賤ヶ岳の戦いから関ヶ原の戦いまで・安土桃山時代後半のまとめ

安土桃山時代のまとめ・その他記事
豊國神社の豊臣秀吉像

羽柴秀吉VS柴田勝家・賤ヶ岳の戦い

清州会議で羽柴秀吉が織田家のリーダーシップをとったことで、長く織田信長に仕えていた宿老筆頭・柴田勝家は面目を潰す格好となりました。また秀吉としても柴田勝家は本来であれば上役の追い越すべき壁であり、織田家を乗っ取るためには邪魔者でしかありません。戦争での決着を望んだ柴田勝家は伊勢国(三重県)にいた滝川一益と結託、まずは滝川一益を挙兵させて秀吉の目線を南に向けました。その間に柴田勝家は本拠・越前国(福井県)から南下して近江国(滋賀県)を急襲しますが、秀吉はそれを読んでいたのか軍を即座に反転して賤ヶ岳の戦いに勝利、柴田勝家はお市の方とともに北ノ庄城で自害しています。

徳川家康は羽柴秀吉に挑む・小牧長久手の戦い

賤ヶ岳の戦いに勝利した羽柴秀吉は織田家の家臣達を完全に掌握、論功行賞と称して思うがままに配置換えを行いました。その論功行賞は織田信長の子供達、つまり本来であれば秀吉の主君の一族に対しても行われており、もはや織田家は秀吉に乗っ取られつつある状態です。そんな状況に信長の次男・織田信雄は待ったを掛け、徳川家康と同盟し秀吉に対して挙兵しました。この挙兵に対して秀吉は討伐軍を差し向けると、尾張国(愛知県北中部)の小牧・長久手辺りで両軍が激突、この戦いは半年以上も決着が付きませんでしたが、織田信雄が秀吉と同盟し直したことで勝敗が付かないまま終結しています。

豊臣秀吉の天下統一戦・九州征伐と小田原征伐

小牧・長久手の戦いはウヤムヤのままに終わりはしましたが、豊臣秀吉は日本有数の大名・徳川家康を家臣に取り込むことに成功しました。この時点ですでに中国地方の毛利家とは同盟が成立しており、秀吉の天下統一まで四国や九州、そして関東だけが残されていました。秀吉はここで四国の長曾我部元親を降伏させ、続いて九州の島津義久を降伏させることに成功しています。西日本を完全制圧した秀吉は関東に目を向けて小田原征伐を完遂、ついに前人未到の天下統一を成し遂げています。

豊臣秀吉はアジア制服を目指す・朝鮮出兵

日本国内を制圧しきった豊臣秀吉は、次に中国の明征服を目標に掲げました。この無謀とも言える計画に対して反対できる大名など一人もおらず、30万人規模の大軍が編成され、まずは九州から程近い朝鮮半島へと海を渡りました。一度目の朝鮮出兵となる文禄の役では、わずか20日で李氏朝鮮の首都を攻略、そこからさらに北へ向かって破竹の勢いで攻め続けています。ですが補給線を明の援軍に突かれて講和を結び、続く慶長の役が始まってすぐに秀吉が病死、日本軍の戦う目的が無くなったことでこの戦役は終結しています。

豊臣秀吉が朝鮮出兵を考えた理由の考察はこちらから。

徳川家康の横暴と石田三成の反抗

豊臣秀吉は病死する直前に残した遺言では、全て徳川家康に相談しながら国政を執ることが記されていました。そのため多くの大名達が家康にすり寄り始めますが、家康は豊臣家の取り決めで禁止されている私的な婚姻を数多く結び、豊臣家というよりも自身の権力増大に努めています。そんな状況を憂いた石田三成は家康を糾弾して反家康の派閥を作り、越後国(新潟県)の上杉景勝に挙兵させ、三成自身も大軍を編成し美濃国(岐阜県南部)で挙兵しました。徳川家康も大軍を編成し上杉景勝討伐に向かっていましたが、その途上で三成の挙兵を知ると、即座に反転して関ヶ原に軍を向けました。

石田三成の西軍と徳川家康率いる東軍が激突・関ヶ原の戦い

先に布陣した石田三成率いる西軍に対し、徳川家康の東軍は東海道をゆっくりと進み、ついに決戦の地・関ヶ原に辿り着きました。家康は中山道からやって来る次男・徳川秀忠の軍を待っていましたが、秀忠の軍は途中の信濃国で真田昌幸の軍勢に手を焼き、到着が遅れ合流できないままでした。ですが家康は秀忠軍が到着する前の決戦を決断、井伊直政福島正則が先陣を切って突撃すると、西軍も迎撃し互角の戦いを繰り広げました。そんな中で事前に家康と内応の約束をしていた西軍大名が次々と離反、拮抗状態が崩れると西軍は一気に敗走し、ここで家康が勝利し天下人の地位を手にしています。

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