日本三大悪人という天皇家の敵とされた人達
天皇崇拝のツールとされた「悪人」たち
今回の記事では、日本三大悪人というちょっと不名誉なリストにランクインしてしまった、道鏡・平将門・足利尊氏の3人の人物についてご紹介したいと思います。
三大悪人というネーミングはいかにも残虐そうで、相当な極悪人が揃っていそうな印象を受けますよね。こんなリストが作られることになった背景には、明治期以降の天皇を頂点に置いた国家体制、特に日中戦争以降の軍国化による天皇崇拝があります。
天皇に敵対したと見なされて悪人扱い
この3人は天皇家に対して反抗した「悪人」のレッテルが貼られたのですが、その反抗の内容をよくよく調べてみれば無理矢理感が濃厚です。まあ当時の日本政府は天皇の神格化に躍起だったのも事実で、そのため民衆に「天皇に逆らうことはあり得ない」と思わせたかった訳ですね。
つまり、当時の日本政府の御都合でこんなリストが作られているため、明治以前までは忠臣とされていた足利尊氏が突然悪人扱いされるなど、凄まじい手の平返し現象も起きていたりします。それでは不幸にもリストアップされてしまった人物を、1人ずつ悪人とされた理由を添えてご紹介したいと思います。
皇位簒奪未遂の僧侶・道鏡
称徳天皇との関係でノシ上がった道鏡
宇佐八幡宮神託事件によって天皇になろうとしたとされる道鏡ですが、彼は女帝の称徳天皇と男女関係を持って言いなりにしていたという物語すらあり、まさに悪人という言葉がピッタリの人物として日本三大悪人の仲間入りを果たしております。現代でも道鏡というワードで検索すると、イケメン坊主や巨根(?)伝説といったサブカルチャーな記事が非常に多く、なぜか女性の敵であるかのような扱いを受けていたりします。
まあ道鏡は実際に称徳天皇(出会った頃は孝謙上皇)に気に入られてスピード出世を果たしたため、藤原氏を始めとした由緒正しい貴族達にとってはヤッカミの対象になっていたものと思われます。そのため様々な憶測と陰口がエスカレートしていき、結果的にとんでもないエピソードが作られていったのでしょう。
2人が出会った頃の道鏡は結構なお年寄り
称徳天皇と出会った頃の道鏡はすでに60歳オーバー、しかも奈良時代頃の平均寿命が33歳くらいだったことを考えれば、60歳という年齢はかなりの高齢者と言えます。そのため、2人がそういう関係だった可能性は低め、というか普通に考えてちょっとなさそうというのが筆者の結論です。
もちろん2人が男女関係だった可能性もあるにはありますが、その場合には当時の仏教僧の在り方そのものに疑念が湧くところではあります。ですがこの手の話はやはり話題性としては強く、また普通の話より面白い話の方が当然後の時代にまで残りやすいため、道鏡の悪いイメージが雪だるま式に膨れ上がっただけかと思われます。
道鏡や称徳天皇についてはこちらからどうぞ。
関東に国を作ろうとした新皇・平将門
新皇を名乗って独立国を樹立(未遂)
10世紀中頃に関東一円を統治下に置いた平将門(たいらのまさかど)という人物は、新たな天皇といった意味となる「新皇」を自称しました。そして独自の政庁を設置して新政府を立ち上げましたが、こんなのは緩めな現代だって許されませんので、順当に日本三大悪人入りを果たしています。
道鏡の場合は既存の天皇家に成り代わるというストーリーでしたが、こちらは「既存の天皇家とは別の王族を名乗った」、さらに「国内に別の国を作った」という2つの罪状が挙げられています。まあこの2つは今の日本でも重罪ですので、もし平将門さんが現代に転生して来てもやっぱり罪人になっちゃいますね。
日本史上初の極刑を受ける
もちろん当時としても上記の2つは許されざる罪だったので、平将門は当然のように朝廷にとっての討伐対象となり、藤原秀郷や平貞盛との戦いの中で倒れました。その討伐隊はその首を平安京に持ち帰ったのですが、当時の貴族や天皇家は首に対してすら怒りが収まらなかったようで、なんと「晒し首」として市中で見せ物にされています。
この首を切った後に晒しものにする「獄門」はそれまでの日本には無く、少なくとも記録上では平将門が日本史上初だったりします。つまり平将門はそれ程の重罪人として扱われた訳ですが、まあ現代でも一生塀の中にいるレベルの罪かもしれませんね。
関東の英雄・平将門
そんな極悪人として処罰された平将門でしたが、実は関東の民衆からの支持は非常に高かったようです。というのも、当時は天災によって飢饉がたびたび頻発していたのですが、そんな時でも貴族達は重税を掛け続けており、関東の民衆はくたびれ果てていました。平将門はそんな状況を一時的とは言え打開したということで、関東の人々にとってはむしろ英雄だったという訳です。
ということで平将門は亡くなった後も民間での人気が非常に高く、今でもその首を祀った「将門塚」が東京都千代田区浅草に残っています。また、数々の伝説や怪談もガッツリ残っており、首だけで飛び回ったなんて伝承は全国そこら中にあるようです。現代においてもその名は小説などで頻繁に取り上げられているということで、彼はなんと日本三大悪人だけでなく日本三大怨霊にも数えられたりしています。
日本三大怨霊についてはこちらからどうぞ。
平将門の行動やその意図については、また別の記事で掘り下げたいと思います。
南朝と争い日本三大悪人入りした足利尊氏
昭和初期までは英雄扱いの足利尊氏
足利尊氏は時代によって評価ががらりと変わっているのですが、日本が軍国主義をとっていた時代の価値観では日本三大悪人に入る悪者とされてしまいました。ちなみに筆者は「足利尊氏」という人名をNHK大河ドラマの「太平記」で知ったため、主演の真田広之さんのイメージが非常に強く、カッコいいという印象の方が圧倒的に強かったりします。
室町時代の初期に日本の朝廷が2つに分かれた南北朝時代がスタート、この南北に分かれた朝廷のどちらを正統とするかによって足利尊氏の評価も変わることになります。足利義満の仲裁により南北朝統一が実現されて以降の天皇は北朝の系統から出続けているため、最終的に北朝側についていたということで、足利尊氏は昭和初期頃まで「天皇家の味方だった英雄」として認識されていました。
天皇崇拝のツール「大日本史」のせいで悪人入り
その一方で、江戸時代に徳川光圀(俗に言う水戸黄門です)が編纂を開始した「大日本史」という歴史書では、「南朝」を正統扱いするために足利尊氏が「朝敵」として扱われていました。この「大日本史」という歴史書は昭和初期の軍国主義、そして天皇崇拝の原典となっていたため、そんなご時世になった途端に足利尊氏が悪者にされた訳です。
そして昭和初期の日本政府は「天皇崇拝の強化」を目指し、足利尊氏を天皇家の敵としてさらにクローズアップ、道鏡や平将門と共に並べて罪状を並べ立てました。つまり彼らは極端な思想で染め上げるための道具として使われてしまい、本人達の悪意は無関係なままに「日本三大悪人」というリストが作られてしまった訳ですね。
足利尊氏についてはこちらからどうぞ。
日本三大悪人のまとめ
日本三大悪人という発想自体が、戦前の日本がいかに天皇を中心にまとまろうとしていたかを表している気がします。この三大悪人という言葉を作った人が言いたかった、というか示唆したかったことは、きっと「天皇に成り代わるのはダメ、新たに天皇に成るのもダメ、天皇に逆らうのもダメ」だったのでしょう。
これは筆者の勝手な憶測ではありますが、天皇への忠誠心を喚起するためだけに、日本三大悪人なんてリストが作られたのではないでしょうか。とは言えリスト入りしてしまった3人からすれば、ただの迷惑な話でしかないですよね。
男性の悪人の次は日本三大悪女の記事もどうぞ。
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