山崎の戦いが終わった後の織田家
明確な後継者がいなくなった織田家
羽柴秀吉が明智光秀を討ち取って本能寺の変の混乱が収まると、今度は誰が織田家のイニシアチブを握るかという問題が急浮上しました。まあ一応は織田信忠の嫡男・三法師がいたのですが、この時点ではまだ3歳だったため当然舵取りなどできません。
この時の織田家の支配域は日本の半分くらいにまで達しており、もはや天下統一は時間の問題といったところでしょう。とは言えまだまだ敵対する勢力は多くいたため、力強く家臣達をまとめ上げる強力なリーダーが望まれていました。
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じゃあみんなで会議しましょう
織田家の後継者なんて次の天下人にも等しい存在ですので、誰かの一存で決める訳にもいきません。ということで宿老と織田信長の子供達で一堂に会し、会議にて決めようということになりました。
これは恐らくではありますが、提案したのは山崎の戦いで大きな功績を挙げた羽柴秀吉だったものと思われます。まあ自身の優位が明確だからこそ会議を開きたい訳で、「全員の前でハッキリさせたろう!」くらいに思うのはむしろ必然でしょう。開催場所は三法師が居る尾張国・清州城、ここで宿老や信長の子供達による熾烈な利権争いが始まります。
まずはこの清州会議に参加した人物と簡単な背景をご紹介したいと思います。なお今回の記事では、映画「清州会議」の作品中の画像を掲載させていただいています。役所広司さんや大泉洋さんなど豪華キャストのこの映画、ぜひ一度はご覧になってみてください。作品の背景を把握した上で見ると、場面場面の細かなやり取りが理解しやすくてより楽しめます!
清州会議の参加者
山崎の戦いでメインを勤めた羽柴秀吉
本来であれば、宿老筆頭の柴田勝家と長く織田家を支え続けた丹羽長秀、序列としてはこの2名の次に来るのが羽柴秀吉という人物でした。そして織田信長の乳母兄弟・池田恒興が続き、末席にいるべきはずが羽柴秀吉です。
ですが、羽柴秀吉は主君の仇討に成功した自他ともに認める大功労者、むしろ一番であるという自信たっぷりで清州会議に臨んだことでしょう。まあ中国大返しを決めて世間的な風評も高かった訳で、この段階でも対抗馬的な存在だったものと思われます。
主君の仇討に参加できなかった柴田勝家
そんな勢い絶頂の羽柴秀吉に対して、本命馬は織田家の宿老筆頭という立場にあった柴田勝家でしょう。しかし、山崎の戦いに参加できていないというディスアドバンテージは大きかったため、この清州会議に最も気合を入れていたのはこの人だったのではないでしょうか。
まあ山崎の戦いに来れなかった理由は上杉景勝からの猛攻を受けていたからであり、このことは周知の事実でもあります。もちろん上杉景勝からすれば本能寺の変を知っていたが故の猛攻だったのですが、だからこそ情報をコントロールできた羽柴秀吉の評価が上がっていたということですね。
その他の参加者
また織田家の代表格となる宿老として、丹羽長秀や池田恒興も清州会議に参加しています。しかしこの両名は山崎の戦いにも参加してはいますが、責任を取りたくなかったのか総大将の座を自ら手放しており、羽柴秀吉に委ねてしまった経緯があります。このことを考えれば、丹羽長秀と池田恒興の2人にはもともとあまり野心がなく、山崎の戦いの時点ですでに織田家のイニシアチブを取る気はなかったのでしょう。
織田信忠の息子・三法師以外にも、織田家一門として信長の次男・織田信雄と三男・織田信孝も会議に参加しています。こちらの兄弟にとっての清州会議は宿老たちとはちょっと事情が違い、自分が後継者となるか、もしくはどちらがまだ幼い三法師の代理となるかが焦点となっております。兄弟にとっては自身が後継者になるのがベストではありますが、代理になった後に三法師にもしものことがあればワンチャンス、といった気持ちも当然あったことでしょう。天下統一に近い織田家の家督相続者とただの1武将という立場を比べれば、狙いに行く価値は充分すぎる程あったものと思われます。
仇討どころかボロ負けして敗走中・滝川一益
関東の監視役を務め続ける
5人目の宿老として滝川一益がいますが、甲州征伐以降の彼は関東地方の攻略に当たっていました。当時の関東は北条家という巨大勢力が拡大し続けており、滝川一益はそんな北条家の拡大を抑制しながら攻略を進めるという、かなり難易度の高いミッションが与えられています。
そんな中で一益は上野国(群馬県)を拠点として、佐竹家や里見家・北条家といった関東の大勢力だけでなく、東北地方の諸大名とも外交関係を持ち、また北の越後国に本拠を置く上杉景勝を牽制するなどかなり精力的に活動しています。
甲州征伐についてはこちらからどうぞ。
残念ながら清州会議に間に合わず
ですが本能寺の変で織田信長が討ち死にすると、当然のごとく北条家は織田家へ牙を剥き始めました。当時の北条家当主・北条氏政は信長の死を知ると上野国(群馬県)に5万の大軍で襲来、ここで滝川一益は抵抗しきれず大惨敗を喫しています。その後逃げ延びた城で北条家へのリベンジを画策するかと思いきや、やはり清須会議にだけは参加したかったのか、少数のお供を連れて清州城がある西へと旅立ちました。
ですがさすがに関東から清洲までは遠すぎたのか、一益が信濃国(長野県)あたりをウロついている間に清州会議は開催され、そして清州城に辿り着いた頃には全てが決定されていました。つまり滝川一益は織田家宿老の地位にありながら、織田家の行く末を決める大切な会議に遅刻して参加できなかったという訳です。数日間くらい待ってあげればとか思ってしまいますが、その辺は大人の事情というやつなのでしょう。
ついに開催!清州会議
家督相続は三法師に
本能寺の変から4週間近く経った6月27日の尾張国清州城で、4人の宿老と2人の織田信長の息子という面々で清州会議が始められました。この後の展開は記録によって異なっておりますが、ここで三法師の家督相続が決まったことだけは確かです。そもそも清州城で会議が開かれた理由についても、三法師が居住していたからそこに集まったというだけなのでしょう。結局信雄と信孝も後見人といういかにも偉そうな役割に決定し、織田家兄弟と宿老達で三法師を支えるという体制が出来上がり、ついでに参加していた徳川家康もこれに同意しています。
既定路線だった三法師の家督相続ですが、「川角太閤記」という本ではまた別の経緯でそこに辿り着いたとされています。物語では当初羽柴秀吉が次男・織田信雄、柴田勝家が三男・信孝を支持し、話が煮詰まったところで一旦散会、そして再度集まった時には秀吉は三法師を抱っこしながら登場し、他の三宿老が平服して一件落着とされています。ですがそんな掌返しがあったのなら、さすがに織田信雄とて許すはずもなかったでしょう。なにはともあれ織田家は三法師が相続することに決まり、次は最もデリケートな議題、領土問題についての話し合いです。
領土の再分配で羽柴秀吉が優位に
織田家の後継者とサポート体制が決まったところで、議題は織田信長が所有していた広大な領土の振り分けに移りました。ここでは山崎の戦いで総大将を務めた羽柴秀吉が自信タップリで領有権を主張、京都がある山城国や河内国(大阪府東部)など、発展した豊かな土地を多く手に入れています。秀吉はさらに自身の養子として迎えていた、信長の四男・羽柴秀勝にも丹波国(京都府北部)を領有させることに成功し、ここで羽柴家が織田家の中で最大勢力となっています。
柴田勝家も近江国(滋賀県)の北部を手に入れてはいますが、このタイミングで秀吉の方が領土面積は完全に上回っています。元々織田家のNo.2として活躍し続けた勝家にとって、秀吉の後塵を拝すことは何よりの屈辱でしょう。勝家が手に入れた土地は元々秀吉が所有していた土地であり、それを取り上げる形で領有することになります。勝家からすれば軽いハラスメントだったのかもしれませんが、より豊かな土地を手に入れていた秀吉にとっては痛くも痒くもなかったでしょう。
丹羽長秀や池田恒興にもキッチリと領土があてがわれ、また次男・信雄に清州城がある尾張国、三男・信孝が美濃国(岐阜県)を領有し、そして三法師が安土城近辺の土地を持つことで決定しています。織田家の家督相続者であるはずの三法師に対し、秀吉の10分の1程度の領土しか渡していないという事実は、今後の展開を予感させるものではあります。
天正壬午の乱で滝川一益の領地激減
丹羽長秀や池田恒興にも領土が追加されていますが、会議に参加できなかった滝川一益には僅かな加増すらありませんでした。しかも本能寺の変が起きた直後に潜伏していた武田家の遺臣が反乱を起こし、代官・河尻秀隆が討ち死にするという天正壬午の乱が起きていたため、一益は領地が増えるどころか減るという悲しい事態に陥っています。
天正壬午の乱によって甲斐国・信濃国は無政府状態と化しましたが、この段階での織田家には平定に向かう余力がなかったため、2国の平定を徳川家康に「委託」しています。武田家の遺臣や上杉家・北条家に取られるくらいなら、同盟国である徳川家が持つ方がマシという理由だったのでしょうが、これは同時に甲斐・信濃に領土を持っていた一益を切り離したとも言えます。
代替地でもあればまた話は別だったのでしょうが、そういった気の利いた話は一切なく、会議の中心にいた羽柴秀吉は一益の恨みを買い大きな遺恨を残すことになります。秀吉は旧体制の中心人物である柴田勝家や滝川一益の力を落とすことで、秀吉自身の権力を揺るぎないものにしたかったのかもしれません。
いいとこなしの柴田勝家にお市の方が嫁入り
清州会議を思うがままにマワし続けた羽柴秀吉に比べ、会議での柴田勝家は発言力を失っていました。直近の大戦である山崎の戦いで勝利をもぎ取った秀吉に対し、宿老筆頭という立場にありながら参加できなかった勝家は、功績だけでなく自責の念からも強い発言を謹んだのではないでしょうか。ですが勝家はそんな芳しくない状況でも、織田信長の妹・お市の方との婚姻だけは強く要求しています。勝家相手に領土問題で譲歩させてしまった負い目からでしょうか、秀吉を始めとして他の宿老もこの要求を承諾しています。
戦国武将という人種は基本的に女好きが多く、正室(正妻)以外にも側室(正妻以外の妻)や妾を持つ人の方がはるかに多かったようです。織田信長も正室以外に10人を越える側室を迎えており、また20人を越える現代では考えられない数の子供をもうけています。ですが勝家はかなりの変わり者だったようで、これまで正室すら迎えていませんでした。柴田勝家の生年がハッキリしないため正確な年齢はわかりませんが、少なくとも50歳を越えての初婚だったものと思われます。家臣達のアイドルだったお市の方には秀吉も密かに思いを寄せていたようなのですが、ここでは勝家に花を持たせる形で譲っています。
お市の方についての記事はこちらから。
清州会議の影響
この会議で明確に決まったことは、織田家の家督相続者が三法師、そして宿老筆頭という事実上のトップに羽柴秀吉が躍り出たことでしょう。これに宿老の池田恒興や丹羽長秀、そして信長の次男・織田信雄も同調し、秀吉を中心とした新体制がガッチリと構築されています。つまり清州会議という織田家の行く末を決める話し合いは、これからは秀吉を中心にやっていきます、ということが明確に決まった会議だったと言えるでしょう。
このことはこれまで織田家の2番手として君臨し続けた柴田勝家や、長年最前線で戦い続けた滝川一益にとっては当然ながら納得いくものではなく、反秀吉勢力が出来上がっていくキッカケとなっています。ここに決定事項に不満を持っていた三男・織田信孝が加わり、織田家を真っ二つに割った派閥争いに発展していきます。とは言えやはり血の気の多い武将たちばかりの戦国時代では、言い争いなどではなく戦争という暴力を使った手段で争うことになり、次回記事「賤ヶ岳の戦い」にて織田家の内紛が決着します。
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