琉球の農民から国王へ | 尚円金丸物語①

琉球の人物録

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琉球で農民から国王に登りつめた人物・尚円金丸

皆さんは、尚円金丸という人物をご存知でしょうか。琉球史に触れたことがないという方にとっては、名前すら聞いたことがないという方が多いのではないかと思います。

金丸は沖縄本島の北西部に浮かぶ伊是名島の農民という立場から、琉球王国の王にまで上り詰めるという凄まじい出世をしています。農民から国王という出世劇は世界史レベルでも数える程しかなく、古代中国王朝・漢の劉邦や日本本土の豊臣秀吉に匹敵する偉業ではないかと思います。彼はなぜ、そのような偉業を成し遂げることが出来たのでしょうか。今回は、農民の子であった金丸が琉球王府の重要人物となるまでを追いながら、彼の素顔に迫ってみようと思います。

理解者・尚泰久王との出会い

後の尚円王が島を追われた理由

金丸は1415年、沖縄本島北西部に浮かぶ伊是名島に、農民であった父・尚稷(しょうしょく)と母・瑞雲との間に長男として生を受けました。金丸は島民から「北(にし/沖縄の方言で北を「にし」と読む)の金丸」と呼ばれる有名人であり、島一番の働き者で島一番の美男子、さらに島一番の知恵者というデキスギ青年でした。特にその容姿と理知的な性格は島の女性から高い人気があったと言われています。

島中の評判者だった金丸は、両親の死後、妻と弟と一緒に米作りに励んでいました。しかし、ある事件が起こり、伊是名島を出て行かざるを得なくなってしまいました。それは、島全体を干ばつが襲ったことがきっかけとなります。村中の田んぼの水が干上がってしまう中、金丸の田んぼだけは水をたたえ、稲も豊かに実っていたと言います。それを見た島民たちは、金丸が自分たちの田んぼから水を盗んだとして恨みを買ってしまうのです。実は、金丸の田んぼの近くには湧水があり、その水を引いていたために田んぼの水が枯れなかったと言われています。実際に金丸の田んぼの跡では、今でも水が湧き出ているのが確認出来ます。

しかし、島民たちは金丸を水泥棒と決めつけ、殺害の計画まで立ててしまいます。そこで金丸は、妻と弟(後の尚宣威王)を連れて伊是名島を出ていくことを決めるのです。

ところで、ここで皆さんは疑問に思わないでしょうか?湧水のことを島民に伝えれば、評判の良かった金丸のことですから、島民も納得したのではないでしょうか。ここで、実はもう一つ、金丸が伊是名島を追われた原因となった説があります。それは金丸が美男子ということで島の女性に大変モテていたため、その嫉妬心から島を追われたのではないかという説です。実際のところ、伊是名島には金丸が島からいなくなってしまったことを嘆く歌が残っているという、モテすぎてツラいを地で行く人物だったようです。

越来王子・尚泰久との出会い

水泥棒の疑いをかけられ、命の危険を感じた金丸は、刳舟(くりふね/1本の木をくり抜いて作った舟)に乗って島を離れると沖縄本島北部の国頭間切(まぎり/琉球王国時代から明治時代の沖縄の行政区分のひとつ)宜名真(ぎなま/沖縄県北部国頭村の地域)へと渡ってきます。

ところが、宜名真の村でも金丸一家は、余所者という理由で受け入れてはもらえませんでした。そこで、金丸一家は久志(くし/沖縄県北部名護市東部の地域)へと移り住むことになります。しかし、ここでも受け入れてもらえず、金丸は王府である首里を目指すことになります。

金丸が各地を転々としたのには、彼の美男子振りが災いしたという説があります。金丸は地元の伊是名島だけでなく、沖縄本島でもモテてしまったがために、各地で嫉妬されて追われていたとも伝わっています。

※あくまでイメージです

首里へたどり着いた金丸は、後に琉球国王となる越来王子・尚泰久と運命的な出会いを果たします。尚泰久が首里城下の龍潭(りゅうたん/尚巴志が作らせた人工の池)を通ったところ、みすぼらしい格好をした金丸を見かけます。その際、金丸が何かを隠したため問い詰めたところ、食べかけの握り飯を差し出したと言います。そこで、尚泰久がなぜ握り飯を隠すのかを尋ねると、金丸は「私にとっては大切なものだ」と答えたそうです。

このどこか不思議な会話から、尚泰久は何かを感じ取ったのかもしれません。その後、金丸は尚泰久に招聘され、越来間切へと向かうのです。ここから、金丸は出世街道を駆け上っていくことになります。

尚泰久王を支える敏腕長官の誕生

王府への出仕

越来王子・尚泰久に気に入られ、彼の所領である越来に金丸を連れてくると、その非凡な才能に気付きます。そこで、尚泰久は兄である尚金福王へ金丸を役人として王府に仕えさせるように強く推薦します。

尚金福王は、尚泰久の熱心さに負けたのか、金丸を王府の役人として召し抱えます。金丸は、「家来赤頭(げらえあくかべ)」という下級の役人として琉球王府に仕え始めます。しかし、金丸にはこの役職に長く留まることはありませんでした。伊是名島に住んでいた頃から、その頭脳の明晰さをたたえられていた金丸は、とんとん拍子に出世していきます。

この頃、琉球王国では、冠(はちまき)の色によって役人の等級が決められていたとされています(琉球の身分や位階がしっかりと定まるのは、第二尚氏王統三代国王・尚真王頃)。

金丸は、出仕から僅か5年で高級官僚を表す黄色い冠を巻くまでになり、大いに出世したのです。更にその1年後には、王族同士の後継争いから起こった内乱が終わり、一番の理解者である越来王子・尚泰久が国王となります。すると金丸は、尚泰久王から西原間切(東は沖縄県中部のうるま市から、西は中部の西原町、那覇市のおもろまちや泊にまで及ぶ広大な王家の直轄地)にある内間の地頭に任命されることになります。

金丸は、その頭の良さもさることながら、運の良さも持ち合わせていたと言えるでしょう。首里城下での尚泰久との偶然の出会いに始まり、高級官僚になったと同時に、理解者である尚泰久の国王即位という好機に恵まれ、出世街道を駆けて行ったのです。

敏腕貿易長官・金丸誕生

内間の地頭に就任した金丸は、善政を行なったため、内間の領民に1年程で尊敬されるようになり、人心を完全に掌握したと伝わっています。

任官から僅か7年、異例の早さで自らの領土を持つまでになった金丸でしたが、彼の出世はここで止まりはしませんでした。内間の地頭を務めてから5年が経った頃、金丸は王府でも重要な役職に就任することになります。

1459年、金丸は御物城御鎖之側(おものぐすくおさすのそば)という、当時の琉球王国の官僚においては最高の職に就任することになります。この職は、中国やアジア諸国との交易で得た宝物を保管する「御物城(おものぐすく)」を管理するものでした。しかし、その権限は、それだけにとどまらず、那覇の行政、貿易業務を一手に引き受ける貿易長官としても機能していたのです。また、王との取次職も兼ねていたため、王へ上申する際には金丸を通して行う必要があったことを意味しています。尚泰久王は、それ程までに金丸のことを信頼し、重用していたことが分かります。実際にどれ程重用されていたかというと、王府の歴史書の記述に、政治の重大な事柄は全て金丸がいるところで議論が行われたとある程です。

政治と貿易という巨大な権力を手に入れるまでになり、順風満帆な人生を送っていた金丸でしたが、すぐそこに暗雲が立ち込めていることに彼は気付いていませんでした。金丸の人生を狂わせる出来事が、御物城御鎖之側就任から僅か1年後に起こってしまうのです。

尚泰久王の功績についてはこちらからどうぞ。

まとめ

伊是名島に農民の子供として生まれた金丸でしたが、自らの知恵と類い稀なる運の良さで琉球王府の高級官僚という地位にまで一気に駆け上がっていきました。それは、先に述べたように彼自身の聡明さが一番の理由であったかも知れませんが、そこに尚泰久王という最大の理解者がいたことも大きかったと言えるでしょう。どこの誰かも分からない、みすぼらしい格好をした青年に言葉を掛け、そのまま自らの領土へ連れて行っただけでなく、王府の役人に推薦するという後押しがなければ、金丸という傑物は歴史舞台に立てなかったのではないでしょうか。

次回は、金丸の前に立ち塞がった障害と、その障害を乗り越えた先に金丸が掴んだものを皆さんとご一緒に見て行きたいと思います。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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尚円金丸物語①・参考サイト様

伊是名島 伊是名島・〜偉人金丸〜

https://ameblo.jp/r19930513yo/entry-12195046702.html

沖縄移住ブログ 琉球王朝時代には百姓から成りあがった国王がいた

https://www.nakame-arena.com/history/359

尚円金丸と巡る 島の宝伊是名村の史跡・文化財 尚円金丸とは

https://www.izena-story.com/story.html

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