戦国時代6 姉川の戦い | 浅井・朝倉と織田・徳川連合軍の激突

戦国時代の時代史

今回の記事では、織田信長が上洛後に朝倉家と対立していく場面をご説明したいと思います。

前回の記事では非常に親密な関係を保っていた織田信長と足利義昭ですが、今回の記事では段々と敵対関係となっていきます。自分自身の利益を拡大するためには裏切る手を組む相手を変えることや他者の権利を侵食していくのは当然、といった世相はいかにも戦国時代といった感があります。

それでは15代将軍に足利義昭が就任した後の場面から見てみましょう。

織田信長と室町幕府の関係

三好三人衆が足利義昭を襲撃した「本圀寺の変」

織田信長が足利義昭を室町将軍にしたことで騒動は一段落、ひとまず美濃へと帰還していきました。この時の足利義昭は本圀寺という寺で寝起きしており、将軍としての政務もここで執っていたようです。

ところが三好三人衆は織田信長が自国に帰ったのを見計らい、足利義昭が寝起きする本圀寺を襲撃しました。兄の足利義輝と同様に弟の足利義昭も三好三人衆に襲撃を受けるという、なんとも襲撃を受けやすい悲惨な運命の兄弟ではあります。

おねだりで建ててもらった二条城

ですがこの「本圀寺の変」は織田信長の妹婿・浅井長政らの活躍もあり、なんとか撃退することに成功しました。とは言え京都の治安はまだまだ不安だらけ、いつ三好三人衆がまた襲撃してくるかは分かりません。

ということで足利義昭は織田信長におねだりし、京都の市中に城塞兼執務所「二条城」を建設してもらいました。将軍御所が建設されたことで幕府組織も徐々に整備されていき、足利義昭の念願である室町幕府再興へ着々と歩みを進めていきます。

こちらは現代の二条城・東南隅櫓

足利義昭と織田信長・それぞれの思惑

織田信長の後見により将軍となった足利義昭は全国各地の大名に密書を送り、自分自身を支持するよう働きかけていました。足利義昭からすれば織田信長に大きな恩がありはするものの、あくまで家臣の一人でしかありません。そのため足利義昭は信長に気兼ねすることなく、将軍としての権威を作るために着々と行動を続けていきます。

ですが武力での領土拡大を目指している信長にとっての足利義昭は、あくまでコントロールの対象であり、室町幕府という権威を使うための小道具に過ぎません。そのためにわざわざ膨大な金と軍を使って京都を三好三人衆から奪還しており、期待するのは周囲の戦国大名を牽制する役割のみです。つまり足利義昭のためになることをしたのではなく、織田信長にとってはメリットを得るために足利義昭を将軍にしただけです。

こうした思惑のズレを、両者共に少しずつ気付いていったのでしょう。将軍就任当初こそ親密な関係を築いていましたが、段々と関係が冷え込み次第に対立していきました。そして織田信長は足利義昭の行動を次第に制限するようになり、また義昭は臣下であるはずの織田信長の干渉に苛立ちを感じるようになります。

朝倉義景・浅井長政との激突「姉川の戦い」

「姉川の戦い」に至るまで

1年ほどの間は織田信長と足利義昭は、言い分の食い違いはあっても争うことはなく、なんとか関係を保っていました。義昭にとっては強大な武力で保護してくれている信長をまだ失うわけにはいかず、信長としても室町幕府の中で重要な立ち位置にいることはまだまだ旨味があったのでしょう。

ここで織田信長は幕府の権威を背景に、近畿や北陸の大名達に参集するよう命令を出しました。この時に近隣の大名全てが上洛した訳ではありませんが、北陸で大きな勢力を築いていた朝倉義景は信長に対して「明確な」拒否の姿勢を示しています。そこで織田信長は室町幕府という権威の力を活かし、朝倉義景を幕府に対して不穏な気配がある、として討伐に向かうことになります。

もっとも織田信長の本音としてはただの侵攻の理由作りなのですが、一応は「室町幕府として戦うよ」という建前を使っているため、もし朝倉家を助けようとする勢力がいたとしても手が出せない訳ですね。つまり朝倉義景を助けようと援軍を出せば幕府に対する反逆者になる訳で、この状況を作り出すことが織田信長が足利義昭を助けた意図だったものと思われます。

織田信長が命からがら逃げ帰った「金ヶ崎の戦い」

盤石の状態で始まった朝倉家への侵攻

すでに北近江の浅井長政とは妹のお市を絡めた婚姻同盟を組んでいるため、織田信長は横槍を気にすることなく越前へ侵攻を開始します。ちなみにこの戦争では以前から信長と同盟関係にあった徳川家康も参戦しており、信長軍と行動を共にしています。

徳川軍を含む織田信長軍は京都から、3万もの大軍でもって越前金ヶ崎城に向けて攻撃を始めます。朝倉家の中での混乱もありあっさりと落城し、信長は奪った金ヶ崎城を拠点として順調に侵攻を進めていました。

ところがここで織田軍に不穏な知らせが舞い込みます。浅井長政が信長を裏切り、朝倉家に味方して織田軍に向かって攻撃するとの情報が信長の耳に入ります。何年もの間友好的な関係を続けており、義理の弟でもある浅井長政が裏切ることは信長にとって完全に想定外の出来事でした。

浅井長政の離反で一転大ピンチ

ここでの織田信長は浅井軍を友軍、つまり味方だと信じ切っていたため、当然ながらそれに対する備えなど一切ありません。しかしそこは戦国の風雲児、浅井軍の離反を知るや否や撤退を決意、挟み撃ちにされる前に戦場を離脱しようと軍を反転させました。ところが朝倉軍・浅井軍ともに追撃を開始、地形を熟知している利もあったのでしょう、織田軍の行く先々に現れて苛烈に攻撃したようです。ここでの織田信長は織田軍そのものを放棄、金ヶ崎城に木下藤吉郎などをオトリとして残したまま、自身は少数で京都への道をひたすら駆け戻りました。

この時の織田信長は道中で落ち武者狩りにも襲われたようで、お供として付き従っていた者も京都に辿り着くまでの間に僅か十人程にまで削られていました。もはや「命からがら」といった表現がピッタリの状況ですが、そんな大ピンチを凌ぎきった織田信長が考えたことはもちろん「リベンジ」ですよね。

この「金ケ崎の戦い」では置き去りにされた織田軍も、なんとか浅井軍や朝倉軍の追撃を食い止めながら撤退できたようで、大きな被害を出しながらも全滅だけは免れていました。もっともこの戦いに織田軍は3万もの大軍で臨んでいますが、この撤退戦だけではっきり分かっているだけでも1,000人以上の戦死者が出ており、負傷者に至っては数えきれない程いたものと思われます。まあこれがいわゆる「大惨敗」というヤツなのでしょうが、織田信長としては負けっぱなしで終わる訳にもいきませんよね。

「金ヶ崎の戦い」のリベンジ「姉川の戦い」

金ケ崎の戦いでなんとか逃げ延びることに成功した織田信長は、リベンジを果たすために美濃へ戻り軍を再編成します。そして金ヶ崎の戦いから2ヶ月も経たないうちに、浅井長政に対して攻撃を始めます。そしていくつかの城を奪いながら信長は侵攻を続け、浅井長政の本拠である小谷城から姉川を挟んだ位置に布陣しました。ここで金ケ崎の戦いで同じように逃げ延びていた徳川家康も参戦し、1万を越える軍で小谷城に睨みを効かせます。対する浅井長政にも朝倉義景の援軍が到着し、こちらも1万を越える軍に膨れ上がり、数日間の間姉川を挟んでの睨み合いとなっていました。

両軍の間にあり続けた「姉川」、意外と浅そうです

徳川家康が姉川に向かって突撃したのを皮切りに両軍が姉川付近で激突し、壮絶な戦闘が繰り広げられました。姉川の戦いの古戦場跡には、血原や血川といった生々しい地名が残っている程です。両軍ともに大きな被害が出る乱戦となっていましたが、徳川家康の奮闘もあり織田軍が勝利します。

「姉ヶ崎の戦い」が終わって

戦いに勝利した信長でしたが自軍の被害がかなり大きかったため、浅井長政の居城である小谷城は攻めず、付近の城を奪って行動を制限する方向へ転換します。そして小谷城より南側にあった浅井家の城を次々と落とし、領土の拡大に成功します。

敗北した浅井家と朝倉家では軍の被害も大きかったのですが、何より重臣の戦死者が多く出ていました。特に姉川の戦いの後に領土を奪われた浅井家は大きく弱体化し、単独では戦争を仕掛けることもままならない状態に陥ります。

そして単独で信長と戦っては勝てないことを悟った織田領付近の大名たちは、信長に対抗するための手段を考え始めます。

「姉川の戦い」まとめ

今回の記事では1570年に起きた織田信長と、朝倉家や浅井家との争いについてご説明しました。

次回では信長に対して寺院を含む諸大名が連携し、信長包囲網が形成される場面をご説明します。

次回記事:信長包囲網 | 織田家の周りは敵だらけ

前回記事:織田信長の京都上洛 | 足利義昭を将軍にするために

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