将軍より偉そうな日本史における大御所

用語集
大御所として実権を振るった徳川家康

大御所とは

引退した将軍が大御所と呼ばれます

それぞれの時代の幕府において、将軍を務めていた人物が引退すると大御所と呼ばれます。この尊称は武家政権初期の鎌倉時代にも使われた記録があり、執権北条氏が残した歴史書「吾妻鏡」にも登場しています。

現職将軍の実父であることが条件

ただ将軍を引退しただけでは大御所とはならず、そう呼ばれるためにはもう一つ条件があります。それは次の将軍が引退した人の実子である場合、つまり現職の将軍の実父である必要があります。

という訳で、将軍職を自分の子供以外に譲った場合は大御所にはなれません。まあこんなことは我々現代人にとって非常にどうでもいいのですが、一応言葉の定義としては、「将軍職を務めたことがある、なおかつ現職将軍の実父」ということになります。

【GOM Mix】簡単に使える無料動画編集ソフト

その他の大御所

朝廷でも大御所という尊称が使われることがあり、天皇家の後継者たる「親王(しんのう)」が隠居した場合がそれに当たります。実際に天皇の座に着いてから隠居すると「上皇」になるため、皇太子の立場のまま隠居というのがポイントですね。

ちなみに、摂政関白に就いた人の実父が大御所扱いされたケースもあるらしいのですが、資料もほとんどないのでこの辺は参考までに。

現代の大御所は別の意味

現代において政界の大御所、芸能界の大御所なんて言葉をしばしば見掛けますが、この場合はもちろん将軍も血縁も関係ありません。こちらは特定の分野で大きな功績を残した人が第一線を退いた後、まだまだ影響力を持ち続けている場合に用いられるようです。

でもなんとなくこんなイメージですよね

日本史における大御所

室町時代と言えば足利義満

大御所として権勢を振るった最初の人物は、室町幕府の3代将軍・足利義満です。この人物は若くして将軍に就任するとすぐさま南朝勢力を打ち破り、南北朝の統一に漕ぎ着けた歴史的な偉人でもあります。

地味に歴史を大きく変えた男・足利義満

この足利義満は40歳を前にして急に辞職し、嫡男である足利義持に将軍位を譲り渡しました。とは言えその後に「日本国王」として「明」との国交を開始していますので、まだまだ自分が日本のトップである、また周囲にとっても足利義満がボスという認識だったのでしょう。

江戸幕府の初代と2代目も大御所に

関ヶ原の戦いを制して江戸幕府を樹立した徳川家康ですが、実は征夷大将軍としての在任期間はわずか2年しかありません。というのも、家康としては「徳川一族が代々将軍を務めますよ」と世間にアピールしたかっただけであり、隠居するつもりなんてサラサラなかったものと思われます。

事実、その後に起きた「大坂の陣」でも徳川家康が軍を指揮しており、将軍であるはずの徳川秀忠は大して目立たないままに終わっています。ちなみに秀忠も「オヤジのやり方いいな!」と思ったのか、元気なうちに3代目の徳川家光に将軍位を譲り、大御所として実質トップの地位に居続けています。

父のやり方を丸パクリの徳川秀忠さん

最後の大御所となった11代将軍・徳川家斉

松平定信を失脚に追い込んだ徳川家斉

江戸幕府の11代将軍は徳川家斉(いえなり)ですが、この人物は1787年に15歳という若さで将軍に就任しました。まあ15歳といえば遊びたい盛りの年齢ではありますが、当時の老中は「寛政の改革」を主導したマジメ人間・松平定信だったため、徳川家斉はむしろ質素な生活を強いられていたようです。

日本ではレアなヤンチャ将軍・徳川家斉

そんなある日、とつぜん徳川家斉は父の徳川治済(はるなり)を「大御所として扱う」とか言い出しましたが、この父は将軍に就いたことなどありません。そのため松平定信は当たり前のように真っ向から反対、しかしこの正論に対して徳川家斉は逆ギレで応酬したようで、これが原因となって松平定信は失脚してしまいます。

幕政の腐敗を招いた大御所時代

目の上のコブがいなくなった清々しい気分になった徳川家斉でしたが、結局歴代最長となる50年の在任期間を過ごしています。しかしその間の贅沢三昧は幕府財政を著しく悪化させており、しかもワイロの受け取りにも一切躊躇がなかったため、幕府内では公然と不正がまかり通るようになりました。

とは言え50年も将軍をやっていたらさすがに飽きたようで、65歳の折にようやく息子に将軍位を譲りましたが、その後4年間もやりたい放題やった上で亡くなっています。この徳川家斉が暴れていた時期は「大御所時代」と呼ばれたりしますが、その尻拭いをするために水野忠邦が取り組んだのが「天保の改革」だったりします。

twitterフォローでさらっと日本史の新着記事をチェック!

コメント