武田信玄と織田信長の遷りゆく関係

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ガッチリ

今回の記事では、武田信玄と織田信長の間にあった関係についてご説明したいと思います。

対斎藤家の利害関係で始まった同盟

武田信玄と織田信長が国境を接するようになったのは、織田家が美濃を攻め取ってからです。ですが信長が美濃を攻め取る前にはすでに、信長と武田信玄との外交は始まっています。

武田信玄としては美濃の前国主である斎藤家からの防衛のため、斎藤家と敵対している織田信長は手を組んでおいて損はない相手となります。また斎藤家が武田信玄を敵と見なせば当然防衛に兵力を割かざるを得ないため、織田信長が美濃に侵攻する上で大きなメリットとなります。斎藤家を共通の敵と見なした、「敵の敵は味方説」が成り立っている状態ですね。

そしてこの武田・織田の同盟関係が実を結び、織田信長は無事に美濃を奪取することに成功します。

国境を接しても続いた織田家と武田家の友好関係

織田信長が美濃を攻め取ったため今度は織田家と武田家が隣接することになったのですが、両家の同盟関係はその後も続きました。この頃の武田信玄は三河の徳川家康とともに今川義元亡き後の今川領の切り取りに夢中になっており、武田領の裏側にあたる美濃方面の防衛は手薄になりがちです。

また西に進出したい織田信長としても東側の安全を確保したいという事情があり、両者の利害関係はガッチリ一致していました。特に武田軍の強さは当時最強とも噂される程で、もし敵対した場合には防衛のために大きく兵力を割く必要があります。そのため信長がこの段階での京都上洛を目指すためには、信玄との同盟関係は必須ともいえます。そういった両家の事情があり同盟をより強力なものとするため、信玄の娘・松姫と信長の長男・信忠の婚約を決めています。

ちなみにこの後に徳川家康が遠江を、武田信玄が駿河を領有して今川領を分割することになりますが、この時に国境の問題で武田家と徳川家はモメています。武田家が織田家の同盟国である徳川家とモメてしまったのですが、織田家と武田家の間は相変わらず良好のまま保たれています。

織田信長のプレゼント攻撃

武田家と織田家はお互いに利用し合う間柄ではあったのですが、両家の友好的な関係は利害だけのものではありませんでした。織田信長は毎年のように武田信玄に贈り物を送り、信玄の機嫌を伺ったといいます。

とある年に信長が着物を贈った時に、漆塗りの贅沢な木箱に収まっていました。漆箱に目をつけた信玄はふと箱を真っ二つに割ったところ、何層にも漆が塗られた最高級の漆箱だったそうです。信玄は着物だけでなくただの梱包にまで信長が気配りしていることを知り、信長からの誠意を感じたという逸話が残されています。

この逸話はいかにもいい話のように見えますが、実際のところ信長は信玄を異常に恐れており、意地でも武田家との戦争を避けたいという思いがありました。そのため信長は過剰なまでに信玄に丁寧に接しており、お金で戦争を回避できるのなら安い物、くらいの感覚だったのかもしれません。

織田信長の比叡山焼き討ちに対する信玄の反応

長いこと友好的なまま推移していった織田家と武田家でしたが、織田信長が比叡山の焼き討ちをしたあたりから不穏な空気が漂い始めます。「信玄」という法名を名乗っていることもそうですが、もともと武田信玄は仏教に深く傾倒していました。

そのため武田信玄は比叡山を焼き払った織田信長に対し、手紙ではあれど「天魔の変化」であるとして強く批判しました。しかし当時の織田信長には割りと余裕があったためか、その返答で自ら「第六天魔王 信長」という皮肉めいた署名をしていますので、まあこの段階でも武田家を倒せる自信があったものと思われます。

比叡山焼き討ちに関する記事はこちらからどうぞ。

信長包囲網に関する記事はこちらからどうぞ。

三方ヶ原の戦いで同盟決裂

将軍足利義昭と織田信長の関係が崩壊し諸国の大名に対して信長討伐を命じた時に、武田信玄にも同様の命令が出ています。信長の拡大に脅威を感じていた信玄はこの命令に呼応し、京都上洛のために大規模な西上作戦に出ます。この西上作戦で信玄は信濃から美濃への山越えルートは避け、平坦な海沿いの東海道を選択しました。そのため信玄がまずターゲットとしたのは、遠江を領有していた徳川家康となります。

その後三方ヶ原で信玄と徳川家康は戦うことになりますが、この時信長は徳川軍に援軍を送っています。すでに緊張状態となっていた織田家と武田家でしたが、織田軍が三方ヶ原で武田軍と戦ったことで同盟関係が決裂し、この時から武田家が滅亡するまで友好関係を築くことはありませんでした。

ちなみにこの同盟決裂により信長の長男・信忠と信玄の娘・松姫の婚約も同時に解消されていますが、この会ったこともない二人の絆は意外な程強く結ばれていました。

織田信忠と武田信玄の娘・松姫の後日談

織田家と武田家の同盟決裂により婚約が解消された信忠と松姫でしたが、ドライな政略結婚のための婚約とは思えない後日談が残されています。

三方ヶ原の戦いで婚約解消となってから10年近く経った後、その時の武田家当主・武田勝頼は織田信長との戦いに連戦連敗を重ねていました。そして武田家が滅亡となった時に松姫は甲斐国を脱出し、織田軍から逃れるために峠を越えて武蔵国・八王子へ辿り着いています。この時に松姫が越えた峠は、現在も松姫峠という地名として残っております。

松姫が八王子に滞在していることを知った織田信忠は喜び、ここで使者を出して松姫を迎えに行かせます。松姫は信忠からの迎えを受け入れ京都への道のりを歩み始めるのですが、松姫が移動している間に本能寺の変が起き、信忠は自害します。信忠の自害を知った松姫は関東へ戻り、武田家と友好的だった北条氏の領内で保護を受け出家し、信松尼という名で武田一族と信忠の冥福を祈り続けるという生涯を送りました。

悲しい結末となった2人ですが、別の物語も伝わっています。

こちらの話は信憑性が薄いのですが、一部の記録の中では信忠の長男・三法師の母が実は松姫だったとしているものもあります。信忠の長男・三法師は信長の後継者を巡る清須会議の中で、赤ん坊ながらも重大な役割を果たします。信忠と松姫が会えたのかどうか実際のところはもうわからないのですが、会えていたのならなんとなく嬉しいですよね。

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