奈良時代にようやく定まった皇太子という地位

用語集

皇太子とは

日本の皇室における天皇位の相続人を指す称号です。天皇嫡男、つまり最初に生まれた男子が「皇太子」として優先的に皇位継承権を持つことになります。天皇の子供ではない場合には呼称が異なり、弟である場合には「皇太弟」、甥である場合には「皇太甥(こうたいせい)」となります。また海外の君主制を採用している国の場合には、次期君主の候補者であれば女性でも「皇太子」という言葉で表現されます。

日本の皇太子の歴史

神話の時代は皇族の大半が後継者候補に

「古事記」や「日本書紀」に記述される日本の草創期から天皇家は続いていますが、実は後継者に関するルールは特に定められていなかったようです。むしろ後継者候補が複数いるのが当たり前であり、予め絞り込むという考え方すらありませんでした。基本的には兄弟間で上から順番に相続してはいたものの、弟から兄へ継承されたケースもあるためほとんどルールはなかったものと思われます。また明確に後継者が定まっていない=誰にでもチャンスがあるということでもあるため、反乱が起こりやすい不安定な政権体制だった訳です。

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長子相続が一般化された古墳時代から飛鳥時代

非常にざっくりとした神話の時代を経て、第26代となる継体天皇以降は基本的に長男によって皇位が継承されています。医療事情が悪い古代ということで、病気によって結構な頻度で後継者が変更されてはいるものの、一応「長男が優先的に継承する」という法則性が出来た時期だったりします。

とは言え飛鳥時代は蘇我氏が権勢を振るった時代ということで、一豪族であるはずの蘇我稲目や蘇我馬子は皇位継承にも強い影響力を持っていました。かの有名な聖徳太子蘇我馬子の意向により、本来であれば天皇になってもおかしくないタイミングで推古天皇の摂政に就任しています。聖徳太子は皇太子兼摂政という立場で30年以上を過ごし、結局天皇にはならず皇太子のままこの世を去っています。

そもそも聖徳太子の「太子」は皇太子を意味しています

聖徳太子についてはこちらからどうぞ。

奈良時代に成立した制度としての皇太子

飛鳥時代に天皇の長男が後継者になるというルールだけは確立されていますが、儀式的に皇太子が定められていた訳ではありません。ですが奈良時代に入ってからは皇太子という立場を明確にするため、「立太子の儀」という公的な儀式で皇太子が定められるようになりました。これによって誰もが次の天皇を知ることができ、また皇太子をハッキリさせることで後継者争いを防止しようとした訳です。この儀式を経て即位したのは文武天皇が初となりますが、以後は基本的に「立太子の儀」が執り行われています。

日本初の立太子の儀を経て即位した文武天皇

皇太子の意義が失われた院政期

平安後期になって藤原氏が衰退すると、摂政・関白に代わって上皇朝廷政治の中心となりました。この上皇を中心とする政治体制は院政と呼ばれ、白河法皇が開始して以降の100年は院政期とも呼ばれています。この院政では上皇の元に権力が集中するため、摂関政治の頃と同様かそれ以上に天皇はお飾り状態となっていました。むしろ天皇という立場が上皇になる一歩手前、つまり皇太子のような状態になってしまったことで、院政期に入ってからは「立太子の儀」自体が執り行われていません。鎌倉幕府が成立したことで院政も終焉を迎えていますが、その後の天皇家は財政難に喘ぐことになり、たびたび「立太子の儀」が端折られるという切ない事態に陥っています。

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