鎌倉時代2 比企能員の変 | 御家人たちの争い

日本刀 鎌倉時代

今回の記事では頼朝の将軍就任から死去、その後には幕府の有力な御家人である梶原景時や比企能員が内戦で次々と滅び、そして将軍の権威がなくなっていく場面のご説明をします。

源頼朝 征夷大将軍に任命される

1192年、源頼朝は朝廷より征夷大将軍に任命されました。このことが鎌倉幕府1192年開府説の根拠となっています。

ですが以前のページでご説明した通り、幕府という名称そのものが日本では明治期に入ってからのものです。そのため、「幕府が開府された」という言い方そのものに矛盾がありますね。当時は開府どころか、幕府という名称すらなかったのですから。ですがこの後は征夷大将軍という位が武士の棟梁である証となり、室町時代にはこの将軍の座を巡って幾度となく争いが起きています。

ちなみにですが、源頼朝自身は征夷大将軍の位にあまり執着がなかったらしく、就任してわずか2年後に辞任する意思を見せていたとか。そしてこの7年後の1199年、武士の世の中を作り上げた源頼朝は53歳で死去します。

梶原景時の変

ここからの出来事によって、将軍の権力はどんどんと削られていくことになります。その影には北条時政を始めとした、北条一族の暗躍が垣間見えてきます。

十三人の合議制

頼朝の長男である頼家が2代目として跡を継ぐことになりますが、18歳と若くして偉大な父の跡を継いでいるんですね。若さのせいなのか、御家人達の訴えを従来の習慣とは違うやり方で裁いていました。

そんなやり方は多くの有力御家人達から大きな反感を買い、継いでから3ヶ月後には訴訟を1人で裁決する権利を剥奪されます。代わりに十三人の有力御家人が合議で裁決するものとされ、早くも将軍としての権限が薄まることになりました。

十三人の合議とは言っていますが、実際に十三人で合議をすることは一度もなく、数名で評議された結果を頼家が最終的に判断する仕組みだったようです。

この時も梶原景時は頼家の側近として、そして十三人の1人として大きな権力を振るっていました。

梶原景時恨まれる

そして頼朝死去から1年後、梶原景時という将軍の側近が御家人達から糾弾を受けるという事件が起こります。

もともと侍所別当という、御家人達を取り締まる役に就いていた梶原景時は、御家人たちから恨まれやすい立場にありました。独裁的な政治をとる源頼朝にとっては無くては成らない役割であり、またその役割をきちんとこなしたからこそ恨まれたとも言えます。

梶原景時の変

梶原景時に対する糾弾の署名には、なんと66人もの御家人の名前が連なっていたといいます。中には流れで乗っかっただけの御家人もいるのでしょうが、それだけの人数に恨まれる立場というのも恐ろしいですね。2代将軍源頼家は庇おうにも庇いきれず、結局梶原景時は追放され、その後すぐに梶原家は滅亡しています。

ちなみにこの66人による署名には、北条時宗の名はありません。

将軍の側近であり忠臣でもあった梶原景時がいなくなり、結果的に将軍の権力はさらに落ちることになりました。

比企能員の変

頼家にとっての頼るべき存在

梶原景時がいなくなってから若い源頼家が頼ったのは、頼家の妻の父である比企能員でした。

頼朝が幼い頃の乳母は比企氏の人間であり、平氏に追われた頼朝が流人であった頃も、比企氏は頼朝を支え続けました。その功績によって比企氏は幕府内で手厚く扱われ、比企能員は幕府でも重要な地位にありました。さらに頼家は比企能員の娘を側室として迎えていましたが、その娘が長男の一幡を産んでいたため、比企能員は非常に大きな権力を手にしていました。

頼家の急な危篤

1203年のある日、頼家は突然急病に倒れ危篤状態となります。ここで頼家が持っていた領土の相続についての話し合いがあった結果、頼家の弟である千幡と頼家の長男である一幡に、分割で相続させることになりました。

ところがこの分割相続に対して、比企能員はひどく不満を持ちました。すでに大きな権力を持っていた比企能員は、孫にあたる一幡に全て相続させ将軍にして、より一層の権力を手に入れるつもりだったからでしょう。

頼家の弟である千幡の母親は北条政子であり、北条時宗を筆頭に北条氏が強く千幡を後押ししていました。ここで比企能員は頼家に、北条時政を討伐する相談を持ちかけます。そして頼家は北条時政に対して快く思っていなかったのか、これを承諾しました。

比企氏滅亡

ですがこの頼家と比企能員の相談を、なぜか北条政子に盗み聞きされてしまいます。あまりに杜撰すぎる展開ではあるのですが、この後に比企能員はあっさりと北条氏に謀殺されてしまうんですね。そして比企能員を失った比企一族に北条氏の軍勢が襲いかかり、比企氏は一夜にして滅ぶ結果となりました。

頼家も比企能員との相談を承諾していたため、北条時政によって幕府から追放されることになりました。そして3代将軍には、北条氏の後押しがあった千幡が就任します。

「鎌倉殿の13人」比企能員の記事はこちらからどうぞ。

まとめ

今回は比企氏が滅び、結果的に北条氏が勢力を増したところまでをご説明しました。次回では北条時政が幕府執権となり、その後に起きる幕府と朝廷との戦いをご紹介します。

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