室町時代2 観応の擾乱 | 足利尊氏・直義兄弟と南北朝が絡み合った内乱

清水の舞台からの夜景 室町時代

今回の記事では足利尊氏が征夷大将軍に就任し、「観応の擾乱」で部下の高師直との内乱を戦う場面についてのご説明をします。

ちなみにこの擾乱は、「じょうらん」と読みます。気象用語にも使われる単語なのですが、「入り乱れて騒ぐこと」を意味します。こんな言葉が当てられる程、ややこしくて入り乱れた事件となっています。

あまりに長い事件なので、今回は3章に分けてご説明しています。ぜひ最後までご覧になってください。

観応の擾乱 一章

足利尊氏・直義 2人の統治者

室町幕府は組織の仕組みこそ鎌倉幕府とほとんど同じではありますが、できたばかりの頃は足利尊氏と尊氏の弟である直義の、二人での統治となっていました。

尊氏が足利家執事の高師直とともに軍事を管理し、直義が訴訟など政務を担当するという役割分担がされていたんですね。一見すると良さそうな役割分担ですが、トップが2人になると必ず揉め事が起きるのが歴史でもあり、今回も例に漏れず観応の擾乱という形できっちりと揉めています。

公家・寺社の保護者直義と御家人の保護者高師直

直義が扱っている訴訟は主に貴族や寺社からの、新興の御家人達に領地を取られたといったものが多くありました。そのため貴族や寺社という、旧来の権益を保護する立場となっていたんですね。そして尊氏や足利家執事である高師直は軍事を担当しており、どちらかといえば貴族や寺社から領地を横取りしている御家人達側の立場にありました。

こういった立場の違いは次第に派閥争いの様相を呈し、段々と緊張が高まっていきました。

南朝が攻めてきたけれど

そんな中で南朝の楠木正行という、楠木正成の長男が軍を引き連れて京都奪還にやってきました。

最初は直義派の御家人が派遣されたのですが、ここで負けてしまうんですね。そして続いて出撃したのが高師直でしたが、楠木正行を討ち取るという大きな活躍を見せます。

このことによって直義派は発言力が一気に低下してしまい、代わりに高師直派は勢力を大きくしました。勢力が衰えてしまった直義派でしたが、ここで大きな恨みを溜め込んだともいえます。

ちなみにこの頃の足利尊氏は仏教にハマっており、ほぼ隠居していて派閥争いにはほとんど関心がなかったようです。足利尊氏という人物については下のリンクからご覧になってください。

直義ついに怒り爆発

そしてすでに高師直を許せなくなっていた直義は、ついに行動に出ることになります。

直義は高師直の数々の悪行を半隠居中の尊氏に訴え、そして足利家執事から排除することに成功します。さらに高師直を討ち取るために、師直追討の院宣をもらおうと光厳上皇に要請まで出しています。

足利家執事をクビになってしまった高師直は当然のごとく怒り、そしてこちらも大胆な行動に出始めます。

高師直 将軍御所を包囲する

怒りに燃える高師直は迅速に軍をまとめ、直義を追い落とすためにクーデターを起こしました。あまりに急な出来事で、クーデターの成功を許してしまった直義は側近と共に尊氏の屋敷に慌てて逃げ込みます。

さすがに尊氏の屋敷を包囲したりはしないだろうと多寡をくくっていた直義でしたが、高師直は現役の将軍である尊氏の屋敷を包囲し、そして直義の側近の身柄を要求します。

直義も意地を見せて要求を拒否しましたが、高師直は包囲を続けて屋敷の食べ物がなくなるのをひたすら待ちました。現役将軍に対して恐ろしいことをしますよね。ひょっとしたら執事をクビにした尊氏も恨んでいたのかもしれません。

結局直義が幕府から追放される

高師直もさすがに尊氏の屋敷を攻撃する訳にもいかず、ただ時間だけが過ぎていきました。

そして仲介者が現れた後に再度交渉し、結局のところ直義の側近は殺さないまでも島流しとされ、直義も幕府には関与しないという条件で包囲が解かれることになりました。

ここでひとまず一件落着かと思いきや、これまでのことはただの発端に過ぎず、事件はまだまだ続きます。

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観応の擾乱 二章

直義の養子 足利直冬

直義には足利直冬という養子がいました。この直冬は尊氏の子供なのですが、尊氏に認知されずに私生児となっていたため、直義が引き取って養子に迎えていたという経緯があります。

直冬は長門探題という重要な職に任命され、備後(現在の広島県)に滞在していました。そこで直義と高師直が争っていることを知り、養父の直義を助けるために中国地方の兵をかき集めて京都へ向かいます。ですが直冬が軍を連れて京都へ向かっていることを知った尊氏は高師直に直冬討伐令を出し、直冬を九州まで敗走させました。

足利直冬 九州で頑張る

尊氏の血なのでしょうか、敗走して九州になんとか辿り着いた直冬でしたが、ここで味方となる直義派の御家人を集めました。そして直冬の勢力は拡大していき、尊氏にも無視できない勢力に成長することになります。

ここで尊氏は直冬に対して、出家して隠居することと京都へ1人で来ることを命令しましたが、直冬は拒否します。そのため尊氏は再度直冬討伐令を出しますが、直冬はさらに勢力を拡大、さらに南朝と連絡をとり協調しながら尊氏に対抗しようとします。

直冬を討伐しようとした足利尊氏 でしたが

尊氏は直冬討伐のために、中国地方にまで軍を進めていました。

ですが先の事件で幕府に関与しない約束をしていた直義は、味方を大和(現在の奈良県)で募り、高師直打倒のために決起します。さらに鎌倉でも直義派が高師直派を追放し、不穏な気配が高まっていました。

直義派の動きを知った尊氏は九州に討伐軍を向けるどころではなくなってしまい、京都に戻るために中国地方で待機していた高師直と合流しました、そして尊氏はついに直義を討ち取る決意をし、光厳上皇に直義追討令を出してもらい、直義を「朝敵」とします。

高師直とその一族の滅亡

「朝敵」とされた直義でしたが、この時代には朝廷が2つあるんですよね。北朝がダメなら南朝ということで、直義は南朝と連絡をとり、南朝側の軍として京都へ進撃しました。

尊氏軍よりも早く直義軍が京都へ着いたため、直義は京都を制圧し、中国地方から京都に向かってくる尊氏軍を迎え撃つ構えを見せます。そして西から迫る尊氏軍と京都を背にした直義軍が激突し、ここでなんと直義軍が勝利します。

自軍の不利さに頭を抱えた尊氏でしたが、ぶつかってダメなら交渉ということで、休戦の使者を直義に送ります。この時の尊氏からの条件は、高師直を追放することでした。直義としても尊氏を倒して将軍になるつもりはなかったらしく、条件を呑んだため和議が成立します。そして戦場からそのまま京都へ護送されていた高師直とその一族でしたが、護送中に直義派の軍に襲われあっさりと殺害されてしまいます。

少しもやもやする終わり方ではありますがここで事件が一件落着、かと思いきやまだまだ内乱は続きます。

観応の擾乱 終章

派閥争いは継続中

高師直とその一族がいなくなり一旦は平和が戻ってきた気がしましたが、幕府内では派閥争いは依然として続いていました。表面上は直義が幕府の政務担当に戻り、足利直冬は九州探題という重要職に就き、そのまま九州で勢力を保持することになっています。

すでに尊氏と直義の関係は壊滅的なものになっており、尊氏は直義派を締め出そうと行動を始めます。尊氏派は直義派の人を脅したり説得したりと、あらゆる手口で尊氏派に引き入れようと画策しました。嫌な手口ではありますがこれが功を奏し、段々と直義派から尊氏派に移っていく人が増えていきます。内乱で直義派として戦った御家人達も、報奨を求めて尊氏派に乗り換える者が多くいました。

そもそも直義のスタンスとは

そもそも直義が政務を担当していた時には、公家・寺社の保護者というスタンスをとっていたんですよね。かなり前のことのように感じますが、「公家・寺社の保護者直義と御家人の保護者高師直」の見出しでもご紹介しています。そのスタンスは内乱後も変わっておらず、内乱で功績を挙げた御家人に対しても特別な報奨を出すことはありませんでした。

これは筆者の想像なのですが、直義は「御家人なんだから戦争に出て当然」といった感覚を持った人物だったのではないかと思っています。ある意味では間違っていないのですが、武士の気持ちをあまり理解していないような気がします。武士の気持ちはいつだって、「たくさん働く⇒たくさん領地もらう⇒幸せ!」ですよね。そのために体を張って命を懸ける訳ですから。このあまりにもシンプルな気持ちを、直義は汲み取ることができなかったように思います。

衰えた直義派に

徐々に勢いを失っていた直義派は、南朝と手を組んで勢力を盛り返そうと必死になっていました。そんな中で、自分の派閥が有利であると確信していた尊氏は行動に出始めます。

直義派が南朝と連絡をとり反乱を起こそうとしているとして、尊氏は京都を軍で制圧しました。

直義は今回も脱出に成功し、鎌倉へ辿り着きます。そして直義は南朝の支持を受けながら、またも内戦状態へと突入していきます。

直義と南朝を分断せよ

京都を制圧した尊氏でしたが、直義派は衰えたとは言え大きな勢力を持っており、また九州には養子の足利直冬もいます。尊氏は以前の戦いで直義に負けていることもあり、戦闘で決着をつけるよりも直義の力を削ぐ方を優先しました。

尊氏は南朝と直義が手を組んでいる状態を崩そうと考え、分断を図ります。そして直義と直冬追討令を出してもらうために、尊氏は南朝に条件付きの和議を提案しました。その条件というのがとんでもないもので、北朝が持っている三種の神器を南朝に渡し、なおかつ北朝の政権を返上することが条件となっていました。尊氏は何度も助けてくれた北朝を南朝に差し出すことになり、そうまでしても直義を討ち取る覚悟だったと言えるでしょう。

正平一統

尊氏の提案を南朝が受け入れ、南朝と尊氏の和議は成立しました。そして当たり前のことではありますが、尊氏と北朝の関係は一気に冷え込むこととなりました。

これまでは朝廷が2つあったためそれぞれの朝廷で別々の元号が使われていたのですが、今回の件で北朝が半ば消滅したため、「正平」の年号に統一されることになりました。この出来事は、「正平一統」と呼ばれます。

観応の擾乱ついに決着

南朝との連絡がとれなくなってしまい、そして討伐令を出された直義は「朝敵」となりました。現代では想像が及ばない程の破壊力を持った「朝敵」という言葉は、直義派をバラバラにして勢いを失わせます。

尊氏は鎌倉に逃げ込んでいた直義を追い詰め、あっさりと降伏させることに成功しました。そして直義は鎌倉のお寺に幽閉されましたが、すぐに急病で亡くなりました。直義が亡くなった日がちょうど高師直の一周忌にあたるため、師直の仇として殺された可能性も否定できません。

擾乱の主役であった直義が亡くなったことにより、ここで観応の擾乱はついに収束を迎えることになります。

観応の擾乱後の影響

幕府が始まって以来、直義派と尊氏師直派に分かれていた御家人達は派閥の旗頭を失い、表面上は抗争が落ち着くことになりました。ひとつにまとまったとはいえ御家人の不満は常に燻り続けており、また九州には足利直冬が依然として大きな勢力を保っています。一旦は擾乱に決着がついたのですが、まだまだ幕府と南北朝の間には火種だらけの状態です。

そして直義が保護する形となっていた貴族や寺社は保護者を失い、さらに衰退していくことになります。こうした出来事が、室町時代に新しい流派の仏教が多く現れるきっかけになったと筆者は考えています。

まとめ

今回は、観応の擾乱についてのご説明をしました。書き始めた当初は筆者もこれほど長くなると思っておらず、いつ終わるのか不安になってしまう程のボリュームです。

鎌倉時代もそうでしたが、時代の変わり目は荒れてしまうものなのかもしれませんね。

次回の記事では3代将軍に足利義満が就任し、幕府を立て直す手腕を見せつけていきます。よかったらご覧になってください。

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