豊臣秀吉の朝鮮出兵の動機は未だ謎
精鋭揃いの日本軍が見せた快進撃
豊臣秀吉による朝鮮への出征は、当時朝鮮半島を統治していた李氏朝鮮だけでなく、中国を統治していた大明帝国にも多大な影響を及ぼしています。特に文禄の役では朝鮮側では防衛体制が整っていなかったこともあり、わずか3週間で漢城府(現ソウル)を陥落させるという快挙を果たしました。
この遠征に参加した名将達はもとより、戦国時代をくぐり抜けた精兵達は異国の地でも大活躍を見せています。特に日本軍の鉄砲の命中精度や刀剣の扱いはダントツだったようで、それについて大明帝国の記録にすら賛辞と恐怖が入り混じった報告が残されています。
日本の鉄砲についての記事はこちらからどうぞ。
動機だけが謎のまま
ですが、実は豊臣秀吉が朝鮮遠征を行った動機については謎のままで、研究が進んだ現代の歴史家の間でも議論の的となっています。それでもそれっぽい理由がいくつかは挙げられてはいるのですが、どの説も決定打不足であり、全て推測の域を出ていません。
国家単位の戦いであるにも関わらず謎のままという点では、個人の独断で行われた「本能寺の変」の謎よりも根が深いかもしれません。今回の記事では、遠征が行われた動機をできる限り資料に基づいて各説と考察をご紹介しておりますが、この記事の内容が事実や世間的な評価と異なる可能性があることを予めお断りしておきます。
明智光秀が本能寺の変を起こした動機についてはこちらからどうぞ。
朝鮮出兵の動機とされる各説
褒美のための領土拡張説
最強だけど領土的には最大ではない
天下統一を成し遂げたということは、逆に言えば日本国内にこれ以上獲得できる土地が存在しないことを意味します。ということで、豊臣秀吉は家臣達に与えるための新たな領土を手に入れるため、やむなく朝鮮へ出兵したという説です。
豊臣秀吉は日本全土を自身の影響下に置いたにも関わらず、豊臣家の領土としては石高で220万石程度しか保有しませんでした。この数字は当時の日本全体の石高・2000万石の約9分の1程度ではありますが、関東地方に転封された徳川家康は秀吉より多い250万石を保有していました。
つまり天下人であるはずなのに、一番土地を持っていた訳ではない、という妙な状態となっていた訳です。しかもこの後家臣が手柄を立てればもっと家康との差が開くことになるため、そういった状況を打破するための領土獲得、という筋書きですね。
領土拡張説は割りとありそう
いきなりではありますが、この領土拡張説は豊臣家の弱点を痛いほど突いており、正直なところ否定する材料はないように思えます。家臣にとって「手柄を立てる=褒美=土地ゲット」が当然のことであり、そのための土地を持っておくべきという発想は大いに納得のいくものです。
だったらそんなに気前よく土地を渡さなければ良いのでは、とか思ってしまいますが、秀吉は大名を処罰せずに残したケースが非常に多く、また気前の良さも手伝ってポンポンと家臣に土地を渡していました。まあ豊臣家には大阪という大商業都市からの税収、そして石見銀山といった鉱山からの収入があったため、そこまで領土面積に依存していなかったのも事実です。
誰一人として望まなかった朝鮮の領土
実は朝鮮出兵が始まる直前、中国地方の大大名・毛利輝元と豊臣秀吉の間でこんなやり取りがありました。
朝鮮をぶん取ったら、今の10倍の領土をあげちゃうよー
だから頑張ろうな!
いらないです
この遠征に乗り気だったのは実は豊臣秀吉だけで、他の大名にとっては「天下人が言い出したから付き合うしかないか」くらいでしかなかったようです。まあ文化・言語や衛生状態も日本とは当然異なるため、統治上の困難を考えれば不要どころか足手まといだったのでしょう。実際に現地で奪った土地は誰からも欲しがられず、拠点として利用された以外は放棄されています。
とは言え、ここで大事なのは豊臣秀吉が遠征を考えた動機ですので、この領土拡張説はかなりアリかなと筆者は考えております。もちろんこの理由だけが全てではないでしょうが、いくつかある理由の一つくらいにはなっていたのではないでしょうか。
国内の余剰戦力を海外で消費説
戦国期という戦乱の時代が突然収束したことで、それまで戦闘で輝きを見せていた武士達は突然活躍の場を失っています。事務や管理能力を持つ武士にとっては平和な時代でも活躍できるのでしょうが、大半を占めていた(かなり偏見ですが)戦闘しかできない武士にとって平和は歓迎できなかったでしょう。そういった武闘派武士に新たな活躍の場を与えるため、文禄・慶長の役が起こされたという説ですね。
この説は江戸時代後期の歴史学者・頼山陽、また明治期に日本に招かれ夏目漱石の先生ともなったジェームズ・マードックなど、かなり多くの歴史学者に提唱され支持を受けています。また17世紀のフランス人宣教師・ジャン・クラッセの著作「日本西教史」では、「秀吉は不平を持つ輩が反逆するのを防ぐために15万人に海を渡らせ、軍隊が帰還するのを妨げて飢えさせようとした」という、もはや朝鮮出兵が口減らしの方法だったかのような記述がされています。要するに豊臣秀吉は日本国内の余った戦力を「消費」することで、安定した統治を目指した、という流れです。
ひどすぎる分だけリアルな気もしますが、この説が動機となっていた場合には少し事実との矛盾があります。戦役が始まってすぐに豊臣家譜代の加藤清正や小西行長といった武将が海を渡っており、秀吉からすれば「頼りになる」武将ばかりが最序盤に派遣されています。もし余剰の武士たちを除く目的であれば、率先して派遣したいのは仕方なく豊臣家に従属している外様であり、残したいはずの数少ない譜代武将を最も危険な最序盤に投入するのはむしろ逆でしょう。そして小牧・長久手の戦いで倒しきれなかったライバル・徳川家康を、渡海させなかったことも辻褄が合わない気がします。ということで、この説は少し可能性が薄いかなという結論です。
豊臣秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いについてはこちらからどうぞ。
愛息や弟を失った落胆からのヤケ説
もともと明国を征服するつもりでいた豊臣秀吉でしたが、弟となる豊臣秀長、そしてやっと生まれた自身の嫡子・鶴松が亡くなるという不幸が相次ぎます。秀吉はその鬱屈を晴らすために出征し、大明帝国を隠居地としようとした、という説です。
なんとなくコジツケ感が否めない説ではありますが、朝鮮出兵の準備段階で弟と愛息が亡くなったこと自体は事実であり、また秀吉が悲しみに暮れたこともきっと事実でしょう。なかなか息子が生まれなかった秀吉にとっての鶴松は、愛する息子というだけでなく、豊臣家という日本の統一政権の成否に関わる重要な存在でした。そのため鶴松が生まれた時の秀吉の喜びと、失った時の悲しみは筆舌に尽くしがたいものがあります。
秀吉にとって豊臣秀長や鶴松の死は当然悲しかったでしょうが、あくまで朝鮮出兵の準備に取り掛かっている頃のことであるため、やはり直接的な動機にはなりえません。朝鮮への遠征は九州征伐の頃にはすでに検討されていた形跡があり、鶴松が亡くなったことで決意を強くした可能性はありますが、動機になった可能性は極めて低い気がします。
純粋な功名心説
秀吉が朝鮮出兵に向かう前、朝鮮王朝に送った国書には「只々佳名を三国に顕さんのみ」というシンプルな目的が記述されています。この文言の意味するところは、要するに「豊臣秀吉の名を中国や朝鮮の歴史にも刻みたい」といったところでしょう。国書という普通は建前だらけの手紙に、あえて本音が書かれていたという前提で、この功名心を原動力としたという説が成り立っています。この国書にはさらに大明帝国や朝鮮に日本の習俗や文化を植え付けるという途方も無い目標が述べられており、当然こんな要求を受け入れられるはずもないということで開戦したとされています。
豊臣秀吉が自身の名を中国史や世界史の1ページに刻みたいという気持ちは、結構有り得たのではないかと筆者は考えております。一般庶民の身分から日本統一を成し遂げてしまった秀吉は、世界史レベルで見ても相当な偉人でしょう。織田信長が道筋を作ったとは言え1代で全てを手に入れた秀吉が、さらに名を高めようと思った可能性は充分にあるかなと思います。同様の見解を持つ明治から昭和前期の歴史家・徳富蘇峰は、秀吉の朝鮮出兵を指して「征服欲の発作」とバッサリと切り捨てています。
まとめ
この記事でご紹介した説以外にも、世界征服を考えていた説やキリスト教を排除するため説など、ありそうでなさそうな数々の説が存在しています。人の行動の動機を説明すること自体が難しいですが、日本史上唯一となる全国制覇を成し遂げた天下人となればなおさらでしょう。
結局のところ、豊臣秀吉の真意はすでに歴史の闇に葬り去られており、いくら推論を立てたところで実証する方法はありません。歴史的偉人がやることは凡人の想像の域を越えているものであり、全ての推測が完全に的外れである可能性も充分にあると思います。これからも多くの歴史家や小説家の手によって、様々な説について提唱と議論が繰り替えされるのでしょう。