室町時代4 将軍4代から7代 | 義持と義量と義教と義勝をざっくりと

木剣 室町時代の人物録

今回の記事では3代将軍・足利義満が亡くなった後、応仁の乱に至るまでの室町将軍たちを軽めにご紹介したいと思います。4代足利義持・5代足利義量・6代足利義教・7代足利義勝のマイナー四人衆は意外と味があるのですが、やはり偉人・足利義満があまりに凄すぎたせいか、残念ながらスケールはかなり小さめだったりします。

意外とやり手な4代将軍・足利義持

明との冊封関係を断ち切る

3代将軍の足利義満は生前に将軍職を辞任しており、その嫡男・足利義持がわずか9歳で4代将軍に就任しました。とは言え就任当時の足利義満はまだまだ健在だったため、足利義持の年齢も相まって長いこと言いなり状態が続いていたようです。ですが足利義満が亡くなってからは本領発揮、ようやく時代が来たとばかりに自分のカラーを出し始めました。

足利義満は貿易のために当時の中国王朝・明との国交を開きましたが、国家間の関係としては建前的に明に従属する形式をとっていました。この緩やかな従属関係は「冊封」と呼ばれますが、足利義持は父が始めた明との冊封関係に疑問があったようで、まあ要するに気に入らなかったものと思われます。もちろん冊封関係を断ち切ることは貿易の停止を意味しますが、将軍職を引き継いだ足利義持にとっては余程不満だったのでしょうか、義満の死後少しの間だけ明との冊封関係を続け、そしてすぐに破棄しています。

細く長くをモットーに歴代最長の28年

明との国交を放棄したことで自ら収入を減らした足利義持でしたが、稼ぎまくった足利義満の遺産のお陰でしょうか、意外と国内は安定を保っていました。足利義持は「質素な生活」を家臣達にも求めていたとされていますが、外貨を稼がなくても国内が安定していたのはそのためだったのかもしれません。ひょっとしたら派手好きな足利義満への反発なのかもしれませんが、たびたび禁酒令を出したりと、周囲にも質素を強要する側面を持つ人物でもありました。

ちなみに足利義持の将軍在任期間は28年で、歴代の室町将軍の中で最長の任期を誇っていたりします。足利義持は細く長い将軍時代を過ごした後、父・足利義満と同じ様に存命中に将軍職を返上、息子である足利義量(よしかず)に譲り渡しました。

就任期間わずか2年の5代将軍・足利義量

読みづらい字ではありますが「よしかず」と読みます。足利義量は17歳で将軍に就任していますが、この時点での足利義持はまだまだ健在というか健康そのものであり、職位は手放しても実権を譲る気はなかったものと思われます。この早めに将軍を譲るという形式は父・足利義満を真似たようで、若い将軍を補佐するという建前で実際に政治を動かしていたのは義持でした。

ところが足利義量は将軍に就任して2年後、病のために亡くなってしまいました。その原因は元々病弱だったという体質的なことに加え、際限なくお酒を飲みまくる大酒飲みだったためといわれています。父である足利義持は何度か禁酒令を出していますが、その嫡男である足利義量が大酒飲みとはちょっと皮肉な感じがしてしまいますね。

という訳で足利義量が亡くなってしまったことにより、将軍の座は空位のまま足利義持が代行するという形で政治が進められています。

クジ引きで将軍になった6代将軍・足利義教

足利義持の後継者は誰?

足利義量の死後に幕府政治を取り仕切っていた4代将軍・足利義持でしたが、この時点で義持の男児は全員亡くなってしまっています。という訳で後継者になれる血筋の人間と言えば義持の弟達しかいなかったのですが、義持は病気になって危篤状態になってからも後継者を選んでいませんでした。

次の将軍が決まっていないことに困り果てた幕府の家臣たちは意を決し、これまでに前例など見当たらない信じがたい決断をしました。それは石清水八幡宮という由緒正しい神社にいる神様に、次の将軍を選んでもらうという、要するに「神頼み」に走り始めた訳です。とは言え神様に選んでもらう、なんてことはまあできないということで、実際にやったことと言えばただの「クジ引き」でした。

クジを当てて将軍に就任させられた足利義教

ここでクジを引き当ててしまったのが足利義教(よしのり)でした。実は足利義教は兄・足利義持が将軍になった時点で、後々起こるであろう後継者争いに巻き込まれないよう出家していました。ところが足利義量が亡くなったら急に神社に集められ、「クジを引かされたらなんか当たって将軍になれ言われてます!」、というのが義教側から見た本音でしょう。当然義教は辞退に辞退を重ねますが、幕府の家臣達も将軍不在の危機を乗り越えるために必死で説得、結局ゴリ押されて義教は将軍に就任することになります。

嫌々ながら将軍になった義教でしたが、父である義満がやっていたことを覚えていたのでしょうか。就任してからしばらくは足利義満の政治を模倣し、回帰を図りながら意外な程まともな政策を実施していました。

足利義教の恐怖政治

ですが気持ちが行き過ぎてしまったのか、段々と恐怖政治の様相を帯びてきます。義満の時代以外では常に起き続けた反乱に対しても、かなり苛烈な対応をしています。また義教の意見を聞き入れなかったというだけで、守護大名を誅殺することもありました。

怒る上司のイラスト

義教の苛烈さは段々と武士以外にも及び始めます。お酌の仕方が下手だったという理由で侍女は髪を切られて尼にされ、献上された梅の枝が折れたというだけで庭師を罰し、説教をしようとした日親という日蓮宗の僧侶は舌を切られています。こういった出来事は枚挙に暇がない程で、すでに誰もが義教を見限っていました。

暗殺されてしまった足利義教

そんな中で、義教はあっさりと暗殺されます。暗殺したのは赤松満祐という、幕府の最長老格の人物でした。赤松満祐は義教に殺されることに怯えており、殺される前に先手を打った形ですね。その後赤松満祐も幕府に討伐軍を向けられ、自害することになります。

義教がいなくなることを誰しもが願っていたのですが、幕府はいきなり将軍を失って大混乱に陥りました。よくも悪くも義教という強烈な独裁者によって運営されていたため、独裁者がいなくなって命令の出どころがなくなっている状態ですね。幕府としてはまず将軍を決めることが最優先のため、義教の長男である義勝が将軍として選ばれました。

在任期間わずか8ヶ月の7代将軍・足利義勝

義教が暗殺されてしまうという事件により、義勝は9歳で将軍に就任することになりました。今現在の年齢でいうと、7歳の小学一年生が将軍です。小学生が当然政治など分かるわけもないので、管領の細川持之が実権を握って裁決などを行っていました。

ですが義勝は、将軍に就任してから8ヶ月という短さで亡くなっています。死因としては落馬説や暗殺説など諸説ありますが、病死が一番濃厚な気がしますね。将軍がいなくなって喜ぶ人は、この時代にはあまりいなかったでしょうから。

そして管領細川持之は、またも次なる将軍を迎える手はずを整えます。

室町将軍4代目から7代目までのまとめ

今回の記事では、将軍を一人ひとり面白そうな部分をピックアップしてご紹介しました。どの将軍にもいえることですが、若いというより幼くして将軍に就任しています。やはり支える側の人間としては、自分の考えがある大人よりも言うことを聞く幼い子供のほうが都合いいのでしょうね。

次回の記事では、室町幕府の影響力が大きく下がる原因となった応仁の乱についてのご説明をします。

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