中国三大悪女によく入る妲己・呂太后・則天武后・西太后の4人をご紹介

その他考察

酒池肉林と炮烙の姫・妲己(だっき)

殷の滅亡のキッカケになった美姫

中国三大悪女(4人いますが)のトップバッターを飾るのは、古代中国の王朝・殷(いん)が滅亡したキッカケとされる妲己です。紀元前11世紀頃の人物ということで実在したかもアヤフヤではありますが、現代の中国でも悪女、そして魅力的というかセクシーな女性の代名詞として用いられているそうです。

こちらは葛飾北斎が描いた妲己、なぜか服装が和装です

「殷の紂王(ちゅうおう)」は妲己を妾にした途端に虜になってしまったようで、彼女の言うことを何でも聞いてご機嫌をとっていたとか。時には庭木に肉を吊るして林を成し、池には酒を満たしてガブ飲みする、本当の意味での「酒池肉林」を実現したとされています。ハッキリ言って木から吊るされている肉を食べたいとも思わないですが、やはり食糧事情が悪い古代のことですので、当時としては「これぞ贅沢の極」くらいのノリだったものと思われます。

残虐非道な処刑方法「炮烙」

また妲己が持つ逸話の中で最もインパクトのあるものは、「炮烙(ほうらく)」と呼ばれる処刑方法でしょうか。この処刑方法はまず銅の棒にたっぷり油を塗るところから始まり、それを大量に用意して猛火で熱し、その上を罪人に渡らせるという刑罰だったそうです。ただし罪人もその地獄のような架け橋を渡りきれば無罪にしてもらえるため、必死こいて渡ろうとしますが当然油で滑って落ちそうになる訳です。

それでも罪人たちはヌルヌルでアツアツの棒を必死に登ろうとしますが、まあヌルヌルゆえに当然滑り落ちて焼かれる訳で、それを見て妲己と紂王は2人して笑い転げていたとか。なんとも胸糞悪い話ではありますが、そんな2人に天罰が下ったのか、周の武王によって妲己は殺害され、紂王も自害し殷は滅亡しています。

良妻から残虐な皇后に・呂太后

漢の高祖・劉邦の良き妻として

この呂太后という人物は前半生では良妻として高い評判を得ていたようですが、後半生では同一人物とは思えないほど残虐な側面を見せています。漢王朝建国の祖・劉邦は農家に生まれていますが、若かりし呂太后は土地の有力者の娘だったにも関わらず、劉邦に嫁ぎ農業を手伝いながら一生懸命に子供達を養っていました。

その良妻ぶりはご近所でも評判だったようで、人相見のご老人から「天下を取る貴婦人の相があるね」、なんてお上手を言われたとされています。まあ劉邦の巻き添えを食って人質に取られることもありましたが、劉邦が漢の初代皇帝になると、呂太后は晴れて皇后の地位を手に入れています。

呂太后(呂雉)の肖像

皇后になった途端に悪女に変貌

急に偉くなってしまうと色々なものを失うのが怖くなってしまうのか、皇后になった呂太后は自身の地位を脅かす人間を片っ端から排除しました。建国に大きく貢献した大将軍・韓信を暗殺、また自身以外が生んだ劉邦の子供達を次々と殺害し、さらにその母にまで手を掛ける程に徹底的な処刑を行っています。

またその処刑方法は残虐そのもので、子供を殺害した後にその母を奴隷の身分にまで落とし、目をくり抜いた後に両手両足を切断する、という凄まじい方法で処刑を行った記録すら残っています。ところがこの逸話には続きがあり、さらにその婦人を穴に閉じ込めた上でトイレとして使うという、もうどうにも想像がつかない程の極刑だったようです。結局呂太后が亡くなった後、悪行に加担していた呂氏一族は全て処罰されてはいますが、世界的に見ても呂太后は相当レベルの高い悪女かなと思えてしまいます。

中国史上唯一の女帝・則天武后

前皇后を百叩きの刑で処罰

則天武后の肖像

この人物は中国三大悪女にしばしば入ってはいるものの、現代でも割と評価が分かれる微妙な悪女となっています。則天武后は唐建国にも深く関与した2代皇帝・高宗の妾になり、皇后・王氏やそれに次ぐ地位を持つ女性を謀略に掛け、他人を引きずり下ろす形で皇后の地位を手に入れています。そして前皇后に対しては何か恨みでもあったのでしょうか、女性に対しては珍しい百叩きの刑を食らわすというかなり容赦のない行動をとっています。

後に高宗は体調不良で外出すらままならない状態に陥ったのですが、すると皇后である則天武后に権力が集中し始め、ついには政治にまで口出しするようになりました。とは言え則天武后は苛烈な性格のためか貴族からの人気がなかったようで、政治をしようにも意のままに動く官僚などいませんでした。ですがそんなことではへこたれない則天武后は、身分が低くても優秀で高い忠誠心を持つ人材を積極採用、瞬く間に充実した政治体制を作り上げています。

国号すら変更してしまった中国唯一の女帝

則天武后の政治は民衆にとって安定した良い統治だったのですが、貴族や皇族達には人気がなかったようで、政権奪回を目指す輩が次々と挙兵し幾度となく変事が起きています。ですが則天武后の対応はかなり的確だったようで、誰も勝つことができず全て鎮圧、結局則天武后はそのまま政治の中枢に居座り続けています。むしろ則天武后は政敵があらかた片付いたところで自ら皇帝の座に着き、ここで長い中国の歴史の中でただ一人しかいない女性の皇帝が誕生しています。さらに則天武后は国号も「唐」から「周」に変え、国を丸ごと乗っ取るという形で中国に君臨しました。

則天武后は充実した体制で政治を取り続けており、クーデター騒ぎやらでバタバタはしたものの普通に天寿を全うし亡くなっています。ですが亡くなった後は彼女によって退位させられた皇帝がカムバックを果たし、国号も「唐」に戻され、結局則天武后によって建国された「周」は15年でなくなってしまいました。

史上唯一の女性皇帝ゆえの評価下げ?

この則天武后という人物は他の悪女達に比べると割と薄めで、前皇后を棒叩きの刑に処したくらいの悪事しかしていません(それでも十分といえば十分ですが)。とは言え皇帝を無理やり退位させたこと、そしてやはり女性で皇帝になったという歴史上に例のない出来事が、世界三大悪女入りを果たしてしまった原因なのかなと思います。

実は則天武后が即位した後の政治情勢は非常に安定しており、この後に「唐」が大繁栄する土台はこの時に出来上がっています。もちろん貴族や皇族に混乱をもたらしはしましたが、それを補って余りある成果を得たとも言えるでしょう。則天武后が低い身分から登用した人材達は後の時代にも大活躍、「開元の治」と固有名詞が付けられる程の安定した治世を築き上げています。

ちなみに則天武后は在位中に日本からの遣唐使にも面会していたりします。

大清帝国を滅亡に導いた皇帝婦人・西太后

クーデターから贅沢三昧までやりたい放題

中国三大悪女のラストを飾るのは日本で言えば近代の人物、最後の中国王朝・大清帝国に君臨した西太后です。西太后は第2夫人という身分ながら咸豊帝(かんぽうてい)の嫡男を生んでいますが、この息子がまだ幼い頃に咸豊帝が亡くなってしまいました。すると官僚達の間で他の人物を帝位に就けることで取り決められましたが、このことを知った西太后は即座にクーデターを起こし、自身の息子を同治帝として即位させています。そして西太后は自ら摂政に就任し、まだ幼い同治帝を補佐するという建前で女性の身ながら大清帝国の頂点に立ちました。

西太后の肖像写真、すごい服です

この西太后が摂政になった時期はヨーロッパの列強が次々と押し寄せて来た頃であり、また明治維新で近代化した日本と戦争が起きた大変な時期でもあります。そのため各地で起きたトラブルに対応するにもことごとく後手を踏んでおり、天候不順による飢饉が発生した折にも一切動けず、結果1000万規模の死者を出すという、歴史的な大惨事を見て見ぬ振りでやり過ごしています。また日清戦争で敗北した後でも贅沢はキッチリしており、ものすごく豪華なお誕生会を開催し(日清戦争で使った費用の2倍!)、また頤和園(いわえん)という湖付きの超豪華庭園(日清戦争で使った費用の3倍!!)も建設しています。

こちらの建物は頤和園のごく一部でしかありません

かなり濃厚な皇帝暗殺疑惑

西太后の子供・同治帝はわずか14歳で亡くなっており、その後には別の系統に当たる皇族が光緒帝として即位しました。この光緒帝は西太后によって擁立されて即位してはいるのですが、なぜか西太后は光緒帝を暗殺、そして西太后本人もその翌日に亡くなってしまいました。この光緒帝暗殺は当時病死として扱われていたのですが、近年になって光緒帝の遺体を分析したところ、相当な量のヒ素(劇毒!)が検出されたそうです。西太后は亡くなる直前に甥の溥儀(ふぎ)を皇帝に指名し、溥儀はそのまま宣統帝として即位しました。

この宣統帝は西太后によって疲弊した国を立て直すことは出来ず、わずか3年の在位期間で辛亥革命が勃発、大清帝国だけでなく中国王朝時代のラストエンペラーとして歴史に名を刻んでいます。

中国と比べて相当マイルドな日本の三大悪女はこちらからどうぞ。

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