平治の乱からの家人・足立遠元

足立花火大会 鎌倉時代の人物録
足立花火大会

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平治の乱では源義平の17騎として

足立氏は藤原北家にルーツを持ちながら、武蔵国足立郡に土着してから足立姓を名乗った在地豪族です。足立遠元は鎌倉に本拠を置いていた源義朝の家人として平治の乱にも参戦しており、鎌倉悪源太の異名を持つ源義平率いる17騎の一人として戦っています。この戦いに負けた後の遠元の記録は残ってはいないのですが、義朝の嫡男・源頼朝が平氏打倒の挙兵をすると再び歴史の表舞台に姿を表しています。

石橋山の戦いに敗北した頼朝が安房国で再起すると、遠元は即座に反応し武蔵国に入った頼朝を迎え入れています。その後の頼朝は鎌倉に本拠を置き、東国武士を統括するために独自の政権を築き始めました。頼朝はいち早く参集した遠元を高く評価し、足立氏が持つ武蔵国安達郡を改めて本領安堵しています。本領安堵とは土地を持っていた人物に対して所有を認めて保証することを指すため、遠元は頼朝からその地位と領土の保有を認められたことになります。

叔父の安達盛長とともに「鎌倉殿の13人」に

足立遠元は鎌倉幕府の草創期に活躍した、安達盛長という人物の甥に当たる人物です。続柄としては盛長の甥ではあるのですが、年齢的には盛長と同年代、もしくはちょっと年上くらいでしょうか。1199年に源頼朝が急死すると2代目鎌倉殿源頼家が就任していますが、将軍の独裁体制に御家人の不満が高まると、政治や裁判を会議にて取り決める十三人の合議制が発足しています。

十三人の合議制についてはこちらからどうぞ。

この合議制メンバーには遠元だけでなく叔父の安達盛長も入っているため、2人して幕府内の政治方針を決める重要なポジションにいたことになります。合議制メンバーの他の御家人達には北条時政北条義時親子や大江広元中原親能梶原景時といった錚々たる面々が名を連ねているため、遠元という割と活躍が少ない人物が同等の地位を占めていたことに若干の違和感を覚えてしまいます。幕府の政治を決める会議とは言え所詮は人の集まりということで、功績だけでなく人格なども加味されての選出だったのかもしれませんね。

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消えるようにフェードアウト

十三人の合議制が始まってから約半年後に梶原景時が鎌倉から追放され、三浦義澄がその3日後に病死、そして遠元の叔父である安達盛長も程なくして病死してしまったため、メンバー不足ということで合議制は1年と保たず解体しています。その後比企能員を経て2代将軍・源頼家が暗殺されると、3代将軍・源実朝の下で北条時政が執権として幕政のリーダーシップをとっています。

北条時政についてはこちらからどうぞ。

その間の遠元は時政を始めとした北条一門とも上手くやっていたようで、娘と北条義時の弟に当たる北条時房との婚姻をまとめ上げたりしています。そのため他氏排斥に余念がない北条氏のターゲットにもならなかったのですが、1207年の記録を境に足立遠元の名は消えています。

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