氏姓制度について | 「氏」の後には「の」を入れて読む

藤原鎌足 その他考察

今回の記事では、日本古代の階級社会を形作った氏姓制度についてのご説明をいたします。

氏姓制度は、日本の6世紀頃の大和政権初期から段々と出来上がっていき、そして平安時代の初期にはすでに機能を失い、明治時代に平民が苗字を名乗ることを許されたことで完全に消滅します。そのため現代に生きる日本人にとっては、全く馴染みがなく理解し難い制度となっています。

すでに失われた氏姓制度ではありますが、日本史関連の記事を眺めているとちょこちょこ見かけるため、ざっくりと理解できるようご説明したいと思います。

氏とは苗字の上位となる氏族を表す概念

氏と苗字は現代では同じ意味として扱われていますが、明治時代初期までは別のものとして扱われています。「氏」とは氏族名を表すものであり、苗字とはまた異なる意味合いを持ちます。

古代や中世の日本では苗字は自分で勝手に名乗ることができ、かなり融通が効くものとなっていました。戦国時代末期の羽柴秀吉が名乗った羽柴という苗字は、織田家の有力な家老である柴田勝家と丹羽長秀の苗字から1字ずつもらう形で名乗っています。また住んでいる地名を苗字として使ったり、役職に関連する名称を苗字っぽく作るなど、苗字として使われていた名称もかなりバリエーションに富んでおります。

これに対して「氏」は自分が属する氏族名を表すものであり、苗字の上位にあたり自身のルーツを示すものでもあります。公の場では苗字を持っている人も「氏」を名乗ることになり、例えば室町幕府初代将軍の足利尊氏は、朝廷で征夷大将軍に就いた時には「源尊氏」という名前で扱われています。「足利」はあくまで苗字であり、「源」が「氏」となります。

氏族とは血縁で結びついた集団

源氏や平氏・藤原氏などの有名氏族を始めとして、氏族とは特定の人物を祖先とした血縁集団を指します。どの氏族にも始祖となる人物がおり、その始祖の末裔たちは全て同じ氏族に属することになります。例えば藤原氏は大化の改新などで功績のあった藤原鎌足が始祖となり、平氏は平安京への遷都を行った桓武天皇が始祖となります。

古代や中世では氏族単位で共同体のような関係性を持っており、基本的に同一氏族の人同士が協力し合っていました。家族内で協力していくのは割と当たり前のことではありますが、協力する範囲をちょっと遠い親戚まで拡大し、複数の家族が属する氏族という単位で協力し合っていたという訳です。つまり氏族というものを平たく言うと、ただ単に親戚関係のある人達ということになります。平安時代の後期に平時忠が放った「平家に非ずんば人にあらず」という有名なセリフからは、平氏が氏族単位でどれだけ権勢を誇っていたかを窺い知ることができます。

ですが当然のことながら氏族は年月が経ち世代交代が進むほど大きくなっていくため、藤原氏などの大きな氏族は細分化されていき、〇〇系や〇〇流といった系統分けがされていきました。平安時代中期の藤原道長が属する氏族名は、「藤原北家九条系御堂流」という、ちょっとしたお経くらいに長くなっています。

姓(かばね)とは

朝廷から与えられる称号

大和時代頃に制度化された、朝廷との関係性や氏族の地位を表した称号が「姓」です。功績のあった人が属する氏族に高い地位の「姓」が与えられるため、1人優秀な人物がいれば氏族全体で恩恵を受けられるシステムとなっていました。また渡来人であることを示す「姓」や職業を示す「姓」などもあったため、「姓」とは朝廷にとって氏族を大雑把に分類するためのものだったと言えます。

この「姓」に関連する制度は奈良時代初期の天武天皇によって大きく改定され、「八色の姓(やくさのかばね)」という制度に生まれ変わることになります。

天武天皇の元で制定された八色の姓

「八色の姓」ではこれまでボンヤリとしていた「姓」による序列が明確にされており、また「姓」のランクによって出世できる上限が決まっているという家柄重視の制度でした。「八色の姓」は良い言い方をすれば新たな身分秩序を作った制度ですが、悪い言い方をすれば藤原氏を始めとした天皇と関係の深い氏族を優遇するためだけの制度でもあります。

それでは「八色の姓」ではどういった「姓」があったのかを見ていきましょう。

「八色の姓」

  • 真人(まひと):皇族にのみ与えられる最高位の姓
  • 朝臣(あそん):皇族以外に与えられる姓としては最も地位の高い姓
  • 宿禰(すくね):朝臣に次ぐ地位となる姓、由緒正しい氏族に与えられる
  • 忌寸(いみき):4番目となる姓、渡来人系の氏族に多く与えられる
  • 道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ):未使用

「八色の姓」が制定されると最上位となる真人から順番に授与されていきますが、4番目となる忌寸が授与された以降は一切の音沙汰がありません。ですので「八色の姓」という名称がつけられていますが、実際のところは四色だけとなるかなり中途半端な制度でした。天武天皇にとって都合の良い氏族を優遇するための制度だったためか、5番目以降は特にどうでもよかったのかもしれませんね。

ほとんどの人が朝臣

「八色の姓」は非常に中途半端な制度ではあったのですが、天皇や皇族の地位を絶対的なものにし、また藤原氏を始めとした天皇家と関係性の深い氏族の立場を押し上げることには成功しました。この結果朝廷内では朝臣の「姓」を持つ氏族が幅を効かせるようになり、同一氏族出身者を優遇して昇進させるなど氏族の拡大を目指しました。大きくなりすぎた朝臣の「姓」を持つ氏族は細かく系統分けされ、その系統がまたそれぞれ朝臣の「姓」を持つ氏族として拡大を目指しました。

そして最終的には朝廷内では朝臣の「姓」を持つ人物だらけとなり、身分制としての「八色の姓」は完全に崩壊します。奈良時代初期に始まった「八色の姓」は平安時代の中期頃にはすでに意味を成しておらず、完全に形式だけのシステムとなってしまいます。ですがこの形式だけの氏姓制度は、誰にとっても意味のないまま明治時代まで延々と続きます。

氏姓制度の終わり

1870年に発布された「平民名字許可令」によって、これまで一般庶民には許されていなかった苗字を国民全員が持つことになりました。また1872年の壬申戸籍に登録される人名には、氏族名や「姓」は記載されず、苗字だけが登録されています。ここで「氏」という単語は氏族を表すものではなくなり、「氏=苗字」という考え方で固定されることになります。そのため現代の日本でも「氏=苗字」という考え方が当たり前となっており、氏族という概念そのものがなくなっております。

こうして古代日本から続いた氏姓制度は明治維新で完全に消滅し、現代に至るまで人名の制度は変わっておりません。

氏姓制度の豆知識

氏族名を表す「氏」の後には「の」が付きます

誰が決めたのかはよくわからないのですが、名前と「氏」の間には「の」が入ります。

飛鳥時代から平安時代くらいに登場する人名のほとんどは大きな氏族の出身となっており、また公式の文書でしか記録が残っていないため、ほぼ全員の人名が「氏」で記されています。「氏」を読む場合は氏族名の最後に「の」が付けられるため、蘇我蝦夷は「そがのえみし」と読まれ、藤原道長は「ふじわらのみちなが」と読まれます。

鎌倉時代以降も「の」が入るルールは健在で、源頼朝は「みなもとのよりとも」と読まれます。源氏という氏族を表す「氏」の後には、ルール通りに「の」が入ることになります。ですが鎌倉幕府の得宗家である北条氏を読む場合には「の」は入らず、初代執権・北条時政は「ほうじょうときまさ」という読み方になります。北条家は桓武平氏を自称していたため、「氏」としては平氏に属することになります。北条というのはあくまで苗字であるため、名前の前に「の」を入れずに読まれることになります。

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