鎌倉時代2 梶原景時の変と比企能員の変

日本刀 鎌倉時代の時代史

今回の記事では頼朝の将軍就任から死去、その後には幕府の有力な御家人である梶原景時や比企能員が内戦で次々と滅び、そして将軍の権威がなくなっていく場面のご説明をします。

源頼朝の征夷大将軍就任

1192年、かねてより「将軍」の位を希望していた源頼朝に朗報が届き、ようやく征夷大将軍に任命されました。このことが鎌倉幕府1192年説の根拠となっていますが、現代における日本史の教科書では鎌倉幕府の成立は1185年の「文治の勅許」からとされているため、年号の語呂合わせは「いいハコつくろー」らしいですね。筆者が子供の頃は「いいくにつくろー」だったので、なんか時代の移り変わりを感じて妙に遠い目になってしまいます。

ちなみに源頼朝は「将軍」の位は欲しかったものの、征夷大将軍という職位でなくとも全然問題なかったとか。その辺はまったくこだわりがなかったようで、実際に記録としても様々な将軍位が候補に挙げられていたようです。

しかも源頼朝は、征夷大将軍になったらなったで全然執着がなかったらしく、就任してわずか2年後には辞任の意思を漏らしていたそうです。この征夷大将軍という職位は、鎌倉時代から江戸時代まで「武士の棟梁」としての地位を表し、その地位を巡って膨大な量の血が流れていますが、初代だけは全然興味がなかったという訳ですね。

その他鎌倉時代の小話についてはこちらからどうぞ。

源頼朝の没後は内乱だらけ

「一の郎党」梶原景時の没落劇

2代目鎌倉殿・源頼家をサポートする「十三人の合議制」

鎌倉幕府を樹立した源頼朝が亡くなると、その嫡男である源頼家が2代目鎌倉殿として跡を継ぎました。とは言えこの時点での源頼家は若干18歳の若者、偉大な父の跡を継ぐには貫禄不足は否めません。むしろその若さ故に想いが行き過ぎてしまったのか、御家人達の訴えを独裁的に裁いていましたが、18歳による独裁はやはり危なっかしい感じが満載です。

という訳で源頼家の独裁体制は御家人達から不評だったようで、跡目を継いでから3ヶ月後には独裁権を剥奪されてしまいました。もともと源頼家には御家人の妻の寝取り事件やら素行不良が多く、人気的にはかなり微妙だったことも影響していたものと思われます。また源頼朝の時代から「気分次第で判決が変わりかねない独裁ってどうよ」という意見もあったため、有力御家人による会議で裁決する「十三人の合議制」による政治体制が出来上がりました。

「十三人の合議制」の詳細やメンバー紹介はこちらからどうぞ。

御家人達から恨みを買ってしまった梶原景時

そして頼朝死去から1年後、梶原景時という将軍の側近が御家人達から糾弾を受けるという事件が起こります。

もともと侍所別当という、御家人達を取り締まる役に就いていた梶原景時は、御家人たちから恨まれやすい立場にありました。独裁的な政治をとる源頼朝にとっては無くては成らない役割であり、またその役割をきちんとこなしたからこそ恨まれたとも言えます。

梶原景時の変

梶原景時に対する糾弾の署名には、なんと66人もの御家人の名前が連なっていたといいます。中には流れで乗っかっただけの御家人もいるのでしょうが、それだけの人数に恨まれる立場というのも恐ろしいですね。2代将軍源頼家は庇おうにも庇いきれず、結局梶原景時は追放され、その後すぐに梶原家は滅亡しています。

ちなみにこの66人による署名には、北条時政の名はありません。将軍の側近であり忠臣でもあった梶原景時がいなくなり、結果的に将軍の権力はさらに落ちることになりました。

梶原景時の個人記事はこちらからどうぞ。

比企能員の変

源頼家にとっての頼れる存在・比企能員(ひきよしかず)

梶原景時がいなくなってから若い源頼家が頼ったのは、頼家の妻の父である比企能員でした。

頼朝が幼い頃の乳母は比企氏の人間であり、平氏に追われた頼朝が流人であった頃も、比企氏は頼朝を支え続けました。その功績によって比企氏は幕府内で手厚く扱われ、比企能員は幕府でも重要な地位にありました。さらに頼家は比企能員の娘を側室として迎えていましたが、その娘が長男の一幡を産んでいたため、比企能員は非常に大きな権力を手にしていました。

源頼家の急な危篤

1203年のある日、頼家は突然急病に倒れ危篤状態となります。ここで頼家が持っていた領土の相続についての話し合いがあった結果、頼家の弟である千幡と頼家の長男である一幡に、分割で相続させることになりました。

ところがこの分割相続に対して、比企能員はひどく不満を持ちました。すでに大きな権力を持っていた比企能員は、孫にあたる一幡に全て相続させ将軍にして、より一層の権力を手に入れるつもりだったからでしょう。

頼家の弟である千幡の母親は北条政子であり、北条時宗を筆頭に北条氏が強く千幡を後押ししていました。ここで比企能員は頼家に、北条時政を討伐する相談を持ちかけます。そして頼家は北条時政に対して快く思っていなかったのか、これを承諾しました。

比企能員の滅亡

ですがこの頼家と比企能員の相談を、なぜか北条政子に盗み聞きされてしまいます。あまりに杜撰すぎる展開ではあるのですが、この後に比企能員はあっさりと北条氏に謀殺されてしまうんですね。そして比企能員を失った比企一族に北条氏の軍勢が襲いかかり、比企氏は一夜にして滅ぶ結果となりました。

頼家も比企能員との相談を承諾していたため、北条時政によって幕府から追放されることになりました。そして3代将軍には、北条氏の後押しがあった千幡が就任します。

「鎌倉殿の13人」比企能員の記事はこちらからどうぞ。

梶原景時の変・比企能員の変まとめ

今回は比企氏が滅び、結果的に北条氏が勢力を増したところまでをご説明しました。次回では北条時政が幕府執権となり、その後に起きる幕府と朝廷との戦いをご紹介します。

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