日本に栄西が持ち帰った鎌倉仏教の一つ・臨済宗

用語集
日本での臨済宗の宗祖・栄西

臨済宗は鎌倉仏教の一つとされる禅宗の一宗派です

中国で始まった禅宗は様々な宗派に分かれ、そのうちの一つが栄西(ようさい)が宋から持ち帰った臨済宗です。同じ鎌倉仏教でも禅宗は浄土宗のように「信者を極楽浄土へ導く」ことを教義にしておらず、自力で努力して「悟り」を開くことを目的としています。その禅宗の中でも様々な方法論が提唱されていますが、臨済宗は師弟関係による禅問答、つまり師匠からの問を「考え抜くこと」で「悟り」を得る宗派となっています。

鎌倉仏教についてのまとめはこちらからどうぞ。

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禅宗・臨済宗の特徴

禅宗の目標は悟りを開くこと

曹洞宗や臨済宗を含む禅宗は、自らの力で「悟り」を開くことを根本的な目標に掲げています。では「悟り」とは具体的に何なのかと言えば、これが非常に解釈しづらく、一応言葉にするならば「全ての生き物が持っている仏性に気付くこと」を意味しているそうです。ただこれだけだとイマイチというか全く分からないため、多分ではありますがその境地に至った者だけが理解できる感覚なのではないでしょうか。

ですがそもそも禅宗における「悟り」とは言葉ではなく感覚的、そして体験的に理解していくものと定義されていますので、言葉だけで表現すること自体が間違っているのかもしれません。ともあれそんな超感覚を持った人を目指しましょうね、というのが禅宗ということになります。

「ブッダ」とは「悟った人」の意味です

臨済宗は師匠と弟子の関係を持ち「悟り」に導く

そんな禅宗の一派となる臨済宗は、「悟り」を開くための方法を「師匠と弟子」の間で継承し続ける特徴があります。弟子となった者は師匠に己の考え方をぶつけ、質疑応答をやり取りする中で「悟り」へのヒントを得ようとした訳です。臨済宗では基本的に師匠と弟子のやり取りは秘密とされ、話の内容だけでなく「悟り」を開いたかどうかすら公開しない、ある意味秘密主義な宗派だったりします。

難問を考え抜くことで悟りを目指す禅問答

では師弟間で実際にどのようなやり取りがされていたのかと言えば、師匠は弟子に対して非常に難解な問を出し、弟子はそれをひたすら考えて答えていたようです。その問いかけは単純に難しいというかシンプルに訳が分からないものばかりで、「悟りは言葉では言い表せない」を地で行く内容となっております。こういったやり取りを「禅問答」と言うのですが、幸いにも当時の臨済宗で用いられていた例題みたいなものが残っておりますので、ひとつ引用してご紹介したいと思います。

片手での拍手の音を聞いてみてください。

もうどこから突っ込んだらいいのか分からないレベルの問ですが、こういった問に対して誠実に「考えて考えて考え抜く」、これこそが臨済宗の教義とも言えます。とは言えこんな問はまともに考えてもどうにもならないため、弟子達はトンチを混じえて解答をヒネり出していたのでしょう。この例題のように名作として残っている問も多くあるのですが、時には師匠が編み出したオリジナルの問もあったようです。

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栄西による臨済宗の輸入と鎌倉での繁栄

北宋に渡って臨済宗を学んだ栄西

「悟り」を開くことをメインテーマに据える禅宗自体は、「ダルマさん」のモチーフとなった達磨大師によって6世紀前半には始まっています。その後禅宗からはいくつもの分派が興っていますが、臨済宗は9世紀の唐の末期頃に「臨済」という和尚によって立ち上げられました。

ダルマさんは達磨大師がモチーフに

臨済宗の日本での宗祖は栄西という僧侶ですが、この人物は比叡山延暦寺で密教を学びはしたものの、当時の仏教界の堕落っぷりに絶望していたようです。そんな栄西の想いと、そして大寺院からの口出しに辟易していた平氏政権の利害が合致し、平氏の援助で栄西は渡海することになりました。ですが栄西が臨済宗を学んで戻ってきた頃にはすでに平氏政権はなく、代わりに鎌倉幕府が成立し武士の時代が始まっていました。この頃の日本にとって禅宗はまだまだ未知の分野ではあったのですが、この新たな仏教宗派は幕府と相思相愛の関係を結ぶことになります。

鎌倉幕府の権力者に支持を受けた臨済宗

宋から戻った栄西は京都での布教を試みましたが、やはりというか既存の仏教宗派から牽制され、時には比叡山延暦寺や奈良の興福寺から迫害を受けることすらあったようです。そんな状況に嫌気がさした栄西は、既存の仏教がうるさい京都を離れ、新たに武家政権が興った鎌倉の地へと向かいました。

栄西が鎌倉に着いてすぐに源頼朝が亡くなっていますが、2代目鎌倉殿源頼家は臨済宗と栄西を手厚く扱いました。頼朝の一周忌の際には栄西を導師として招き、また北条政子が建立した寿福寺の住職にもなり、京都の有名寺院・建仁寺も源頼家の斡旋で建てられています。その後も臨済宗は執権北条氏や御家人達と深く結びつき、鎌倉五山と呼ばれる「建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺」という最高の格を持つ寺院は全て臨済宗の寺院だったりします。

鎌倉の超有名寺院・建長寺

室町幕府の衰退とともに臨済宗も衰退

鎌倉幕府の後継とも言える室町幕府でも臨済宗は支持されていたようで、初代将軍・足利尊氏は夢窓疎石(むそうそせき)という僧侶に弟子入りする程でした。また「枯山水(かれさんすい)」に代表される禅宗様式の庭園も武士に好評だったようで、各世代の室町将軍たちも競うようにして美しい庭園付きの寺院を建立しています。ですが応仁の乱や明応の政変が起きたことで室町幕府そのものが弱体化すると、庇護者を失った臨済宗も次第に衰退していきました。とは言え教団としての力こそは失いはしたものの、禅の精神はすでに人々の生活に根付いており、建築や美術品、懐石料理といった食文化や服装に至るまで、現代でも様々な分野で影響を受けています。

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臨済宗の有名人

完全なる破戒僧・一休宗純

絶対に一癖ありそうな一休宗純さん

テレビアニメ「一休さん」でお馴染みの一休宗純ですが、この人物は作中に出てくるような可愛げのある小坊主どころではありません。当時の仏教界では僧侶として出家した者には厳しい戒律が課されていましたが、この一休は肉食・性交・飲酒は当たり前という戒律無視の日々を送っていたそうです。本人としては「腐敗している仏教界を批判するため」だったそうですが、不思議と一休のヤンチャっぷりは民衆にウケたようで、江戸時代には様々な創作のネタとして用いられました。ちなみに一休は浄土真宗の中興の祖・本願寺蓮如と親交があったようで、蓮如が持っていた阿弥陀如来の像を枕にして寝ていたこともあったとか。全くもって手に負えないけど全然憎めない、現実の一休さんはそんな不思議な魅力のある人物だったのかもしれませんね。

タクアンと言えば沢庵宗彭

毎日の食卓にちょっとした彩りを添えてくれるタクアン漬けですが、この漬物の名称由来とされているのがこの沢庵宗彭(たくあんそうほう)です。沢庵は権力者の前でも一切怯まず、また受け答えの一つ一つが面白く的を射ていたようで、江戸幕府の3代将軍・徳川家光をも弟子にするという名誉にあずかっています。ですが沢庵本人はあまり権力に興味がなかったらしく、大徳寺という大寺院の住職になった際に3日で辞めるというプチ騒動を引き起こしています。

肝心のタクアンの話に戻りますが、徳川家光が東海寺にいた沢庵を訪れた際、沢庵が出したものがこのタクアン漬けだったそうです。その漬物を気に入った徳川家光が「これタクアン漬けって呼ぼう!」と叫んだかどうかはわかりませんが、一応こんな経緯で名前が付いたとのことです。とは言え漬物の名称がどうのということよりも、むしろ将軍が気軽に訪れることの方が凄い気がしてしまいますが。

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