冊封とは中国王朝の皇帝を君主として従属関係を結ぶこと

漢委奴国王印 用語集
漢委奴国王印

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冊封体制とは

中国の歴代王朝を宗主国として、東アジアや東南アジア諸国の君主が爵位を受け、名目的な君臣関係を結んだことによる国際秩序を指します。ざっくり言えば中国という巨大な国を親分として、小さな周辺国が子分になった状態を意味しています。この子分となった国は冊封国と呼ばれ、一応従属関係を結びはしますが支配は受けず、むしろ自立を認められた国となります。ちなみに「冊」という文字は単純に文書を表し、また「封」という文字は君主の下で土地を領有する「封建」を意味しています。

冊封体制に入った際の義務とメリット

義務もとい「お付き合い」

冊封国に対しては、歴代の中国王朝から若干の義務が課されていました。義務としては宗主国となる中国王朝が使用している暦や元号を用いること、毎年貢物を贈る「朝貢」、そして中国王朝が出兵を命じたケースもあります。ですがこれら全て守る必要はなかったようで、朝貢も数年に一回程度の国が多く結構アバウトだったようです。現に日本が冊封体制下にあった時も日本独自の元号を使用しており、宗主国に向けた文書でのみ中国側の暦を使うといった具合でした。

こういった事情は宗主国側も把握してはいたようなのですが、こちらもかなりアバウトだったらしく、わかっていながらも放置していたようです。1年2年朝貢が滞ろうとも問題にせず、冊封国が独自の元号を使っていたとしてもあまり気にしないという、もはや義務という表現すら相応しくない気がします。会社の先輩がご飯に誘ってくれたからちょっと嫌だけど行こうかな、というもはや「お付き合い」レベルの従属関係だったようです。

冊封体制下に入る大きなメリット

宗主国に対して果たすべき義務はかなり雑なものでしたが、冊封国側が受ける恩恵は非常に大きいものでした。最大のメリットとしては、中国王朝という超弩級の大国から攻撃を受ける心配がなくなることでしょう。またドデカイ国と「お付き合いがある」という背景を元に、周辺の国との外交を有利に進めることもできたでしょう。そしてもし周辺国から攻撃を受けてどうにもならなくなった場合には、宗主国である中国王朝に泣きついて援軍を要請することもできます。16世紀末の豊臣秀吉による朝鮮出兵の際にも、冊封国だった李氏朝鮮は宗主国となる明国に援軍を要請しており、日本軍は主に到着した明軍と交戦しています。

軍事的なメリットだけでなく、冊封体制下に入った場合には経済的なメリットもありました。歴代の中国王朝はあまりに強大すぎて満ち足りてしまったのか、海外との貿易には意外と消極的でした。ですが冊封国に対してだけは貿易を認めており、少数の国で独占的に交易することで大きな利益を上げることができていました。さらに冊封国同士という横の繋がりで貿易が始まるなど、二次的なメリットも生まれていたようです。室町幕府の3代将軍・足利義満が冊封体制下に入ったことで日明貿易が始まり、室町時代で最も豊かで華やかな北山文化の時代が訪れています。

中国側にとっての冊封体制

宗主国となる中国王朝が、なぜ自国にとってメリットが薄そうな関係を築き始めたかは、「儒教」と「中華思想」という考え方に由来しています。「中華思想」では中国が世界で最も文化的に進んだ国であるという考え方であり、中国以外の国々は全て非文明国であるとしています。こういった非文明国が中国皇帝を敬い、「儒教」を受け入れるのであれば最先進国である中国の一部として認めてあげますよ、というのが中国にとっての冊封体制です。

中国における皇帝は「天子」と呼ばれますが、この名称には「天命によって自国だけでなく諸外国まで支配し中華思想に教化する」という意味が込められています。そのためか友好の使者を送ってきた諸外国に対しては、一様に冊封国として体制下に迎え入れ、異様なまでに寛容な態度で臨んでいます。また中国への従属を願う国があることは、「天子」としての徳が高いという証明になり、国内統治の安定感へ繋がるという流れになっています。

日本と冊封体制の歴史

日本古代の中国外交

我が国日本も中国との友好関係は古代の時代から歴史があり、最も古いものとして西暦57年に後漢の光武帝に朝貢した記録が残っています。この時には倭国王として冊封された後に金の印綬が与えられており、中国と日本の外交が始まった初の瞬間でしょう。ちなみにここで受け取った「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」は福岡県で発見されており、江戸時代には福岡藩主黒田家を経由して、現代では福岡市博物館で保管されています。

また中国で後漢が滅びた後に三国時代が始まると、三国のうちの一つ・魏国に「卑弥呼」という人物が西暦239年に使者を送っています。卑弥呼は「親魏倭王」という爵位を受けたという記録が「魏志倭人伝」という歴史書に残っており、またも金印を与えられたとされていますが、こちらは残念ながら見つかっておりません。

最初に倭国王として認められた人物から卑弥呼まで、200年近くも間が空いていますが、これは朝鮮半島の付け根辺りの地域情勢に由来しています。後漢の末期から三国時代にかけて、この朝鮮半島の付け根辺りに公孫氏という一族が独自政権を築き上げていました。この公孫氏は後漢や魏国と対立していたため、日本から後漢や魏国へ向かうための陸路が使えなかったというわけです。ですが西暦238年に公孫淵が魏国の司馬懿によって討伐されるとルートが開通し、ようやく中国の中央部に辿り着けたという流れになっています。当時の日本の航海技術はまだまだ未発達で、直接中国に向かえなかったことを示すエピソードでもあります。

対等な関係を求める聖徳太子VS随

卑弥呼以降もちらほらと朝貢は続いていたようで、中国の王朝が代替わりした後も、「宋」や「梁」の歴史書には倭の五王についての記録が残されています。ここまでの日本は完全に中国の風下に立っており、冊封体制による従属関係を望む形で外交が行われています。ですがさらに時は下って日本の飛鳥時代、中国の王朝は随の時代にとんでもない男が現れます。

推古天皇という女性の天皇が即位した際、やはり女性であるため政治には疎いということで、摂政という国政を取り仕切る臨時職に聖徳太子が就任しました。摂政に就任した聖徳太子は、まず随の天子・煬帝に向けて遣隋使を派遣、国の代表としての挨拶文を小野妹子に持たせて送り出しました。聖徳太子からの手紙は、下の一文から始まっていました。

日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。

この文は「日が昇る側の天子から、日が沈む側の天子へ手紙を書いています。」という程度の一文ではあるのですが、随の天子・煬帝はこれを見て周囲が慌ててしまうほど激怒してしまいます。というのも、そもそも天子という表現は中華思想によれば中国の皇帝1人だけであり、まして中国から見て後進国の王が使っていい表現ではありません。さらに天子から天子への手紙ということは対等な関係を意味しており、「従属ではない」ことを表します。小国の王風情が天子を名乗ったこと、そして対等であろうとしたことに激怒した煬帝でしたが、結局周囲の執り成しもあってその場は落ち着き、小野妹子は返書を持たされてなんとかその場を離れたそうです。ですが小野妹子が持たされた返書は盗まれてしまったとされており、日本に辿り着くこと無く内容もわからないまま紛失しています。一節には「対等な関係は無理だけど、従属関係ならいいよ」という内容の返書だったため、聖徳太子に叱られるのが嫌だった小野妹子が隠滅したのではないかと考えられています。

聖徳太子のイラスト
強気すぎる外交家・聖徳太子さん

結局この聖徳太子以降の日本は冊封体制には入らず、「対等」な関係であるとして国交を続行、そしてこのスタンスは次の中国王朝・唐の時代に入っても引き継がれています。ですが日本が対等なつもりでも相手は超大国であるため、随や唐側の記録では「何年何月に日本からの朝貢使が来た」という書かれ方をしています。中国にとっては対等な外交などあるはずもなく、従属国だけがあるのみという中華思想全開なエピソードですね。

貿易を望む足利義満によって日本は明の冊封国に

平安時代の中期頃に遣唐使が廃止されて以来、日本の海外との外交活動は控えめとなっていました。ところが鎌倉時代も末期に差し掛かった頃、モンゴル帝国の中国王朝・元が襲来してきます。この元寇をなんとか凌ぎきった対馬や北九州の武士達は、反撃のために朝鮮半島や中国の沿岸部を荒らし回りました。この倭寇と呼ばれた海賊集団が大暴れしている頃に元が滅亡し明国が成立しますが、倭寇はその襲撃の手を緩めず明国が成り立ってからも沿岸部を荒らし続けています。

倭寇についての記事はこちらからどうぞ。

神出鬼没な倭寇は明軍でも捕まえきれず、明国でも悩みの種となっていました。そんな折にタイミング良く、室町幕府3代将軍・足利義満から貿易のオファーが明国に舞い込みます。明国は悩みの種となっていた倭寇の取り締まること、そして冊封体制下に入ることを貿易の条件としましたが、足利義満はどちらも承諾、倭寇の取締を強化し明の臣下となることで朝貢貿易が開始されています。

ですが日本が形式上とは言え中国の臣下となることに抵抗を覚える人も多かったようで、4代将軍・足利義持もその1人でした。足利義満が死去すると跡を引き継いだ足利義持はすぐに冊封体制から抜け出したため、当然ながら朝貢貿易も同時にストップしています。名誉を取るか実利を取るかは人それぞれではありますが、確実に儲かるのなら実利の方がいい気がしてしまいますけどね。