三種の神器とは
天照大御神がニニギに授けた宝物
日本の天皇家に伝わる三種の神器とは、日本神話で天孫降臨の際に天照皇大神がニニギに授けたとされる宝物を指します。天皇家の始祖となるニニギは「八咫鏡(やたのかがみ)」、「天叢雲剣(あまのむらくもけん)」、「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」を神聖な宝物として扱い、以来天皇家の後継者はこの3つの宝物を神前に捧げ、皇位継承の儀式を行うしきたりとなっています。
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三種の神器の実物は各神社にあります
今も昔も天皇が即位式を行う際にも実物は用いず、「形代(かたしろ)」と呼ばれる代用品を使って儀式を執り行います。というのも、八咫鏡は伊勢神宮、天叢雲剣は熱田神宮の御神体となっており、持ち出すだけで災厄に見舞われると考えられているためです。それは日本という国家の最重要イベント、天皇の即位式であっても例外ではありません。ですが八尺瓊勾玉だけは皇居内に保管されているため、これだけは令和天皇の即位式の際にも実物が用いられています。
三種の神器こそが正統な皇位継承者の証
三種の神器は即位式に用いられるだけでなく、所持していることが正統な天皇である証ともなります。日本史では国内に複数の天皇がいるケースは非常に稀ではありますが、鎌倉時代初期の源平合戦の折や、室町時代初期の南北朝に分裂した時代などがそれに当てはまります。まあ源平合戦は割とすぐにカタがつき、また2人目の天皇となった後鳥羽天皇がまだ若かったこともあり、神器が戻った後に改めて儀式を行うことでなんとか辻褄を合わせました。
ですが南北朝時代は70年も2人の天皇がいる状態が続いたため、「日本史」的にはどちらかを正統として扱うかを決める必要があります。これは天皇は常に1人という建前があるためであり、その建前を崩してしまえば天皇家の正当性自体が薄れることになります。
まあ非常にレアなケースではありますが、こうした場合には神器を所有していた南朝が正統扱いされます。なんとなくではありますが、室町幕府とツルンでいた北朝側が正統な感がありますけどね。
ちなみに宮内省ホームページの天皇系譜では、南北朝共に掲載されています。
https://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/keizu.html
南北朝と室町幕府が絡み合った「観応の擾乱」についてはこちらからどうぞ
三種の神器をひとつずつ
八咫鏡
天照皇大神を天の岩戸から出した鏡
古事記に記述された神話で、太陽神であるアマテラスが天岩戸(あまのいわと)に隠れてしまい、日本が闇に包まれてしまうシーンがあります。これに困ってしまった神々は、知恵者で知られるオモイカネという神様(この時代は登場人物全て神ですが)にアマテラスを引っ張り出す方法を尋ねます。するとオモイカネは妙案を思いつき、その場にいる神々にその方法を伝えました。
まずアマノウズメという踊りを得意としている神に、天岩戸の近くで踊るよう指示を出します。その要求に応えたアマノウズメは全力で狂ったように踊りだし、それを見た周囲の神々はゲラゲラと大笑いし始めました。アマテラスは自身がいなくて皆悲しんでいるはず、と思っていたところで外からひどい笑い声が聞こえたため、気になって岩戸をちょっとだけ開けて外を覗き見ました。隙間から覗いているのを見た神の一人が鏡をアマテラスに当てると、興味を持ったアマテラスはさらに岩戸を開けて身を乗り出しますが、外にいた神々はそのタイミングを逃さず掴まえて力づくで引っ張り出すことに成功します。アマテラスが外に出たことで世界が明るくなってめでたし、という、ありがたいんだかどうだかわからないお話となっています。
この時にアマテラスの興味を引いた鏡こそが、「八咫鏡」として三種の神器の1つとされています。アマテラスにとっては黒歴史の証拠となりそうな鏡でもありますが、これを堂々とニニギに渡すあたりは、さすがは日本最高神といったところですね。
八咫鏡という名称の由来
この鏡の名称はいかにも神器といった感がありますが、実はそれほど大層な意味合いは込められていません。「咫」という字は現代では使われない漢字ではありますが、「尺」と同じ意味を持っています。「八咫」という表現は物の長さの八尺という意味にもなりますが、単純に大きいことを表す形容表現でもあります。つまり「八咫鏡」を現代語訳してしまうと、「大きな鏡」という身も蓋もない名前になります。
古事記では「八」という数字に、「多い、大きい」という意味を持たせているケースが非常に多く見られます。日本では古来よりものすごい数の神々をひっくるめて「八百万の神(やおよろず)」と表現し、巨大なカラスを「八咫烏(やたがらす)」と言い表しますよね。
ちなみに八咫烏は3本足を持つ神の使いとして古事記で描かれており、スサノオに仕える神獣として信仰を集め、またサッカー日本代表や陸上自衛隊のエンブレムにも三本足のカラスがデザインされています。
八尺瓊勾玉
やっぱりアマテラスの岩戸隠れで使われた勾玉
八咫鏡と同様に、こちらもアマテラスの岩戸隠れに関連する神器となっています。ですがストーリー性があまりなく、さっぱりした味付けの話ではありますが一応ご紹介いたします。
アマテラスが岩戸隠れをした際に、八尺瓊勾玉は八咫鏡とともに榊の木に掛けられていました。
という記述があった後に、この勾玉は天孫降臨でニニギに渡される場面まで登場してきません。薄味どころか全然味がしないまでありますが、一応三種の神器としてニニギに渡されています。
八尺瓊勾玉という名称の由来
八咫鏡の名称由来でもご説明いたしましたが、古事記や古代の表現では「八」という数字は「多い・大きい」という意味でも使われます。そして「瓊」という字には「玉のように美しい(goo辞書参考)」という意味があるため、八尺瓊勾玉という単語を現代語訳すると、「大きくて美しい勾玉」という普通な意味になります。
エピソード豊富!天叢雲剣
スサノオがヤマタノオロチから掴み出した剣
アマテラスに高天原を追放されたスサノオは、出雲国(現在の島根県)に辿り着くと老夫婦と娘が泣いているところに出くわしました。スサノオが泣いている事情を尋ねると、ヤマタノオロチという8つの頭と8つの尻尾を持つ蛇が毎年現れ、8人いた娘の最後の一人が今年食べられるから、という怪物の情報をゲットします。そこでスサノオは8つの門を作り上げ、門の裏にキツめの酒を入れた酒樽を置いてヤマタノオロチの出現を待ちました。
そしていざヤマタノオロチがやってくると、オロチは8つの門に8つの頭をそれぞれ突っ込み、勢いよく酒を飲み始めました。酔っ払って寝てしまったオロチの首をスサノオは片っ端から斬りまくり、ヤマタノオロチを退治し娘を助けることに成功します。
この時切り裂いたヤマタノオロチから大刀が出てきたため、この大刀を天叢雲剣と名付けアマテラスに献上しました。アマテラスのご機嫌も直って結果めでたしなのですが、気になる点がいくつかあるので次の見出しで簡単に考察してみたいと思います。
ヤマタノオロチのエピソード考察
まず夫婦の娘の数やヤマタノオロチの首や尻尾の数ですが、全て「8」で統一されているのが非常に気に掛かります。八咫鏡や八尺瓊勾玉のくだりでもご説明していますが、古代の表現では「8」という数字は「多い・大きい」という意味を表していることがあります。そのため沢山いた娘が沢山の首を持った何かに片っ端から食べられてしまった、という内容にも受け取ることができます。
そしてヤマタノオロチというあり得ない化け物ですが、そんなものは当然いるはずもないので、何かモデルがあるものと考えられます。これはあくまで仮説の1つにしか過ぎないのですが、中国や朝鮮の軍や海賊が襲撃に現れ、娘をさらっていったのではないでしょうか? スサノオが倒した敵から奪った剣に天叢雲剣という名前をつけ、戦利品としてすでに地位を得ていたアマテラスに献上したのではないでしょうか?
という内容のYoutube動画があったので、ご紹介させていただきます。有名なYoutuberさんの動画なので見たことがある人も多いと思いますが、非常に面白いので見てなければぜひご覧になってください。
天叢雲剣という名称の由来
スサノオが討伐に成功したヤマタノオロチの頭上には、常に雲が掛かり曇り空の中で現れたと言われています。スサノオはこの様子をそのまま剣の名前とし、天叢雲剣と命名されたと伝えられています。「天」に「雲」が「叢(群)がっている」という、よくよく見るとこれまたストレートなネーミングですね。
出雲国が属する山陰地方は、気候条件的に曇り日が多くなりやすい傾向があります。この調子でいくと山陰地方で作られた剣は全て同じ名前になってしまいそうですが、ここではあまり触れないでおきたいと思います。
天叢雲は草薙剣とも呼ばれます
この宝剣はスサノオの時代を過ぎた後、ヤマトタケルの時代のエピソードによって別の名前でも呼ばれるようになります。
ヤマトタケルがいた当時のヤマト王権は、支配地を広げるために西へ東へ征伐に大忙しでした。西方面の討伐が済んだヤマトタケルは、今度は関東征伐に向かうことになります。この時天叢雲剣は伊勢神宮に奉納されていましたが、ヤマトタケルは伊勢に立ち寄りこの剣を譲り受け、意気揚々と東へ向かいました。
その後関東に入ったヤマトタケルは、東国の勢力に見つかって追われ、枯れた草が生い茂る草原に逃げ込みました。ヤマトタケルの姿を見失ってしまった東国勢力の兵は、それなら焼いてしまえとばかりに草原に火を放ちます。草地に隠れて安堵していたヤマトタケルは一転してピンチに追い込まれましたが、ここで伊勢神宮にて譲り受けた宝剣が自ら鞘から飛び出し、草ごと火を薙ぎ払い窮地を脱することに成功します。ピンチを脱したヤマトタケルは改めて東へ向かい、バッタバッタと敵対する東国勢力を討伐します。討伐が完了して大和の国に戻ろうとしたヤマトタケルですが、帰路で病に罹かってしまい、故郷に戻ることなく亡くなってしまいます。
この物語にちなんで、ヤマトタケルが持っていた宝剣は「草薙剣」とも呼ばれるようになります。「草」を「薙いだ」から「草薙剣」という、これまた直球勝負な命名となっています。
ちなみにヤマトタケルには新婚の妻が尾張国(現在の愛知県北部)にいましたが、この妻がヤマトタケルの死を悼み、亭主と宝剣を祀るための宮を建設します。この建物が後に熱田神宮となり、現代に至るまで天叢雲剣をご神体として祀っています。
天叢雲が天武天皇を祟った?
乙巳の変を経て天智天皇が即位すると、当時の朝鮮王朝の新羅との国交が盛んになっています。幾度も遣新羅使を派遣しており、また帰化人として日本に居着く新羅人も多くいました。ですがこの頃日本に入国した新羅人にはタチの悪い人もいたようで、なんと熱田神宮に奉納されていた天叢雲剣が新羅人に盗難されるという事件が起きます。一応犯人を捕らえて回収することに成功するのですが、そのまま戻すのも再度盗難の危険があるということで、宮中にて保管することになりました。
壬申の乱を経て天武天皇が即位しても、宝剣は宮中で保管されたままとなっていました。武力で政権を奪取した天武天皇は強力な権力を行使し、一人の大臣も置かないままに自ら政治を取り仕切り、官制改革など大幅な変更にも積極的に着手しています。
独壇場とも言える政治が行われていましたが、天武天皇は突如病に倒れてしまいます。あまりに急な悪化に驚いた側近達は、陰陽師による占いで天武天皇の病気の原因を探ろうとしましたが、その結果なんと天叢雲剣の祟りであると判明、慌ててこの剣を熱田神宮へと奉納し直します。ですが天武天皇の病状は回復することなく、そのまま病に伏したまま亡くなってしまいます。
天叢雲剣の形代は一度消失しています
源平合戦という消失の背景
源義経率いる軍勢が京都へ押し寄せると、平氏一門に連れ出された安徳天皇とともに、三種の神器(八尺瓊勾玉以外は形代)も持ち出されました。天皇を連れて行かれてしまった源頼朝は世間から逆賊と言われるのを避けるため、朝廷に働きかけて急遽新たな天皇を即位させることにしました。とは言え源頼朝にとっては世間から逆賊とされないことだけが問題だったわけで、即位式に三種の神器がなくても全く問題ありません。むしろ後鳥羽天皇という新たな天皇を即位させ、平氏討伐の命令に従った、という建前さえあれば良かった訳です。
本来であれば神器がない天皇なんてあり得ないのですが、頼朝は京都を武力で抑えているため貴族たちも文句は言えず、また騒がれないうちに事を済ます自信があったのでしょう。ちなみにこの時4歳という幼さで即位した後鳥羽天皇は、神器がないまま即位してしまった、というコンプレックスを引き摺り続けることになります。1221年に後鳥羽上皇が起こした承久の乱も、源頼朝が成立させた鎌倉幕府に対する恨みが込められていたのかもしれません。
承久の乱についてはこちらからどうぞ。
今も天叢雲は海の底
源義経は平氏との戦いに勝ち進み、ついには終焉の地・壇ノ浦まで追い込むことに成功します。この壇ノ浦で起きた海戦でも源義経は自慢の軍略で平氏を圧倒、源氏軍の勝利は確実となったタイミングで事は起こります。ここで安徳天皇の母・平徳子が天皇を連れて入水(水に身を投げ入れる自殺)を図りますが、三種の神器を抱えたまま海に飛び込んでしまいます。これを見た源義経は慌てて兵を連れて現場に急行、熊手を掻き入れてなんとか平徳子・八尺瓊勾玉・八咫鏡の形代は引き上げましたが、安徳天皇と宝剣の形代は回収できずに海に沈んでしまいました。
京都へ戻った源義経たちがこのことを報告すると、朝廷内では宝剣の代わりについて終わりのない議論が飛び交いました。するとちょうど良すぎるタイミングで伊勢神宮から打ち上がったばかりの宝剣が送られてきたため、この宝剣を天叢雲剣の形代にしようということで全会一致、こうして代理品ではありますがなんとか神器が揃うことになっています。 壇ノ浦では今も天叢雲剣の形代は海の底で眠っているのでしょうか。2021年5月現在ではまだ見つかってはいませんが、宝剣は今も天皇家に戻ることを待ち続けているのかもしれません。
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