5人の家老がそれぞれの「色」を担当した北条五色備
小田原北条家は当主となる人物の下に、御家門衆と呼ばれる当主に近い血筋の家臣、三家老衆と呼ばれる高位の家老、そしてその下に五家老衆がいる組織となっていました。当主との親戚関係を持つ御家門衆はもとより、三家老衆も初代当主・北条早雲の代から仕えている家柄の人間が世襲で就任しているため、五家老衆は功績によって出世できる実質上の最高位となっております。
「備(そなえ)」とは部隊を表す言葉であり、五家老衆がそれぞれの色備えを率いた5つの部隊を総称し、「五色備」と呼ばれました。わざわざ5つも色分けする意味があったのかはちょっと謎ですが、武田の赤備えや織田家の親衛隊・赤母衣衆や黒母衣衆といった記録に残る色分け部隊もあるため、武士の世界では色で区別するのは割とメジャーな編成方法だったのかもしれません。まあ色分けされていることで戦場での同士討ちは起こりづらいでしょうし、何よりも特別な部隊にいる、という兵のモチベーションアップにも繋がったのではないでしょうか。
それでは黄備えの北条綱成から、1人ずつざっくり目にご紹介いたします。
黄備え:北条綱成(つなしげ)
地黄八幡を掲げた切り込み隊長
北条五色備の中で最も有名な人物は、この黄色を担当した猛将・北条綱成でしょう。綱成は各地で勃発した戦いにマメに顔を出し、最も危険な最前線に立って叫びながら突撃、大将という立場を忘れた勇敢すぎるスタイルで武功の山を築き上げました。そのあまりの強さには軍神・上杉謙信ですら恐れを抱き、また武田軍との戦いでも圧倒的な兵力差があっても互角の結果を残すという、まさに神がかり的な戦績を残しています。
北条綱成は模様のない黄色い布に、「八幡」とだけ書かれた旗をトレードマークとして掲げ続けました。黄色の「八幡」が常勝を続けるうちに綱成の旗はブランド化、その旗は「地黄八幡」という固有の呼び名が付けられ、逆に「地黄八幡」と言えば誰もが綱成をイメージするという現象すら起きています。
ちなみに武田信玄がたまたま落ちていた地黄八幡の旗を拾った際、「北条綱成の武勇にあやかるように」ということで真田昌幸の兄・真田信尹に贈られました。つまり「甲斐の龍」として名を轟かせた武田信玄ですら綱成の武勇を認めており、ご利益のあるアイテムとして扱われる程だった訳ですね。
真田信尹の弟・真田昌幸についてはこちらからどうぞ。
北条氏綱の娘を妻に迎えて一門扱いに
北条綱成は「北条」という姓を名乗ってはいますが、元は「福島氏」であり北条一門の出身ではありません。綱成の父は隣国となる駿河国・今川義元に仕えていましたが、甲斐武田家との戦いで戦死して福島家の立場が急降下、居場所がなくなったため小田原に落ち延びています。すると時の北条家当主・北条氏綱は何かを感じたのか大いに気に入ったようで、自身の娘を妻とさせ、さらに名前の一字を与えました。こうして北条家の一門衆として迎えられた「北条綱成」は、氏綱の期待に応えて各地の戦闘で大活躍を続けることになります。
ちなみに北条氏綱の嫡男・北条氏康は子供の頃あまり出来が良くない子だったようで、北条綱成を当主にするという意見も真剣に取り沙汰されていたようです。結局北条氏康が当主となった後は、「相模の獅子」という異名が付くほど大暴れしていますが、綱成も当主に推されるほどに人格と武勇が認められていたのでしょう。
北条氏康と北条綱成は同い年の義兄弟ということで親密だったらしく、氏康から軍事だけでなく外交まで全権を与えられることもあったようです。毎回部隊の先頭に立って戦い続け、また外交の使者としても各地を飛び回り続けた綱成は、73歳という戦国武将には珍しい高齢で病気のため静かに亡くなっています。
黒備え:多目元忠(ためもとただ)
北条五色備で黒を担当したのは、智謀で勝負する軍師・多目元忠です。多目家は後北条氏の創立に関わった「草創七手家老」に含まれる由緒あるお家柄なのですが、文書によっては「多米」と書かれてしまうなど、偉い割にはちょっと雑な扱いをされていたりします。
多目元忠は軍師キャラということで陣頭に立っての目立った戦功はありませんが、上杉憲定率いる関東連合軍と激突した「河越城の戦い」では目覚ましい活躍を見せました。この戦いでは分隊を預かって本陣を守り、北条氏康が率いる突撃隊が敵を追い散らすまで数万の上杉軍の猛攻に耐え抜いています。また追撃に移った北条氏康の部隊を後方から支援し続け、氏康の部隊が敵の反転に囲まれそうになると即座に撤退を指示、あわやというところで北条氏康は包囲されることなく逃れています。多目元忠は自ら突撃して華々しい軍功を挙げるタイプではなく、的確な状況判断と指示で後方から味方を助ける、まさに戦場の黒子役に徹することができる武将だったのでしょう。
戦国時代の軍師の代表、竹中半兵衛についてはこちらからどうぞ。
赤備え:北条綱高
北条綱高の父が辿り着いた伊豆国
真紅の旗と鎧兜に身を包んだ部隊・赤備えは、「武田の赤備え」もあるように意外とポピュラーなのかもしれません。ですが戦場で真っ赤な部隊が突撃してきたとすれば、やはりいつもとは違う強烈な圧迫感を感じることでしょう。北条五色備の中でも赤備えは甲冑まで赤で揃えていたようで、北条家の赤い甲冑は現存しているらしいのですが、残念ながら見学不可となっているようです。
赤備えを率いた北条綱高も「北条」を名乗っていますが、北条綱成同様に他家の生まれであり、高橋高種という人物の子として生まれています。この高橋高種は筑後国(福岡県南部域)で高橋家の当主候補として生まれていますが、その立場を捨てて京都で幕府将軍・足利義尚に仕え始めました。その後伊豆の堀越公方から要請が掛かって城主に就任、かなり日本を狭めに使った人生を送っています。
北条家の一門衆として活躍した北条綱高
高橋隆種は堀越公方が北条早雲によって滅亡した後は隠居していましたが、北条早雲からの再三のお誘いもあって北条家に仕え始めました。その後の高橋高種は北条早雲の養女を妻として迎え、北条綱高はその間の子として生まれているため、一応の続柄としては北条早雲の孫に当たる訳です。そのため綱高にとっては北条家の2代目当主・北条氏綱は伯父にあたり、3代目当主の北条氏康は義理の関係ではあれどイトコにあたります。
北条氏綱も綱高の武将としての才覚を見込んでいたようで、そこそこの戦功を上げた段階で猶子として一門に迎え入れ、北条姓と「綱」の一字を与えて「北条綱高」と名乗らせました。綱高もその期待に応えて各地の戦闘で勝利を重ね続け、主に扇ヶ谷上杉氏との戦いで活躍、最後は江戸城で静かに80年の生涯を終えています。
白備え:笠原康勝・後に清水康英(やすひで)
他の色備えとは違い白備えだけは代替わりがあったようで、西暦1557年から笠原康勝という人物が務めていたところを、いつの頃からか清水康英が五家老の1人として白備えを率いています。まあ笠原康勝の養子・笠原政尭は甲斐武田家に内応し離反したことがあるため、政尭の命を助けるために責任を取って辞職でもしたのかもしれませんね(ごめんなさい推測です)。ちなみに笠原政尭は豊臣秀吉の小田原征伐の際にも離反しようとしていますが、この時は小田原城を出る前に城兵に見つかり、あえなく打ち首となっています。
豊臣秀吉の小田原征伐についてはこちらからどうぞ。
代替わりした後の清水康英は、北条軍の中でも伊豆水軍を束ねる名族・清水氏に生まれています。清水氏は北条家の3代目当主・北条氏康のお守りを務めており、また乳母も清水氏の人間が務めるという、北条家との親密な関係を持つ家の出身となっています。二人の親しさゆえに大事な相談事も受けていたようで、参謀としてアドバイスをしていくうちに五家老に就任、そして白備えを率いるようになったのでしょう。
豊臣秀吉の小田原征伐では水軍を使って伊豆の下田城を防衛していましたが、豊臣軍の膨大な兵力を前に二ヶ月近くも奮戦、最終的には開城し降伏しています。豊臣秀吉という人物は必死に戦った武将に対しては寛容な場合が多いですが、同様に清水康英も命を許されており、菩提寺がある伊豆の河津で隠居、その後すぐに亡くなっています。
青備え:富永直勝
最後の北条青備えを率いたのは、清水康英と同じ伊豆出身の富永直勝です。直勝は後に徳川家康によって江戸幕府が開かれる重要拠点、江戸城を任されていました。部下には太田康資(やすすけ)や遠山綱景といった名族出身の武将が補佐として付けられており、万全の体制で重要拠点の守備にあたり、各地で戦争が起きれば援軍として出向いていたようです。
そんなある日、富永直勝は部下であるはずの太田康資の上杉家への寝返り計画を耳にします。計画段階で事が露見したため太田資康の捕縛には成功したのですが、今度は上杉謙信が安房国(千葉県)の里見氏に太田資康救援を要請、里見氏は宿敵・北条家が相手ということで1万を越える大軍を用意しました。この第二次国府台合戦と呼ばれる戦いには北条綱成も急行したのですが、部下の裏切りを恥じた富永康勝は独力での解決を望み、里見軍に突撃し敢えなく討ち死にしています。
北条家の生き字引・北条幻庵についてはこちらからどうぞ。