安土桃山時代4 織田信長は天下統一を目の前にして明智光秀の前に散る | 本能寺の変

織田信長肖像 安土桃山時代の時代史

今回の記事では、織田信長が本能寺の変で倒れる場面をご説明いたします。

本能寺の変に至るまで

ほぼ天下人の織田信長

長篠の戦いで大きく力を落としていたとは言え、甲州征伐で日本中に名を知られていた武田家を倒したことにより、織田家に表立って抵抗する勢力は越後の上杉家や中国地方の毛利家だけとなっていました。東北の伊達家や最上家・佐竹家とはすでに外交でカタがついており、また九州の大友家や島津家も慌てて友好の使者を送って来るという、織田家はもはや日本中の誰もが無視できない大きな存在となっていました。

また、関東の横綱・北条家は甲州征伐で一緒に武田家を攻撃する約束になっていたところ、大した貢献もできなかったため信長に対して献上品を贈ってご機嫌取りをするという、かなり従属的な関係を必死に保とうとしている状態でした。ちなみにこの北条家からの献上品は鷹や馬だったらしいのですが、信長は気に入らなかったらしく全て突っ返しています。

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甲州征伐で宿敵・武田家を滅ぼした織田信長は、甲斐国(山梨県)や徳川家康の支配地となっていた東海道諸国を見物し、ついでに富士山もたっぷり眺めてから悠々と安土城へ凱旋しています。後継者・織田信忠のこの戦いでの活躍にも大いに満足したようで、「天下を譲りたい」といった主旨の発言も気軽に飛び出る程でした。

本栖湖から見た富士山
本栖湖から見た富士山

信長包囲網が構築された頃には東の徳川家以外は日本中敵だらけだったのですが、十数年経って周囲を見渡してみれば近畿や中部・東海地方はほぼ全て信長の影響下となっています。さらに西も東も主だった大名の大半が、生き残りを賭けて必死に信長にゴマを擦るという、向かうところ敵なしの状況となっています。すでに信長の天下統一は余程の事故がない限り時間の問題でしかなく、後はスマートに毛利家を倒せばほぼ完結してしまう状態となっていました。

信長包囲網についての記事はこちらからどうぞ。

徳川家康の安土城見物

甲州征伐後に徳川家領内を見物して回った織田信長は、饗応の返礼と甲州征伐の完了を祝うために、家康だけでなく本多忠勝など徳川家の重臣まで安土城へ迎えています。信長は接待の責任者に万事気の利く明智光秀を任命、京都や堺から貴重な品物を取り寄せて3日間盛大にもてなしました。

ちょうど饗応3日目に中国地方の攻略にあたっていた羽柴秀吉から手紙が届き、援軍の要請が舞い込みます。すでに羽柴秀吉は毛利家から但馬国・播磨国(共に現在の兵庫県)を順調に奪い取っており、迎撃に現れた吉川元春や小早川隆景を打倒し、一気に勝負をつけるために援軍を呼んでいます。信長はこの援軍要請に対して即座に自身と明智光秀を中心とした軍の派遣を決定、むしろ毛利家そのものを討伐するために大軍を編成します。明智光秀が部隊編成のため接待役を外れると後任として丹羽長秀や堀秀政が引き継ぎ、饗応の舞台が京都に移ってからも数日に渡って家康御一行は能や舞を楽しんでいます。信長の長男・織田信忠が京都へ上洛すると家康たちと合流し、数日の間行動を共にしています。しばらく京都で過ごした家康一行は信忠や信長と別れ、貿易都市として栄えていた堺の町を見物するために摂津国へ旅立ちます。

本能寺の変

本能寺の変前夜

徳川家康を送り出した織田信長は、京都での定宿として使っていた本能寺に宿泊しながら、商人や家臣を招いて盛大な茶会を開催しています。その夜は織田信忠と酒を酌み交わしたという記録が残っており、きっと将来的な展望や家族のことなどを話し合ったことでしょう。信長は酒を飲まなかったと言い伝えられてはいますが、自身の息子の前では少しくらい嗜んだのかもしれません。

現代の本能寺
現在の本能寺は何度も焼失した後に場所を移して再建されています

一方の近江国坂本城に立ち寄った明智光秀は、京都のやや北に位置する自身の居城・丹波国亀山城で軍を整えました。光秀は饗応役を降りてから2週間後には13,000もの軍を亀山城付近で招集していますが、ここで初めて光秀の長男・明智秀満や斎藤利三など5人の重臣に謀反の件を通達すると、重臣達は打倒織田信長に同意し誓約書を交わします。

光秀は兵達には真意を伝えず、西の中国地方へ向かう道を行かずに京都への道を進みます。深夜の行軍を経て京都内を流れる桂川に着くと、光秀は鉄砲の火縄に火を着ける命令だけはしますが、まだここに至っても攻撃目標は兵達に知らせませんでした。そして光秀は不用心にも門が開け放たれたままの本能寺を静かに包囲し終えると、声を張り上げて攻撃を命令します。

天下人・織田信長の死

攻撃が始まると織田信長はすぐに跳ね起きますが、当初は自身の兵達が喧嘩でもしているのだと思ったそうです。ですがすぐに鉄砲の轟音が響き渡ると、何者かの謀反であることに気付き、周囲にいた森蘭丸に尋ねます。

さては謀反だな、城之介(信忠)か?

明智の軍勢と見受けます

是非に及ばず

このような会話があったと「三河物語」という徳川家の記録に残されています。この発言の意味はなかなか意味深ではありますが、信長からすれば「このタイミングで謀反を起こすなら信忠」という気持ちがあったのでしょうか。ですがそもそも信長はほとんど兵を連れずに本能寺に宿泊しており、誰の謀反も想定していなかったように思えます。すでに安全地帯となっていた京都市街で、誰かに襲われることなど考えもしていなかったのでしょう。

「是非に及ばず」とは「仕方ない」という意味となり、何事にも手際の良い明智光秀の謀反だとすれば、逃げることはできないことを悟ったのでしょう。信長はしばらく弓で応戦しますが弦が切れ、次は斬り掛かってくる敵と槍で戦いますが数人突き伏せた所で負傷してしまい、ここで寺内に戻り女達に逃げるよう指示、そして寺に火を放ちます。信長が腹を切ると森蘭丸は首を渡さないために畳を何枚もかぶせたため、自刃した後の遺骸も燃え尽き、天下人・織田信長は一夜にして一切の痕跡を残さず姿を消します。

炎上

二条城で籠城した織田信忠でしたが

本能寺で信長が光秀に襲撃されたことを聞いた織田信忠は、父を助けるために単身で救援に向かおうとしますが、ちょうど駆けつけた織田家家臣・村井貞勝達と遭遇し、当然のように押し止められます。本能寺から信忠の宿となっていた妙覚寺はわずか1.2キロの距離であったため、村井貞勝らは付近にあった二条城で明智光秀の攻撃を凌ぐことに決めます。二条城は後の後陽成天皇の持城となっていましたが、信忠は緊急事態ということで皇族たちを脱出させ、防御を固めて迫る明智軍に備えました。

本能寺の変が起きてからやや時間が経ってから明智軍は城を包囲しましたが、本能寺の変を知った織田家の兵が二条城に続々と集まり、1,000人を越える兵が集結していました。戦闘の舞台が城壁も高かった二条城ということもあり、また装備も充実していた信忠軍は意外なほど強く、何度も攻め寄せる明智軍を撃退しています。ですがしばらくすると光秀は攻め方を急遽変更、付近にあった近衛前久という貴族の家の屋根に兵を登らせ、城内を見渡しながらの砲撃を始めます。精度の高い砲撃で兵が次々と倒れていくと信忠は切腹を決意して城に火を放ち、信長同様に跡形もなく消え去ります。

本能寺の変が起きた理由

怨恨説や野望説など

明智光秀が織田信長を討ち取るまでの足取りは結構多くの記録が残っているのですが、肝心の理由についてはほとんど残されていません。もちろん軍の記録などに一個人の心情をいちいち残しているワケもないのですが、これだけの大事件で一つも残っていないというのも不思議ではあります。

文学や歴史についても十分な知識を持っていた明智光秀が、後世で「謀反人」との汚名を着せられることを嫌がり、日記などの心情を書き連ねた書類を全て処分している場合も考えられます。もはや天下人となっていた織田信長の突然の死は後世になってからも様々な議論を呼び、怨恨説や野望説など数多くの説が作られています。

本能寺の変の原因についての様々な説についてはこちらからどうぞ。

まとめ

今回の記事では、本能寺の変で織田信長が倒れ、明智光秀が一時的に京都を支配する場面をお伝えしました。

次回は羽柴秀吉が中国地方から舞い戻り、主君の敵として光秀を打ち倒す場面をご説明いたします。

次回記事:豊臣秀吉の中国大返しと山崎の戦い

前回記事:織田信長の甲州征伐

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