平安時代4・藤原基経の関白就任と菅原道真が左遷された昌泰の変

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摂政・藤原良房の跡を継いだ藤原基経(もとつね)

清和天皇の摂政として天皇大権を振るい続けた藤原良房でしたが、良房は自身の子がいなかったために藤原基経という人物を養子に迎えていました。この基経は良房の兄の子供に当たる人物なのですが、基経の妹・藤原高子は清和天皇の女御として長男・貞明親王を産んでおり、つまり基経は順調に行けば次の天皇の叔父という恵まれたポジションにいた訳です。さらに人臣初の摂政となった良房の後継者ということで、この時点での基経の出世は約束されていたようなものでしょう。

事実基経は様々な官職を歴任した後、良房の生前にもすでに右大臣という3本指に入る役職に就いていました。そして良房が亡くなると完全に朝廷内を掌握し、国内政治の主導権をガッチリと握っています。それから数年後に清和天皇が貞明親王に天皇位を譲ると、ここで即位した9歳の陽成天皇を補佐するために基経が摂政に就任しました。

藤原基経が事実上の関白に就任

長く藤原基経に政治を任せ続けていた陽成天皇でしたが、成長するにつれて基経が鬱陶しくなっていったのか、両者の関係は段々と冷え込んでいきました。これまで陽成天皇の補佐には摂政の基経だけでなく、位を譲った清和上皇も一緒にサポートしていたのですが、上皇が亡くなりバランスが崩れたことがキッカケだったようです。また陽成天皇としては自身の手で政治を動かしてみたいという願望もあり、基経という大きな存在が邪魔になったことも不和の一因だったのでしょう。とは言え基経としては長年にわたって陽成天皇を支え続けてきたプライドもあったようで、それならば「自分でやりたいんなら勝手にやれば?」という意志を込め、朝議に出ないというボイコット行動で対抗しました。

ですが基経がボイコット中に陽成天皇は不祥事を連発し、朝廷では陽成天皇の続投を危ぶむ声がヒソヒソと囁かれ出しました。そんな話を耳にした基経はいきなり行動開始、久しぶりに出廷したかと思えば天皇の交代を発議しますが、普通に基経の意見が通ってしまい陽成天皇はほぼ強制的に譲位させられてしまいました。ここで即位した光孝天皇はすでに55歳、この天皇は皇族と言っても本来であれば天皇になるなどあり得ない身の上であったため、感謝の意を込めて「基経に政治は全て委任します」という公式の発表を出しました。すでに成人していた光孝天皇から天皇大権を委任されたということで、この時基経は日本初の「関白」になっています。

藤原基経の権力を世間に知らしめた阿衡(あこう)事件

55歳にして思いもかけない天皇位を手に入れた光孝天皇でしたが、在位3年にして体調を崩してしまい亡くなってしまいました。ここで天皇位を引き継いだ宇多天皇は父・光孝天皇と同様に藤原基経に政治を一任することを決意し、橘広相(たちばなのひろみ)という人物に任命状の起草を任せました。ですが基経はこの文書の内容が気に入らなかったようで、陽成天皇の時と同様にまたも朝議をボイコットし始めています。

宜しく阿衡の任を以って、卿の任と成すべし

この文中における「阿衡」とは中国王朝における「関白職」を意味しており、また「卿」とは高貴な人間に対するただの2人称です。つまり上の一文は「あなたを関白に任命します」くらいのシンプルな文でしかないのですが、ただ「阿衡」という中国風味のオシャレな言葉を使ってしまったことが大問題の引き金となりました。中国での「阿衡」は実権を持たないただの名誉職だったようで、それを知った基経はこの部分に引っ掛かりを覚えてしまい、「本当は権力を渡す気ないんじゃない?」と勘ぐってボイコットに至ったという訳です。

この基経の引き籠もり騒動はなんと半年にも及んだのですが、その間ずっと最高権力者が不在ということで、大小様々な政務が一切進みませんでした。さらに基経は任命状を起草した橘広相の流罪を要求し、宇多天皇をさらに困らせるというクレーマーさながらの行動をとり始めます。また基経からすればこの騒動を利用して、「宇多天皇<藤原基経」という力関係を世間に見せつけられる訳で、粘れば粘るほどおいしい状況でもありました。ですがこの状況で基経に手紙を送って説得し、橘広相の流罪も食い止め、この「阿衡事件」と呼ばれる一連の騒動を収束した人物がいました。その人物こそが後に学問の神様とも呼ばれる「菅原道真(すがわらのみちざね)」です。

藤原基経によって見出された若き学者・菅原道真

菅原道真は「阿衡事件」が起きた頃は讃岐国(香川県)の国司に赴任していたのですが、基経が朝議をボイコットしていたために政務が完全に滞ってしまい、困ったから基経に「ちゃんと仕事してください」と言いに来た訳ですね。とは言え道真は基経に敵対的な感情でそうしたのではなく、どちらかと言えば信頼する上司に対して謙虚に意見した、という感じの方が近いでしょうか。

道真は元々朝廷の官僚養成所で漢文や儒教を学んでいた学生でしたが、藤原基経に才能を見出されて出世した人物だったりします。基経は道真に対して信頼できる可愛い部下くらいに思っていたらしく、道真が讃岐国へ向かう前にわざわざ送別会を催してもいます。そんな道真からの意見ということで基経も聞く気になり、橘広相の流罪の件も水に流して諦めたのでしょう。ですが宇多天皇はこの基経の暴走(というか引き籠もり)を止めた道真に目を付け、基経が亡くなると道真を側近として抜擢しました。

菅原道真のイラスト
若き学者・菅原道真

菅原道真が250年以上も続いた遣唐使を廃止

宇多天皇は学があって骨もある菅原道真を重宝し、ありとあらゆる相談事を投げ掛けました。政治のことから天皇の後継者決めといった相談事も道真に投げられていますが、これらのことは本来重職にある者とするべきものであり、秩序としては若干マズいところもあります。ですが宇多天皇はそんなことはお構いなしに道真を信頼し続け、遣唐大使という国家の代表となる任務も道真に任せています。

遣唐大使に任命された道真が唐の事情を調査すると、この時点での唐は内乱続きの混乱状態にあることが判明しました。これを知った道真は遣唐使自体の中止を提案しますが、さすがに250年も続いた慣例を取り止めるのは抵抗があったようで、「行けそうになったら行きましょう」くらいのふんわりした結論でまとまりました。道真が遣唐大使に任命されたのは894年ですが、実際に唐は長い混乱期を経て907年に滅亡しており、道真は遣唐大使の任を帯びたままずっと日本にいるという謎の結末で終わっています。

飛鳥時代に始まり平安時代に終わった遣唐使についての記事はこちらからどうぞ。

「昌泰の変」前夜・藤原時平の讒言

遣唐使の一件で若干ゴタつきはしたものの、それでも道真は宇多天皇からの信頼を失うことはありませんでした。むしろ以前以上に重宝されて右大臣に任命され、左大臣の藤原時平とともに朝廷のトップを担うこととなりました。そして宇多天皇は道真の娘を3男の后に迎えさせ、道真と天皇家の血縁関係も含めたより深い関係を築き上げています。ここで宇多天皇は安心して引退できると思ったのか長男に譲位し、即位した醍醐天皇を道真と共にサポートする体制を作りました。

ですが道真の出世と天皇家との結びつきは、これまで朝廷でリーダーシップを取り続けてきた藤原氏にとって許せるものではありません。藤原基経の長男である藤原時平は、道真の急激な出世に危機感を覚えて排除を目論みました。この頃の醍醐天皇は宇多上皇の言いなりになっている自分に嫌気がさしていたようなのですが、藤原時平はそんな醍醐天皇を丸め込み、「菅原道真は醍醐天皇を追放して別の天皇を立てようとしている」と告発しました。

「昌泰の変」と菅原道真の神格化

これを聞いた宇多上皇は慌てて醍醐天皇に事情を聞きに行こうとしますが、衛兵に拒まれて面会すらできなかったとされています。現職の天皇と左大臣・藤原時平が作り上げた嘘は真実として扱われ、有罪判決を受けた道真の処遇は太宰府への左遷で決着しました。ですがこの左遷はほぼ流罪とも言える過酷なもので、なんと北九州までの旅費は支給されず、また現地での給料が出ないどころか食費すら出ないという処刑に近い扱いでした。そんな境遇に陥った道真は太宰府に着いてから二年後、嘆きの言葉を吐きながら静かに亡くなっています。

天神様とも呼ばれる菅原道真
菅原道真は「天神様」とも呼ばれます

この「昌泰の変」から7年後に事件に関与した藤原菅根(すがね)、そしてその翌年には事件の首謀者である藤原時平が病死しています。そしてその5年後にやはり事件に関与した源光(みなもとのひかる)が沼に落ちて溺死するという不幸が相次いだため、当時の人々は「菅原道真の怨霊」の仕業として噂しました。怨霊というファンタジーな概念も平安時代当時は結構現実味があったようで、その後に起きた落雷事故、そしてその3ヶ月後に醍醐天皇が病死したことも道真の怨霊に結びつけられました。ここまで続いたらもう絶対に祟りでしょ、ということで急に道真が祀られ始め、気付けば神格化され「学問の神様」として扱われ始めています。現代でも受験生に大人気の太宰府天満宮ですが、人々の都合で罪人から「学問の神様」に変えられた菅原道真本人はどのような気持ちでいたのでしょうか。

菅原道真を含む日本三大悪人はこちらからどうぞ。

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