「座」とは
商工業者や芸能者の同業者組合
「座」という単語は日本の中世、いわゆる平安時代頃から戦国時代までの商工業者による同業者組合を指します。基本的に「座」は仕入れ・流通・販売まで独占しており、場合によっては運搬に使う道や運送具に至るまで独占していたようです。商材のカテゴリごとに「座」が組まれており、材木や織物、そして米や油・魚といった日常生活の必需品も「座」が組まれていました。
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「座」による流通と販売市場の独占
そもそもなぜ「座」なんて組織ができたのかと言えば、単純に商人達が自分自身の利益を追求したからです。このことは商人に限らず武士でも僧侶でも同じでしょうし、人間としてごくごく自然に理解できる部分ですよね。そしてその方法は集団化による他者の締め出しということで、根本的には武士も商人もやっていることは全く同じです。いわゆる特定の人間だけで利権を囲い込むという手法ですが、商人の場合には「販売・流通の独占」だったという訳ですね。
当時の商人達の中にはもちろん一匹狼もいたのでしょうが、基本的には商売の規模が大きい程「座」に加入するメリットが大きかったものと思われます。市場の独占はより少ない商人でやった方が安定的に稼げる訳で、また独占が進めば進む程に高い利益を見込めたことでしょう。
独占の対象となっていた品目は多岐に渡りますが、織物や材木、米や醤油など生活に関連する商材にはガッツリと「座」が組まれていました。これらの商品を仕入れの段階から独占してしまえばヨソ者は商売を始めることすらできず、また生活における必需品を独占していることで需要は常にあったということで、「座」に加入している商人達は安泰という訳ですね。
公家や寺社勢力が「座」の「本所」に
もちろん「座」に加入していない商人だって仕入れに成功することもあったということで、例えば魚屋を開く段階まで漕ぎ着けた商人がいたとします。そして「魚座に加入してはいないけど新規開店です!」まではできたでしょうが、残念ながらそんなお店にはキツいお仕置きが待っています。その場合には「魚座」からのオドシ込みの営業停止命令、それでも営業をやめない場合は怖いお兄さん達がやって来て暴れることすらあったようです。
「座」はあくまで商人達による同業者組合的な存在ではありますが、その背後には高い官位を持つ公家、また比叡山延暦寺や奈良興福寺といった寺社勢力が元締めとなっていました。彼らのように「座」を保護する、というか支配権を持つ勢力は「本所(ほんじょ)」と呼ばれ、営業を許可する代わりにピンハネするというギブアンドテイクが成り立っていたようです。もし無許可で営業している商人がいればこの「本所」がお仕置き係となり、それこそ見せしめのように徹底して潰されたことでしょう。まあ現代でも役所に無許可で大きな商売はできないので、「公権力」による許可がないと商売できない点では同じなのかもしれませんね。
日本史における「座」
「座」の成立は平安時代頃から
日本史で最初に登場した「座」は平安時代、京都で起こった「八瀬里座」が記録に残っている最古の例です。この「八瀬里座」は青蓮院という寺院を「本所」とし、木こりや輿(こし、お神輿の人が乗る版です)を担ぐ人夫によって構成されていました。この「本所」となっていた青蓮院は貴族達に人気の高い比叡山延暦寺の末寺だったためか、「八瀬里座」は比叡山や朝廷に対して奉仕活動を行っていたそうです。
ちなみにこの「八瀬里座」に属していた人々は、延暦寺の開祖「最澄」が使役していた鬼の末裔という設定になっていたそうです。もちろんこれは伝説上のことですので眉唾もいいとこですが、比叡山の寺役に携わっていた人達は髪を結わず、長い髪を垂らした童頭だったと伝えられています。そういった人達は「髪を結わない=元服前=童子」ということで「八瀬童子」なんて呼ばれもしたそうですが、現代では社団法人・八瀬童子会がその伝説というか伝統を守ろうと活動していたりします。
鎌倉時代に「座」が活発化
源平合戦とも呼ばれる「治承・寿永の乱」が源頼朝の勝利に終わると、ようやく武士に陽の目が当たる鎌倉時代が訪れました。これと同時に商人の活動も活発化したようで、鎌倉時代に入ってからそこかしこに「座」が形成されています。とは言えその大部分は商業が盛んな大都市に集中しており、都市の近くに拠点を持つ寺院が「本所」となっている点は相変わらずだったりします。大和国(奈良県)の興福寺、京都の比叡山延暦寺、近江国(滋賀県)の日吉大社といった寺社勢力は様々な「座」の「本所」となり、支配権を持ちながらピンハネできた美味しい時代だったと言えるでしょう。
「座」の在り方が一変した室町時代
鎌倉時代末期に登場した足利尊氏によって室町幕府が樹立されると、あまり関係がなさそうな「座」を取り巻く環境にも変化が現れています。室町幕府の政策は支配階級寄り、つまり貴族や高級武士を優遇したことで権力強化に繋がっていますが、これによって比叡山延暦寺などの寺社勢力が相対的に弱体化しました。そして守護大名となった武士は領内統治の一環として「座」をも支配、「本所」を無視して「座」から税をむしり取る者すらいたようです。
織田信長と豊臣秀吉の「楽市楽座」で消滅
室町時代に入って「座」を取り巻く環境が若干厳しくなりましたが、戦国時代に入って以降も普通に存続していたようです。ところが戦国時代末期の織田信長の登場により、「座」が持っていた専売の権利は価値を失うことになります。
織田信長が出した政策として「楽市楽座」は非常に有名ではありますが、この政策は実のところ自由な商売による街の活性化を狙った訳ではありません。もちろん建前的には「誰でも自由に商売していいよ!」というものではあるのですが、実際は織田政権と結びつきの強い「御用商人」が肥大化しただけだったりします。こういった「御用商人」達はもともと「座」の有力者であり、ある程度流通を仕切れる立ち位置にいた商人達でした。つまり「楽市楽座」の真意は「座」の支配であり、織田信長は「御用商人」を通じて商業面をも支配しようとしていた訳ですね。
とは言えそんなことをされたら「座」からの収益に頼っていた「本所」も黙っていられず、比叡山延暦寺といった武闘派な寺社勢力は徹底的に織田信長に抵抗しました。しかし相手は戦闘のプロフェッショナルということで敵うはずもなく、その結果「比叡山焼き討ち」という形で幕を閉じたという訳です。そして「座」は織田政権の拡張とともに次々と解体され、「楽市楽座」政策を引き継いだ豊臣秀吉が天下統一を成し遂げたことで消滅しています。
織田信長の比叡山延暦寺の焼き討ちについてはこちらからどうぞ。
現代にも残る「座」の名残
豊臣政権下で商業的な同業者組合としての「座」は消滅していますが、本来の「座」という言葉は「人が集まる」ことを意味しています。そのため「座」という言葉は江戸時代に入っても普通に使われており、商業の場に限らず結構広範に用いられていたようです。江戸時代の芸能集団で「〇〇座」と名乗ったケースが非常に多いですが、これは現代でも結構あるあるなネーミングだったりしますよね。
また江戸幕府が管理する貨幣の鋳造所も「座」という呼称が用いられており、銀貨なら「銀座」、小判など金貨であれば「金座」と呼ばれていました。現代において「銀座」と言えばあのハイソな街が思い浮かびますが、東京の地名「銀座」は江戸幕府の「銀座」があった場所ですので、これはいわゆる「そのまんま」ってヤツですね。江戸時代当時に汗ダクで銀貨を鋳造していた人々にとっては、「銀座」があんなオシャレな場所になるなんて思いもしなかったことでしょう。
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