気性が荒くて涙もろい男・福島正則
この福島正則という人物は凄まじく気性が荒かったようで、その性格に纏わるエピソードが大量に残っています。また単純に気性が荒かっただけでなく人情深い一面もあったようで、武士の逸話としてはあまりない涙を流した物語も多く伝わっています。腕っぷしが強くて気性が荒く、なおかつ涙もろいという分かりやすいキャラクターを例えるならば、三国志なら「張飛」、ドラえもんなら「ジャイアン(映画限定)」でしょうか。しかも女性問題で嫉妬に狂った奥さんに薙刀で追い回されるという、恐妻家という追加属性まで持ち合わせています。
正則は豊臣秀吉という巨人によって見出され、幾多の戦いを経て大名となる出世を果たしています。その出世は秀吉死後も留まること無く、関ケ原の戦いで勝利した後にはピークとなる55万石という大名にまで成長しています。そして大坂の陣の後には些細なキッカケで大没落するという、ある意味では自身を見出した豊臣秀吉よりもドラマチックな人生を送ったのかもしれません。その福島正則の生涯を、子供だった頃からご紹介したいと思います。
桶屋の息子からイトコの羽柴秀吉の小姓に
福島正則は尾張国の普通の桶屋という、武士の世界とは全く関わりのない庶民中の庶民の家柄に生まれています。幼い頃から父親が生業としていた桶屋を継ぐため、桶作りの修行に明け暮れていたようです。ですがそこでもさすがの気性と言うべきか、大人と口論になった際にも怯まず喧嘩に発展、そして木材を加工するためのノミで相手を殺害するという、子供の頃からいきなり凄まじいエピソードを残しています。
この時点でちょっと引く程の乱暴者ぶりを発揮していますが、この正則少年にとって幸運だったのは乱暴であることが良い方に作用する、武士の世界への道があったことでしょう。当時の織田信長は足利義昭を追放して近畿にはほぼ敵がおらず、中国地方の攻略を眼前の目標としていました。その責任者に羽柴秀吉が抜擢されると、正則も200石取りの小姓という立場で中国地方攻略戦に参加しています。
正則の母は羽柴秀吉の母の妹であるため、つまり2人は年の離れたイトコ同士ということになります。いつから秀吉の小姓として仕え始めたのか正確な資料がないため多分ではありますが、ノミで大人を刺殺したあたりから秀吉に話が行っていたのではないでしょうか。正則が少年の頃と言えば織田家が美濃国を制圧して数年経っており、生まれた土地である尾張国の治安はかなり良かったことでしょう。そんな中での刺殺事件ということで、地域ぐるみの村八分にされてもそれ程不思議ではなかったでしょうから。
山崎の戦いにも従軍
ともあれ母の縁を通じて羽柴秀吉の家臣となった正則は、中国攻略軍の中で付き人としての仕事をこなしていました。ですが備中高松城を水攻めにしている真っ最中、京都で日本を揺るがす本能寺の変が起こります。
本能寺の変で織田信長が倒れると、織田家家臣達は主君の仇討のためにこぞって打倒・明智光秀のために動き出しました。ですが最有力とされていた織田家筆頭家老・柴田勝家は上杉景勝の反撃のため動けなかったため、多くの人の予想を裏切り中国大返しを敢行した羽柴秀吉が先に京都近辺に布陣し、山崎の戦いにて明智光秀を撃破し仇討ちを成し遂げています。この戦いにも従軍していた福島正則も戦功を挙げており、300石プラスの500石取りへと昇進を果たしています。
石高についてはこちらでご説明しております。
賤ヶ岳七本槍の筆頭・福島正則
信長死後の織田家の行く末を決める清州会議では、明智光秀を倒した羽柴秀吉が終始主導権を握り続け、筆頭家老の柴田勝家を差し置いてほぼ思いのままに事後処理を進めています。この結果に柴田勝家は落胆しながら自身の領国・越前国へ戻り、羽柴秀吉を打倒するべく挙兵しています。秀吉も柴田勝家の挙兵に対して軍で対抗し両者は北近江で激突、賤ヶ岳の戦いが勃発しています。この戦いにも福島正則は従軍しており、一番槍という名誉ある立ち位置を務めた上に、敵将・拝郷家嘉を一番首として討ち取る大戦果を挙げています。
柴田勝家が越前一乗谷城で自害すると、織田家の後継者の地位に就いた羽柴秀吉による論功行賞が行われています。秀吉はこの段階ですでに自身の政権構築の意志を固めていたようで、若い頃から育て上げた数少ない家臣達を「優秀な人材である」とアピールするため、「賤ヶ岳七本槍」としてピックアップし大盤振る舞いの加増をしています。ちなみに他の6名は3000石だった中で、大殊勲を上げた正則だけは5000石という大きな加増を受けています。
賤ヶ岳の戦いについてはこちらからどうぞ。
国持大名への出世と朝鮮出兵
賤ヶ岳の戦いで大きな出世を遂げた福島正則は、その後も小牧・長久手の戦いや四国平定戦・紀州征伐にも部隊長として各地を転戦しています。そして九州征伐にも従軍し島津義久の降伏によって決着が着くと、伊予国・今治に11万石というこれまでとはまさに桁違いの土地を与えられ、500名程度の部隊長から突然大名としての地位を手に入れています。この時の正則は30歳と少々というまだまだ若さの残る年齢ではありますが、天下統一を目前に控えていた豊臣秀吉にとって、自身の政権を支える若手人材としての抜擢だったのでしょう。
順調に小田原征伐が済むと、秀吉は間髪入れずに朝鮮出兵の準備に取り掛かっています。一回目となる文禄の役には正則も参戦し、5番隊の主将として京畿道方面の攻略に当たっています。ですがこの朝鮮出兵の際のやり取りが元で、正則を始めとした遠征軍と石田三成の関係が猛烈に悪化していきます。
この時の連絡経路は中間に必ず石田三成を挟む形をとっており、「現地で戦う武将⇔石田三成⇔豊臣秀吉」となっていました。秀吉から褒め言葉を受けた場合は問題なかったのでしょうが、厳しい言葉を受けた際に「石田三成が話を歪めて伝えたのかも」という誤解が生じたのか、年月が流れるにつれ現地武将と三成の関係が険悪化していきました。とは言え文禄の役が終結して慶長の役が始まる前年には、正則は東海道沿いの重要拠点・尾張国に24万石という大きな領土を与えられています。
豊臣秀吉の朝鮮出兵についてはこちらからどうぞ。
関ヶ原の戦いでは東軍の先鋒として
豊臣秀吉の病死によって朝鮮出兵は中断され、派遣されていた武将達は撤退していますが、石田三成と遠征先で溜め込んでいた武将達の恨みは残されたままでした。その後豊臣政権の重鎮・前田利家が病死すると恨みが一気に噴出、福島正則は加藤清正など同じ想いを抱く武将を誘い、石田三成襲撃事件を起こしてしまいます。この時石田三成は事前に襲撃を察知し難を逃れたのですが、豊臣政権で豊臣秀頼に次ぐ地位を持つ徳川家康の仲裁によってカタが付けられたため、結局正則達の遺恨は晴れずに三成との険悪な関係が続きます。
その後上杉景勝が会津で挙兵するとほぼ同時に石田三成も南近江で挙兵したため、徳川家康は自身の家臣と親密な大名達に対し、一緒に戦う意志の有無を問うため下野国に集めました。ここで開催された小山評定で正則は率先して東軍への参加を表明しており、この勢いに乗っかる形で多くの大名が東軍への参加を決めています。元々豊臣政権のNo.2というか実質No.1の徳川家康に味方することは道義の上でも当然のことではありますが、大嫌いな石田三成を自らの手で倒したい想いもあったのでしょう、正則は先鋒として戦うことを志願しています。
戦後には安芸50万石の大大名に
いざ関ヶ原の戦いが始まると、小早川秀秋らの寝返りもあり、東軍の勝利に終わりました。遺恨の相手・石田三成は捕縛され、大阪城の門前に繋がれ晒し者にされるという刑を受けていましたが、これを見つけた正則は負けた三成に罵声を浴びせるというかなり酷い行為に及んでいます。普通であれば「よく戦ったよ」的な雰囲気になるところですが、よほど腹に据えかねていたものと思われます。
そして諸々落ち着いた後の待ちに待った論功行賞では、小山評定での熱弁ぶりと先鋒として戦ったことが徳川家康に高い評価を受け、安芸国に50万石という膨大な領土を与えられています。この当時の日本全土の石高を合わせても2,000万石と少し程度だったため、日本の総生産の40分の1を手にするという大きな躍進を遂げています。
福島正則という人物は石田三成に対して侮辱の言葉吐くような人でもありますが、領民に対しては普通以上の善政を布いた人物でもあります。安芸国という新たな領土に入った正則は早速領内を巡視して検地を開始、石高をキッチリと再算出した上で、わざわざ検地の結果を公開した上で年貢率を安くしています。
豊臣家と徳川家を取り持ち続けた後に大坂の陣
徳川家康が征夷大将軍に就任し江戸幕府を樹立した後も、福島正則は豊臣秀吉への恩義を忘れておらず、相変わらず豊臣家への気遣いを続けています。豊臣家の天下、と言うにはすでに力が衰えすぎており、また徳川家康の力が強大になりすぎてしまったことは誰の目にも明らかでした。そんな中でも大阪城で居住する豊臣秀頼の母・淀殿には世間のことがわかっていなかったのか、相変わらず徳川家康を家臣として扱おうと上から目線の命令を投げ続けていました。
この淀殿の命令ハラスは豊臣家の存続のために決して良い方には働かないため、正則は加藤清正といった豊臣家に縁の深い大名達と共にグズる淀殿を説得し続け、ついに豊臣秀頼を京都に引っ張り出すことに成功、二条城でようやく家康との会見を果たしています。その後も正則は秀頼が病気になったと知るとすぐにお見舞いのために大阪城へ出向くなど、豊臣家への気遣いを継続的に続けていたようです。その気持ちは主君に対する忠誠心だけでなく、イトコの子供を想う親戚のおじさん的な温かい気持ちもあったのではないでしょうか。
そんな気持ちを無視するがごとく、方広寺鐘銘事件が引き金となって大阪の陣が勃発、正則は悩ましい状況に追い込まれました。正則は当然ながら徳川将軍家からも出兵の要請を受けていましたが、イトコの子供であり主君でもある豊臣秀頼からも援軍の要請が届くという、これ以上ない板挟み状態となっています。ですが福島家のことを思えば勝ち目のない豊臣家に味方はできず、苦渋の決断で拒絶しています。ですが大阪の蔵屋敷に貯蔵してあった大量の食料を豊臣家が回収しようとしたところを、見つけたけれど見逃すという消極的な協力をしたりと、かなりブレブレな行動をとっています。
大坂の陣後の減封処分と福島正則の没落
徳川家康という人物は強力な権力を手にした後は各大名に対して幾度となく城の建築を命令しており、逆に謀反の目を摘むためとして大名自身の城の増築や改築を禁止していました。大坂の陣から5年程経った頃に大きな台風によって居城である広島城が破損したため、正則は幕府に申請を出し二ヶ月の猶予をとった上で修築しました。ところがこの申請は江戸幕府側の手続きが遅れていたようで、正式な許可が出る前の修築ということで違反とされ、2代目将軍・徳川秀忠の命令でわずか4万5千石に減らされた上で信濃国に配置換えされてしまいます。
減封処分の翌年には、正則の長男・福島忠勝が若くして病死するという不幸がありました。自身の跡継ぎの死にあまりに気落ちしてしまった正則は、4万5千石のうち2万石を残して幕府へ返上し、そしてその4年後、静かに64歳で亡くなっています。ですが話はここで終わらず、まだまだ福島家の不幸は続きます。
亡くなった正則の遺体は家臣によって火葬にされたのですが、江戸幕府の規定では当主が亡くなった際には検死役によって確認することになっていました。ところが幕府の検死役が到着する前に遺体が火葬されてしまったため、福島家はここで取り潰しの処分が下され、わずかに残った2万石の領地も跡形もなく回収されています。1代で積み上げ続けたものが死とともに完全に消え去るという、まさに福島正則という人物そのものが夢幻であったかのようです。
いかにも乱暴かつ涙ぐましいエピソードがありそうな振り方をしておきながら、あまりにボリュームがありすぎて書ききれなかったため、別記事としてこちらのページでご紹介しております。