征夷大将軍とは
本来は蝦夷征討に向かう将軍に与えられる将軍位でしたが、鎌倉時代初期に源頼朝が就任して以降は武家の棟梁たるシンボルとなっています。鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府のトップに位置した人物は、全員当たり前のように征夷大将軍に就いているため、幕府に関連する事柄で「将軍」と言えば自動的に「征夷大将軍」に就いている人を指すことになります。この将軍位はいつでも誰かが就いている常設職ではなく、必要になった時にだけ与えられる臨時職でした。そのため平安時代初期に坂上田村麻呂が就任して以降は数名しかおらず、鎌倉時代以降はそれぞれの幕府のトップしか就任していません。
蝦夷征討はしないけど征夷大将軍
源頼朝は1,192年に征夷大将軍に任命されていますが、もちろん蝦夷征討なんて一度も行っていません。前述の通り本来は蝦夷討伐に向かう武官に与えられるべき官職ですが、頼朝はそんなことは多分考えたこともなかったでしょう。となると頼朝がこの官職を欲しがったかが疑問になりますが、頼朝にとって「征夷」の部分はかなりどうでもよく、欲しかったのは「大将軍」という肩書だけだったようです。
律令に始まる日本の法制度と軍制は、歴代の中国王朝が採用していたものをほとんど流用しています。もちろん細かな部分では日本独自の制度も多々ありますが、大枠としてはほぼ丸パクリと言っても過言ではありません。そんな中国の法制度では、「将軍は地方で自身の裁量で政治を取り仕切れる」という権限が付与されているため、この権利を求めて頼朝はなんでもいいから将軍位を欲しがったという訳です。
実際に頼朝が将軍位を要求した際、朝廷ではどの将軍位を渡すかで話し合いが持たれています。ですが候補に挙がった「征東大将軍」は頼朝軍に負けた木曽義仲が任命された例があり、他の将軍位にも不吉な前例がありました。そんな中で征夷大将軍という将軍位には英雄・坂上田村麻呂の成功例があるため、本来の職掌とは無関係ながらも縁起だけは非常に良好です。そんな不毛な論争が繰り広げられた結果、結局無関係だけど縁起は良い征夷大将軍が頼朝に与えられました。受け取った頼朝からすれば「征夷ですか?」感はあったのかもしれませんが、これ以降征夷大将軍は武家の棟梁が就任するシンボル的な職位となっています。
平安初期の坂上田村麻呂についてはこちらからどうぞ。
征夷大将軍になるための条件
鎌倉幕府の創立者である源頼朝の本姓は源氏、そして室町幕府の将軍達も源氏ということで、室町幕府が滅んで以降も「征夷大将軍は源氏しかなれない」という謎の慣習が出来上がりました。鎌倉時代にはこの不思議な慣習はまだなかったようで、3代将軍・源実朝が暗殺された後には、藤原氏や皇族出身の人物が征夷大将軍に任命されています。ですが室町時代には源氏の足利家が15代に渡って務めているため、この辺りで慣習化されたものと思われます。
この謎の慣習による被害者は少なくはあるのですが、本姓が平氏の織田信長あたりはひょっとしたら涙を飲んでいたのかもしれません。織田信長は15代将軍・足利義昭を追放し、室町幕府を滅亡に追いやった張本人でもありますが、やはり武家の頂点を目指すのであれば欲しかったのではないでしょうか。ですが藤原氏から源氏に本姓を変えるという荒業を駆使した徳川家康は、サクッと征夷大将軍の役職を手に入れ江戸幕府を樹立しています。ちなみに豊臣秀吉さんもやはり本姓の問題で征夷大将軍にはなれておらず、これに関しては次の見出しにてご説明しています。
日本古代から中世の氏姓制度についてはこちらからどうぞ。
征夷大将軍にならなかった偉い武士
欲しくもなかった平清盛
鎌倉幕府以前の武家政権と言えば平氏政権ですが、上の見出しでご説明している通り、この時期には「征夷大将軍=武家の棟梁」という概念はありません。とは言え「平家に非ずんば人に非ず」なんて言葉がポロリと出るくらいの状況だったため、望めばほぼ当確で就任できたのではないでしょうか。ですが源氏の棟梁の血筋を持つ頼朝が就任したことで、後付けで「征夷大将軍」という職位にプレミアが付いただけですので、それ以前の人間である平清盛や平家武士達には将軍位を目指す価値もなかったのでしょう。
ちなみに平氏政権は白河法皇の院政以前を志向したようで、藤原氏のように天皇家の外戚となり、官位を独占する手法を模倣した体制を敷いています。摂政や関白といった高位の臨時職こそ慣例に邪魔されて手つかずですが、常設の官職については軒並み専有し、過去に院政でブイブイ言わせていた後白河法皇すら政治から締め出しています。そして全国の荘園に次々と息のかかった武士を送り込み、土地の実効支配に着手しました。この平氏による土地支配の構図は画期的かつかなり効果的ということで、後に源頼朝もパクって同じような体制で統治を行っています。
平民から征夷大将軍はさすがになかった豊臣秀吉
戦国時代末期に現れた超新星・織田信長が本能寺の変で倒れた後、清州会議や賤ヶ岳の戦いを経て実質的に羽柴秀吉がその地位を継承しました。秀吉がその座に着くとほぼ同時に中国地方の毛利輝元との和平が成立、跡を継いだ時点で武力による天下統一がすぐ間近というボーナスゲーム状態です。実力を持った人間が次に求めるのは偉そうな肩書ということで、秀吉はお金というアメと武力による恐怖というムチを駆使して朝廷に働きかけました。
まず秀吉が求めた職位は、ズバリ征夷大将軍という武家の棟梁のシンボルとなっていた将軍位でした。秀吉は衰えきっていたとはいえ室町幕府の権威を目の当たりにしており、自身をその座に置こうとしたことは当時の武士としてシンプルな欲求でしょう。ですが鎌倉幕府・室町幕府と続いた「征夷大将軍=源氏しかなれない」という朝廷の慣習を打ち破ることはできず、結局「関白」の職位で妥協しています。関白も本来であれば五摂家「一条・二条・九条・近衛・鷹司」しかなれない慣習がありましたが、秀吉は近衛家に無理やり養子入りしてその権利を取得、さらに近衛家からの分家扱いで「豊臣氏」を創設し関白職に就いています。豊臣秀吉が平民の出身であることが大きく足を引っ張った形ではありますが、逆に「平民からよくそこまで来たなぁ」と変な感想が出てしまう歴史的事実でもあります。
コメント