今回の記事では足利尊氏が征夷大将軍に就任し、「観応の擾乱」で部下の高師直との内乱を戦う場面をご説明をします。
ちなみにこの擾乱は、「じょうらん」と読みます。気象用語にも使われる単語なのですが、「入り乱れて騒ぐこと」を意味します。こんな言葉が当てられる程、ややこしくて入り乱れた事件となっています。
あまりに長い事件なので、今回は3章に分けてご説明しています。ぜひ最後までご覧になってください。
観応の擾乱の発端
室町幕府の創立当初は足利尊氏と足利直義の二頭体制
足利尊氏は後醍醐天皇との戦いを制して室町幕府を創立していますが、その戦いにおいて尊氏の弟・足利直義も非常に重要な役割を担っていました。無事に幕府が立ち上がると足利直義も重要なポジションに就き、ここに足利尊氏との二頭体制が成り立っています。室町幕府は組織の仕組みこそ鎌倉幕府とほとんど同じではありますが、できたばかりの頃は二人三脚での統治だった訳です。
足利尊氏が足利家執事の高師直とともに軍事を管理し、足利直義が訴訟など政務を担当するという役割分担がされていたんですね。一見すると良さそうな役割分担ですが、トップが2人になると必ず揉め事が起きるのが歴史でもあり、今回も例に漏れず観応の擾乱という形できっちりと揉めています。
利害関係で対立した足利直義と高師直
室町幕府初期の二頭体制では、足利直義は主に貴族や寺社からの訴訟を取り扱うことになっていました。ところがこの貴族や寺社が出した訴訟というのは、ほとんどが「武士に租税を横領された」だの「武士に領地をまるっと取られた!」だったようで、つまり原因の大半が幕府創立に関わった武士だったことになります。
そんな武士達を裁くことは高師直の部下になんらかの罰を下すことになる訳で、自然と両者は対立関係に陥ってしまいました。もちろんこの対立はお互いの職務上仕方ないことではあるのですが、分かってはいても関係が悪化してしまうことってありますよね。
足利直義派の凋落と高師直派の伸長
そんな中で南朝の楠木正行という、楠木正成の長男が軍を引き連れて京都奪還にやってきました。最初は直義派の武将が派遣されたのですが、ここでの戦いは南朝軍が勝利し、幕府軍は敢え無く惨敗してしまいました。そこで「情けねえ!」とばかりに出撃したのが高師直でしたが、さすがの歴戦の猛者ということで、楠木正行を討ち取るという大きな活躍を見せます。
この一連の戦いによって直義派の発言力は急低下、代わりに高師直派は勢力の拡大に成功しました。ここで恥をかかされた格好になった足利直義でしたが、先々でのリベンジを誓いながらひとまずは沈黙を保つことになります。
ちなみにこの頃の足利尊氏は仏教にハマっており、ほぼ隠居していて派閥争いにはほとんど関心がなかったようです。足利尊氏という人物については下のリンクからご覧になってください。
高師直の排除に動き出した足利直義
そしてすでに高師直を許せなくなっていた直義は、ついに行動に出ることになります。
直義は高師直の数々の悪行を半隠居中の尊氏に訴え、そして足利家執事から排除することに成功します。さらに高師直を討ち取るために、師直追討の院宣をもらおうと光厳上皇に要請まで出しています。
足利家執事をクビになってしまった高師直は当然のごとく怒り、そしてこちらも大胆な行動に出始めます。
将軍御所に逃げ込んだ足利直義
怒りに燃える高師直は迅速に軍をまとめ、足利直義を追い落とすためにクーデターを起こしました。あまりに急な出来事で、クーデターの成功を許してしまった直義は側近と共に尊氏の屋敷に慌てて逃げ込みます。
さすがに尊氏の屋敷を包囲したりはしないだろうと多寡をくくっていた直義でしたが、高師直は現役の将軍である尊氏の屋敷を包囲し、そして直義の側近の身柄を要求します。
直義も意地を見せて要求を拒否しましたが、高師直は包囲を続けて屋敷の食べ物がなくなるのをひたすら待ちました。現役将軍に対して恐ろしいことをしますよね。ひょっとしたら執事をクビにした尊氏も恨んでいたのかもしれません。
結局幕府から追放された足利直義
高師直もさすがに将軍たる足利尊氏の屋敷を攻撃できず、ただ時間だけが過ぎていきました。
そして仲介者が現れた後に再度交渉し、結局のところ直義の側近は殺さないまでも島流しとされ、直義も幕府には関与しないという条件で包囲が解かれることになりました。
ここでひとまず一件落着かと思いきや、これまでのことはただの発端に過ぎず、事件はまだまだ続きます。
観応の擾乱 二章
足利直義の養子 足利直冬
ここで一旦話の目先を移し、今度は足利直義の養子・足利直冬という人物の動きに注目したいと思います。実のところ足利直冬は足利尊氏の子供ではあるのですが、尊氏に認知されなかったため私生児として育てられており、そこを直義が引き取って養子に迎えたという経緯があります。
そんな足利直冬は長門探題という重要な職掌に就いており、この観応の擾乱の頃には備後国(現在の広島県)に滞在していました。そんな折に足利直義と高師直の揉め事を知ったため、これは義父のピンチということで中国地方の兵をかき集めて京都へと向かいます。
足利直冬 九州で頑張る
ところが足利直冬の京都接近を知った足利尊氏はすぐに対応、高師直の活躍もあって撃退に成功し、これによって足利直冬はなんと九州まで敗走させられてしまいました。しかし、ここは実父・足利尊氏の粘り強さを受け継いでいたのか、足利直冬は九州で再起を図り、味方を募って大勢力へと成長を遂げます。
ここで尊氏は直冬に対して、出家して隠居することと京都へ1人で来ることを命令しましたが、直冬は拒否します。そのため尊氏は再度直冬討伐令を出しますが、直冬はさらに勢力を拡大、さらに南朝と連絡をとり協調しながら尊氏に対抗しようとします。
直冬を討伐しようとした足利尊氏 でしたが
尊氏は直冬討伐のために、中国地方にまで軍を進めていました。
ですが先の事件で幕府に関与しない約束をしていた直義は、味方を大和(現在の奈良県)で募り、高師直打倒のために決起します。さらに鎌倉でも直義派が高師直派を追放し、不穏な気配が高まっていました。
直義派の動きを知った尊氏は九州に討伐軍を向けるどころではなくなってしまい、京都に戻るために中国地方で待機していた高師直と合流しました、そして尊氏はついに直義を討ち取る決意をし、光厳上皇に直義追討令を出してもらい、直義を「朝敵」とします。
高師直とその一族の滅亡
「朝敵」とされた直義でしたが、この時代には朝廷が2つあるんですよね。北朝がダメなら南朝ということで、直義は南朝と連絡をとり、南朝側の軍として京都へ進撃しました。
尊氏軍よりも早く直義軍が京都へ着いたため、直義は京都を制圧し、中国地方から京都に向かってくる尊氏軍を迎え撃つ構えを見せます。そして西から迫る尊氏軍と京都を背にした直義軍が激突し、ここでなんと直義軍が勝利します。
自軍の不利さに頭を抱えた尊氏でしたが、ぶつかってダメなら交渉ということで、休戦の使者を直義に送ります。この時の尊氏からの条件は、高師直を追放することでした。直義としても尊氏を倒して将軍になるつもりはなかったらしく、条件を呑んだため和議が成立します。そして戦場からそのまま京都へ護送されていた高師直とその一族でしたが、護送中に直義派の軍に襲われあっさりと殺害されてしまいます。
少しもやもやする終わり方ではありますがここで事件が一件落着、かと思いきやまだまだ内乱は続きます。
観応の擾乱 終章
派閥争いは継続中
高師直とその一族がいなくなり一旦は平和が戻ってきた気がしましたが、幕府内では派閥争いは依然として続いていました。表面上は直義が幕府の政務担当に戻り、足利直冬は九州探題という重要職に就き、そのまま九州で勢力を保持することになっています。
すでに尊氏と直義の関係は壊滅的なものになっており、尊氏は直義派を締め出そうと行動を始めます。尊氏派は直義派の人を脅したり説得したりと、あらゆる手口で尊氏派に引き入れようと画策しました。嫌な手口ではありますがこれが功を奏し、段々と直義派から尊氏派に移っていく人が増えていきます。内乱で直義派として戦った御家人達も、報奨を求めて尊氏派に乗り換える者が多くいました。
そもそも直義のスタンスとは
そもそも直義が政務を担当していた時には、公家・寺社の保護者というスタンスをとっていたんですよね。かなり前のことのように感じますが、「公家・寺社の保護者直義と御家人の保護者高師直」の見出しでもご紹介しています。そのスタンスは内乱後も変わっておらず、内乱で功績を挙げた御家人に対しても特別な報奨を出すことはありませんでした。
これは筆者の想像なのですが、直義は「御家人なんだから戦争に出て当然」といった感覚を持った人物だったのではないかと思っています。ある意味では間違っていないのですが、武士の気持ちをあまり理解していないような気がします。武士の気持ちはいつだって、「たくさん働く⇒たくさん領地もらう⇒幸せ!」ですよね。そのために体を張って命を懸ける訳ですから。このあまりにもシンプルな気持ちを、直義は汲み取ることができなかったように思います。
衰えた直義派に
徐々に勢いを失っていた直義派は、南朝と手を組んで勢力を盛り返そうと必死になっていました。そんな中で、自分の派閥が有利であると確信していた尊氏は行動に出始めます。
直義派が南朝と連絡をとり反乱を起こそうとしているとして、尊氏は京都を軍で制圧しました。
直義は今回も脱出に成功し、鎌倉へ辿り着きます。そして直義は南朝の支持を受けながら、またも内戦状態へと突入していきます。
足利直義と南朝を分断せよ
京都を制圧した尊氏でしたが、直義派は衰えたとは言え大きな勢力を持っており、また九州には養子の足利直冬もいます。尊氏は以前の戦いで直義に負けていることもあり、戦闘で決着をつけるよりも直義の力を削ぐ方を優先しました。
尊氏は南朝と直義が手を組んでいる状態を崩そうと考え、分断を図ります。そして直義と直冬追討令を出してもらうために、尊氏は南朝に条件付きの和議を提案しました。その条件というのがとんでもないもので、北朝が持っている三種の神器を南朝に渡し、なおかつ北朝の政権を返上することが条件となっていました。尊氏は何度も助けてくれた北朝を南朝に差し出すことになり、そうまでしても直義を討ち取る覚悟だったと言えるでしょう。
正平一統
尊氏の提案を南朝が受け入れ、南朝と尊氏の和議は成立しました。そして当たり前のことではありますが、尊氏と北朝の関係は一気に冷え込むこととなりました。
これまでは朝廷が2つあったためそれぞれの朝廷で別々の元号が使われていたのですが、今回の件で北朝が半ば消滅したため、「正平」の年号に統一されることになりました。この出来事は、「正平一統」と呼ばれます。
観応の擾乱ついに決着
南朝との連絡がとれなくなってしまい、そして討伐令を出された直義は「朝敵」となりました。現代では想像が及ばない程の破壊力を持った「朝敵」という言葉は、直義派をバラバラにして勢いを失わせます。
尊氏は鎌倉に逃げ込んでいた直義を追い詰め、あっさりと降伏させることに成功しました。そして直義は鎌倉のお寺に幽閉されましたが、すぐに急病で亡くなりました。直義が亡くなった日がちょうど高師直の一周忌にあたるため、師直の仇として殺された可能性も否定できません。
擾乱の主役であった直義が亡くなったことにより、ここで観応の擾乱はついに収束を迎えることになります。
観応の擾乱後の影響
幕府が始まって以来、直義派と尊氏師直派に分かれていた御家人達は派閥の旗頭を失い、表面上は抗争が落ち着くことになりました。ひとつにまとまったとはいえ御家人の不満は常に燻り続けており、また九州には足利直冬が依然として大きな勢力を保っています。一旦は擾乱に決着がついたのですが、まだまだ幕府と南北朝の間には火種だらけの状態です。
そして直義が保護する形となっていた貴族や寺社は保護者を失い、さらに衰退していくことになります。こうした出来事が、室町時代に新しい流派の仏教が多く現れるきっかけになったと筆者は考えています。
まとめ
今回は、観応の擾乱についてのご説明をしました。書き始めた当初は筆者もこれほど長くなると思っておらず、いつ終わるのか不安になってしまう程のボリュームです。
鎌倉時代もそうでしたが、時代の変わり目は荒れてしまうものなのかもしれませんね。
次回の記事では3代将軍に足利義満が就任し、幕府を立て直す手腕を見せつけていきます。よかったらご覧になってください。
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