戦国時代5 織田信長の京都上洛 | 足利義昭を将軍にするために

戦国時代の時代史

今回の記事では近畿地方で栄華を誇った三好家が長慶死後に分裂し、将軍の座をめぐるゴタゴタの中で織田信長が台頭していく場面をご説明します。

三好家の内部分裂

三好長慶の後継者は誰?

近畿一円に覇を唱えた三好長慶でしたが、弟である十河一存(そごうかずなが)が病死した頃から体調を崩すようになっていました。さらに長慶の長男・三好義興が22歳の若さで病死してしまい、期待していた跡継ぎを失うことになります。

三好家の跡継ぎには十河一存の長男を、三好義継と改名させて養子に迎えることとしました。ですが相次ぐ身内の病死によって落胆してしまったのか、長慶はそのまま43歳で病死してしまいます。

一大勢力を築き上げた長慶が亡くなったことにより後継者とされていた三好義継が三好家を継ぐことになりましたが、この時まだ若かったため三好家の重臣である三好長逸、三好政康、岩成友通の3人が補佐に就くことになります。この3人をひとくくりにして、三好三人衆と呼ばれます。

足利義輝の暗殺事件「永禄の変」

この頃の将軍は13代足利義輝となっております。義輝と長慶との間にイザコザはあったものの、長慶は義輝をきっちり保護するというスタンスをとっていました。実力はないにしても一応は将軍ですので、良好な関係を保っておくほうが良いといった長慶の判断だったのでしょう。

ですが長慶死後に跡を継いだ三好義継や三好三人衆には義輝を保護する意志がなかったのか、むしろ邪魔くらいに考えていたのか、突然御所に襲いかかり将軍義輝を討ち取るという暴挙に出ます。

義継から何かしらの要求があり、義輝がその要求を断り続けたために勢い余って殺害したといった説や、将軍側がむしろ三好家に対して攻撃の意志があったためといった説もあります。織田信長の家臣が記した「信長公記」の中では、将軍義輝が三好家に対して謀反を企てたため殺害された、とされています。「永禄の変」の真実はいまだ謎のままとなってはいますが、いずれにせよ将軍である義輝は殺害され、三好三人衆は自分達の意のままになる次の将軍候補を探します。

三好義継追放と14代将軍足利義栄就任

永禄の変に松永久秀は関わっておらず、むしろ変後には義輝の弟である足利義昭を匿っていました。有力な将軍候補である義昭が次の将軍になった折には、松永久秀に恩を感じた義昭によって高い地位を与えられる可能性を考えたのでしょう。

ですがこの時三好家では分裂が起こっており、まだ若い当主の義継を追い出し、三好三人衆が三好家を乗っ取ることに成功します。ここで三好三人衆はさらに地位を盤石なものとするため、三好家家臣の中で大きな勢力を持っていた松永久秀を討伐するため攻撃を仕掛けます。ここで松永久秀は大敗しますが、三好家から追われた義継と合流し、この後は三好家に対して敵対を続けることになります。

ついでに松永久秀が敗れてしまったことで久秀の元にいた足利義昭は将軍就任の可能性が薄くなり、ひとまず越前の守護大名・朝倉氏の元に逃げ延びることにしました。

松永久秀を追い払って落ち着いた三好三人衆は、殺害した義輝の後継者として足利義栄(よしひで)という人物を14代将軍に就任させます。足利義栄は11代将軍足利義澄の孫に当たる人物なのですが、生まれが四国の阿波だったため、三好家と親密だったことが大きな要因だったのでしょう。

織田信長の京都上洛への道のり

織田信長に支援を求めた足利義昭

この頃もう一人の後継者候補だった足利義昭は、越前の守護大名・朝倉義景を頼っている状態でしたが、朝倉義景は領地内の一揆対策に追われており上洛などできる状況ではありませんでした。

将軍への道を諦めていなかった足利義昭は朝倉義景以外を頼ることにし、この時白羽の矢を立てたのが尾張の織田信長です。織田信長はこの頃にはすでに美濃も領有しており、なおかつ京都上洛の意志を持っていたため義昭にとって最も条件が揃っている大名でした。

天下布武を目指す織田信長にとっても、京都の室町幕府や朝廷を影響下に置くメリットは大きかったのでしょう。義昭を自国へ迎えた信長は、すぐに京都への進軍を始めます。

織田信長の南近江侵攻

織田信長は美濃を攻め取る前に、北近江の浅井長政と同盟を結んでいました。浅井長政は信長の妹の「お市の方」を妻としており、政略結婚を含めた強力な同盟関係を結んでいます。美濃から京都へ向かう際にも同盟は非常に有利に働き、信長は安心して南近江の六角氏を攻撃しました。お市の方についての記事はこちらからどうぞ。

北近江の浅井長政からの援護を受けながら戦い、一週間ほどの間に六角義賢を撃退することに成功し南近江を制圧します。そして京都のある山城国までのルートを確保すると、京都への道を凄まじいスピードで進みました。

ちなみにこの頃三好三人衆はいまだ松永久秀との戦いの真っ最中だったため、織田信長と足利義昭は誰にも阻まれることもなくそのまま京都上洛を果たします。

織田信長と三好三人衆との戦い

この段階での将軍は14代足利義栄であり、義栄のバックにいるのは三好三人衆です。足利義昭が将軍になるためには三好家を打ち倒す必要があったため、織田信長は上洛した勢いのまま三好三人衆に攻撃を始めます。この時の織田軍は三好三人衆の一人である石成友通を撃破し、破竹の勢いで京都近辺の城を次々と攻め落としていきます。明らかに劣勢となった三好三人衆は不利を悟り、京都から撤退していきました。

ちょうどこの頃14代将軍足利義栄が病死してしまい、足利義昭や織田信長にとってあまりに都合のいい状況で、将軍が不在という状態となります。

15代将軍に足利義昭就任

三好三人衆の戦いが終わった後には三好三人衆と戦っていた松永久秀や三好義継が合流し、織田信長と共に足利義昭をもり立てることとなりました。

足利義昭は義栄が病死していたためスムーズに事は運び、念願叶って15代将軍に就任することとなりました。晴れて征夷大将軍となった足利義昭は、これまでの信長の協力に対して非常に感謝し、能舞などで労ったといいます。

ここで信長はひとまず役目を終えたため、自国へ帰還することとしました。松永久秀も織田信長のおかげで三好三人衆を追い払うことができたため、感謝の気持ちを表すためこの時一緒に美濃まで付き添っています。

まとめ

今回は三好長慶死後の三好家と、その後足利義昭を奉じて京都へ上洛した織田信長についてのご説明をいたしました。

次回の記事では、織田信長が朝倉義景や浅井長政といった大名達と戦いを繰り広げていく場面をご説明いたします。

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