみ復讐心に燃えたのでしょうか、それともあまりの好機に大喜びしたのでしょうか、心中はわかりませんが即座に行動を開始しています。ちなみに秀吉陣営に入った手紙は明智光秀から毛利家に向けた密書だったようで、この届け先を間違えるというウッカリミスがその後の日本を変えたのかもしれません。

事態を把握していない毛利家と和睦

本能寺の変の報せを受けた羽柴秀吉は、すぐさま何も知らない毛利家との和睦を開始しています。もし毛利家が本能寺の変を知ったとしたら、徹底抗戦や光秀との挟み撃ちの危険すらあるため、情報が伝わっていない間に話をまとめてしまおうという作戦ですね。すでに備中国まで侵攻を進めていた秀吉率いる織田軍に対し、毛利家は有効な対抗手段がないままズルズルと後退を続けている状態でした。そんな状況下で秀吉からの和睦の提案を受けた毛利陣営は、かなり織田家にとって有利な条件で和睦を受け入れています。

切腹のイメージイラスト
1人の命で全てを済ませた備前高松城城主・清水宗治

秀吉が提示した和睦条件の中には、水攻め真っ最中の備中高松城城主・清水宗治の切腹も含まれていました。毛利家は忠義に篤く水攻めにも怯まない清水宗治だけは助けるよう願い出ますが、早く京都へ駆けつけたいはずの秀吉はこの要求を拒否、結局毛利家が折れる形で話が決着しています。秀吉にとっては変に条件を譲歩してしまうと逆に怪しまれるといった考えだったのでしょうが、少しでも京都へ急ぎたい状況下でこの腹芸は見事と言うしかありませんね。そして切腹を見届けた秀吉は城を囲んでいた堰を決壊させ周囲を水浸しにし、毛利家が追撃しづらい状況を作ってから京都への道を急ぎます。

疾風怒濤・中国大返し

中国大返しのイメージイラスト
※あくまで中国大返しのイメージです

備中高松城から京都の山崎まで、約200キロに渡る羽柴秀吉軍の行軍は、後世において「中国大返し」と呼ばれる程の凄まじいスピードで走破しきっています。スタートしたタイミングについては諸説がありハッキリとはわかっていませんが、6月3日の夜に信長の死を知ったこと、そして6月12日には京都近くの山崎という地に着いていることだけは確かです。毛利家との和睦交渉がどれ程スムーズに進んだのかはわかりませんが、どんなに早くとも6月4日の午後くらいの出発、ですが交渉や支度の時間を考えれば6日頃の出発が妥当でしょうか。1週間で200キロを徒歩で走破したとすれば時速4キロとして50時間、つまり1日7時間程歩けば辿り着いた計算になりますが、実際の状況はもう少し過酷だったものと思われます。

6月という梅雨にあたる時期の出来事であり、実際行軍していた間も雨が振り続けていたようです。現代のようにアスファルトで舗装されているはずもないため、雨天時の地面のぬかるみ具合は相当なものだったでしょう。そんな状況下で毛利軍の追撃を振り切るために最大スピードを出した2日目には、なんと70キロという距離を一日で走破した凄まじい記録が残っています。箱根駅伝の3.5区間分を、悪天候の中で重い武装を身に着け、さらに敵を警戒しながらも1日で走破したという、もはや奇跡レベルの偉業を達成しています。そして行軍序盤は飛ばしていた羽柴軍でしたが、京都に近づくにつれスピードを落とし、京都近辺の武将に根回しをするという芸の細かさも見せつけています。

中国大返しの状況考察

前後間隔を1メートルとして、2万人が横に4人並ぶ隊列で行軍したとすれば、1列は5000人ということで縦5キロの長大な列ができることになります。前が進まなければ当然後方の兵も進めないため、先頭が進み始めてから最後尾が進み始めるのは大体1時間後くらいでしょうか。その後方の部隊が進み始める頃には、雨でぬかるんだ所を前の連中に踏み荒らされた、ドロドロの道が出来上がっていたことでしょう。

泥道のイメージ写真
ここを2万人の兵と大量の荷馬車が通り過ぎたら大変なことになりそうな気がしますね

そんな極端に身動きしづらい状況で隊列を組みながら京都に辿り着き、2万人の兵の大半がヘトヘトだったにしろ普通に山崎の戦いに参加しています。我々現代人では到底考えられない行軍スピードではありますが、当時の感覚でも図抜けて速かったものと思われます。実際に明智光秀は羽柴秀吉軍のあまりに早い到着に驚き、そして不十分な態勢のまま戦うことを強いられています。「兵馬は神速を尊ぶ」なんて諺がありますが、秀吉の「中国大返し」はまさにそれを実現したものと言えるでしょう。

それでは次に、本能寺の変後の光秀にスポットライトを当てたご説明をしたいと思います。

山崎の戦いに至るまで・明智光秀編

信長の遺産で新政権の土台を

本能寺の変を起こした明智光秀の次なる動きは、天下人としての地盤固めと、そして自身を狙うであろう織田家家臣達への対処でした。柴田勝家や羽柴秀吉・滝川一益といった大軍を持つ織田家の軍団長は、領土を拡大するためにそれぞれ地方で戦いを繰り広げている状況です。信長の死を知ったところで敵との交戦真っ最中に京都へ向かえるはずもないため、光秀は時間を掛けてまず安土城を押さえる所から着手しています。

光秀は安土城へ入城すると、織田信長が所持していた金銀財宝や名物とされていた茶器を強奪し、家臣や味方していた武将たちに与えています。そして奪った金銀の一部を朝廷に贈り、また有力な寺院に対しても同様に金品を贈っています。まずは朝廷に逆賊扱いされないように配慮し、そして朝廷にも影響力の強い寺院にお金を贈ることで好印象を植え付けるという、かなり回りくどい手段で明智政権の土台作りをしています。

味方が全く集まらないうちに

人気集めと平行して、光秀は戦力となる味方集めにも奔走しています。光秀の娘婿となる細川忠興やその父・細川幽斎、そして大和国を丸々領有していた筒井順慶など、有力な武将たちに片っ端から勧誘の声を掛けて周りました。

ところが光秀と日頃から仲が良かった細川親子を始めとして、織田家で有力な武将が光秀に味方することはありませんでした。今更のようにも感じますが、織田家家臣にとって光秀はあくまで主君を討った謀反人であり、織田家家臣全てから狙われ続ける「そのうち滅亡する人」だったのでしょう。織田家の敵勢力なら「敵の敵は味方」理論で光秀に味方する可能性もあったのでしょうが、あいにくこの時点で光秀がいる近畿圏に織田家の敵は存在しません。遠方の上杉家や毛利家に味方になるよう使者を送ってはいますが、あいにく毛利家への使者が秀吉陣営に飛び込んだことは上の見出しにある通りです。

味方集めに失敗し続けているうちに、羽柴秀吉接近の報告が光秀に届きました。光秀は慌てて手当たり次第に織田家家臣を口説いて回りますが、秀吉の根回しの甲斐もあり、むしろ羽柴軍に味方する武将が続出します。そして丹羽長秀や池田恒興といった織田家宿老が合流し、3万を越える数に膨れ上がった羽柴軍が京都に迫ると、態勢不十分なまま光秀は山崎の地を決戦の場に選び迎え撃ちます。

山崎の戦いと明智光秀の最期

この時3万越えの羽柴軍に対し、明智軍は1万余りの兵力で対峙しています。羽柴軍は中国大返しという強引な行軍で山崎に辿り着いているため、まともに戦闘などできない程に疲労していたでしょう。ですがこの時点での一番大きな軍は羽柴軍であったため、ここで羽柴秀吉は織田家の宿老・丹羽長秀を押しのけて総大将になっています。6月13日の夕方に差し掛かる頃、総大将になった秀吉は疲労していない丹羽長秀や池田恒興、また京都近辺で合流した武将たちの兵を主力として突撃すると、短時間で明智軍の主力部隊を打ち破り勝利を飾っています。

敗走した後の光秀は、少数の供回りと共に自身の拠点である坂本城へと向かいました。時間はすでに夜、夜陰に紛れて坂本城へ落ち延びる明智光秀は、落ち武者狩りの農民が突き出した竹槍で重症を負い、その場は逃げることができたもののその後すぐに自害しています。光秀はさすがに「三日天下」と言うほど短くはないですが、10日という束の間の天下人となった後に敢え無く果てています。織田信長の殺害を悔やんだのか、それとも僅かな間ながらも天下人という立場に達成感を覚えたのか、それは光秀本人にしかわからないことでしょう。

戦後の織田家

主君の敵討ちが無事に済んだため、この後は当然ながら織田家の後継者争いが待っています。すでに家督を継いでいた信長の長男・織田信忠も本能寺の変で倒れていたため、織田家は根本的なところから体制を作り直す必要がありました。元々織田家は信長というカリスマの意志で全てが動いていましたが、次男・織田信雄や三男・織田信雄が同じ体制をとるには、実績も能力も不足していることは誰の目にも明らかという状態です。そのため家督は信勝や信孝が引き継ぐことはまあ問題ないとして、織田家の「舵取り」を誰にするかという問題が浮上してきます。

織田家の宿老筆頭という立場にいた柴田勝家は、数年前から上杉家攻略のために北陸方面の指揮に当たっていました。勝家は本能寺の変が起きた2日後には信長の死を知ってはいたのですが、上杉軍の妨害に遭い結局山崎の戦いには参加していません。勝家とは対象的に、秀吉は中国大返しという離れ業をやった後に、さらに総大将として主君の敵討ちに成功しています。織田信長という偉人の跡を継いで実質的な天下人を決めるための戦いは、次回記事・「清州会議」で静かに行われます。

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