一揆とは
集団で1つの目的を持ち、全員で達成のために行動することを「一揆」と言います。農民や一般民衆によって起こされる事件と認識されがちですが、単語としての意味はあくまで集団で目的に当たることを意味しており、身分や手段などは関係なく用いられます。「揆」という文字には「やり方、手段」といった意味があるため、字面的には「みんなで力を合わせて1つのことを!」といった意味合いになります。
文化祭のキャッチフレーズにでもなりそうな爽やかな意味の単語ではありますが、事件性の高いものしか歴史の記録に残らないため、日本史上においては暴動や襲撃関連ばかりとなっています。「農作物の品種改良一揆」や「美女を愛でる一揆(ただのファンクラブですよね)」なども実際にはあったのかもしれませんが、例えあったとしても残念ながら歴史の片隅に葬られています。
時代によってこの単語が意味する範囲が変化しており、また社会が複雑化するにつれバリエーションも豊富になっていきます。簡単にではありますが、この単語が持つ意味の時代ごとの変遷と種類についてご説明したいと思います。
室町時代は意外と武士多め
武士の集合体・国人一揆
「一般民衆の反乱=一揆」というイメージを持っているとピンときませんが、室町時代には特定の武士の集団を指して「国人一揆」と呼ぶ事例があります。この「国人一揆」は幕府から送り込まれてきた守護職に対抗したケースもありますが、他の一揆勢力からの圧力に抵抗する目的で結成されたケースもあります。
室町時代前期では血縁を頼りとして集団化してはいますが、基本的に戦闘に及ぶ事態はかなり稀だったようです。横暴な守護が就任してきた場合の対抗手段、または守護の影響を排除し平等な統治を行うためなど、国人が自分達の権益を守るために集団化したものが「国人一揆」と呼ばれます。強大な守護や他の一揆集団の圧力に対抗するためにもう一方も集団化するという、現代の派閥争いにも通じるパワーゲームで生き残るための手段だったとも言えます。
「国人一揆」は「敵に負けないようみんなで頑張ろう!」といったノリだったのか、大半のケースで指導者が存在していません。主従関係などなく参加者は基本的に横の関係となるため、結成当初こそガッチリまとまるものの、時間経過とともに内部分裂しているケースがほとんどです。横関係だけの集団の維持がどれほど難しいかということですね。
農民による抗議行動・土一揆
要求を通すために立ち上がる
武士が集団化したものを指す国人一揆に対して、「土一揆」は一般民衆による集団を指します。国人一揆は自分達よりも強大な守護大名や大きな一揆勢力に立ち向かうために組織されましたが、こちらは統治者層や守護、あるいは幕府そのものに対して要求を通すために組織されています。「一揆」という単語からなんとなく連想されるイメージとして、この民衆による抗議行動が最も近い気がします。
主に生活の困窮が理由となって土一揆が起こったのでしょうが、別の背景として当時にあった「徳政」という考え方も大いに影響したものと思われます。ちなみに「土一揆」の土は、当時の農民が「土民」と呼ばれていたことに由来しています。
徳政一揆とも呼ばれます
金銭による売買によって土地の所有者が変わることは現代でも室町時代でも同様ですが、当時は元の所有者こそが本来の所有者であり、売買による所有権の移動は仮のものという考え方が存在していました。もちろん実際はお金を出して買った人が所有権を得るのは今も当時も当然であり、「あの土地は本当はおれのなんだぞ」といった悔し紛れの気持ちだったのでしょうが、所有権の移動は仮であるという考え方は広く受け入れられていたようです。
この考え方に則って売却された土地を本来の所有者に戻し、ついでに借金を帳消しにしてしまう政策を「徳政令」といいます。金貸し業を営む人にとっては地獄でしかない政策ではありますが、この「徳政令」を要求する一揆を「徳政一揆」といい、室町時代には数多く起きています。また「土一揆」の大半が徳政令を要求するための暴動だったため、「土一揆=徳政一揆」と呼ばれる場合もあります。
戦国時代を加熱させた一向一揆
戦国時代に入った頃から浄土真宗が活発化して「一向一揆」を編成し、既存の統治者を攻撃する事件が日本各地で相次いでいます。「一向一揆」は全員が横並びの協力関係だった国人一揆とは異なり、坊官と呼ばれる僧侶が派遣され統率に当たるため、キッチリとした上下関係の「組織」だったことが特徴でしょうか。農民や町民だけでなく武士も多く参加しており、徳川家康の領土で起きた三河一向一揆では多くの家臣が一揆勢に付くという、かなり悲惨な事態も起きています。
浄土真宗が起こした三河国の内戦・三河一向一揆についてはこちらからどうぞ。
寺院兼要塞となる石山本願寺があった摂津国(現在の大阪府北中部あたり)大阪を本拠地として、伊勢国(三重県)や三河国(愛知県東部)、加賀国(石川県南部)など信徒が多かった地域で特に活発化しています。一向一揆が統治した加賀国や大阪には区画割りされた綺麗な町並みが立ち並んでいたため、暴動を起こすだけでなくしっかりとした方向性を持っていたことが窺い知れます。また浄土真宗によって統治された地域は大きな河川がある地域が多かったため、高い治水技術を持っていたとも言われています。
江戸時代以降は農民により
ガッチリとシステム化された江戸幕府ではすでに武士による騒動は起きる余地がなく、一揆の主役は農民に移ります。江戸時代ではほとんどのケースで武力行為に及んでおらず、何万人もの人数のプレッシャーで要求を通すという、大規模なデモのような一揆が多く起きています。数万で徒党を組んだとしても何十万という幕府軍に鎮圧されてしまうためでしょう、あくまで話し合いという枠の中で解決を図ろうとしています。江戸時代初期には「島原の乱」という大規模な一揆も起きてはいますが、この事件の後には農民同士で徒党を組むこと自体が禁止されるという、幕府による徹底的な規制が掛けられています。
幕末には日本国内に様々な思想が入り乱れ、また外国と強制的に結ばされた不平等条約に不満の声が高まり、幕府や政府に向けて改善を求める「世直し一揆」が多発しています。明治期に入ると明治維新という大きな改革に対して幾度となく一揆が起き、そして明治維新が定着し民衆の生活が安定すると共に、一揆という騒動が日本で起きなくなっています。