蝦夷とは大和政権に従属していない人々や地域を表します

アイヌ人と東北地方 用語集

蝦夷(えみし)とは

大和朝廷を始めとする各時代の政権から見て、関東地方や東北地方に住んでいた人々を指す単語です。天皇家を中心とする大和政権は奈良県あたりから東に向かって支配領域を伸ばしていますが、その領域外に住んでいた人々は当然朝廷との従属関係がなく、そういった人々がひと纏めにされ「蝦夷」と呼ばれていました。つまり一つの人種や部族を指しているわけではなく、朝廷の影響下にない人々や地域がボンヤリと「蝦夷」と呼ばれていたようです。ちなみに同じ意味で「毛人」と書いて「えみし」と読む場合もあり、平安時代の中期頃には「蝦夷」と書いて「えぞ」と読むようになったりと、色々とブレまくっている単語だったりします。

蝦夷とされた人種・民族

大和政権に従属していない人々が全て含まれる「蝦夷」という括りには、当時の東北や関東に住んでいたあらゆる人種・民族が含まれます。近畿地方を中心にして朝廷の支配領域が拡大したため、その土地にもともと住んでいた原住民で従属を拒んだ人々は、追いやられるように東へと移り住みました。つまり一地方政権でしかなかった大和政権が拡大したことで、侵略を受けた側の民族が蛮族として「蝦夷」扱いされているため、元々日本に住んでいた大和民族も含まれていたこともありました。また蝦夷として扱われた人種は大和民族だけでなく、樺太や北海道、そして日本本州の北部に住んでいたアイヌ人も含まれていたようです。

移住した蝦夷は「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれます

古墳時代から平安時代初期までの期間は、朝廷はしばしば支配領域拡張のために蝦夷の勢力圏に軍を派遣しています。もちろんどこからが蝦夷の領域かは異なっていますが、古墳時代にはすでに現代の東北地方辺りにまで朝廷の領域が拡大していました。そして平安時代の初期には征夷大将軍坂上田村麻呂による大規模な蝦夷征討で、現代の岩手県盛岡辺りまで大和政権に組み込まれています。この度重なる朝廷軍の攻撃に対して徹底的に抗戦した人々も多かったのですが、逆に朝廷に帰服し大和政権に取り込まれた人々も多くいました。

蝦夷征討に向かった軍神・坂上田村麻呂についてはこちらからどうぞ。

もし隣の集落が徹底抗戦する気でいるのに対して、自分の集落が大和政権と仲良くしているのがバレたとしたら、争いが起きてしまうのが割と自然な流れでしょう。もちろん大和政権に帰服した人々は争いたくないから帰服する訳で、大和政権と仲良くなっても隣の集落とケンカになったら本末転倒ですよね。という訳でそういった帰服した人々の中には、周囲の集落との争いを避けるために自ら安全な場所に移住したケースも多くありました。こういった移住者は「俘囚」と呼ばれ、税の免除だけでなく給料も受給できる優遇のある待遇で迎えられました。蝦夷の人々は特に弓術や馬術に優れた者が多かったようで、「俘囚」となった人々からその技術が伝えられ、またいざ戦争となれば強力な兵として活躍してくれる頼もしい存在だったようです。

とは言え元々狩猟や採集で生計を立てていた人々にとって、「俘囚」の生活はあまりに息苦しかったのか、しばしば「俘囚」による反乱が起きています。大和政権はたびたび「俘囚」との融和を図って様々な政策を打ち出していますが、元々住んでいた人々との問題もあったようで、結局頻繁に反乱が起こる結果となりました。そしてさすがに手に負えないと判断された場合には、「俘囚」となった人々が強制的に東北に送還されたケースもあったようです。

強さの象徴となった「蝦夷」

「蝦夷」は比較的というか異常なまでに戦争に強かったようで、「蝦夷1人で100人を相手にできるらしいけど、あっけなく倒したよ」といった内容の軍歌が残されています。これは日本書紀に記載されており、「そんな強い蝦夷も打ち破ったよ」という書かれ方なのですが、逆に言えば蝦夷の軍が強いことは常識だったことを示してもいます。とは言えさすがに100対1というのは相当話を盛っているとは思いますが、それくらい「蝦夷=強い」というイメージが持たれていたのでしょう。

なんか強そう

こういった理由からか、飛鳥時代や奈良時代あたりの人物には「蝦夷」や「毛人」というワードが入った人名がチラホラ見受けられます。中でも最も有名な人物と言えば、聖徳太子と共に蘇我氏の隆盛期を築き上げた蘇我馬子の子・蘇我蝦夷(そがのえみし)でしょうか。また遣隋使として「日出ずる国~~」の国書を届けた小野妹子の子供も、小野毛人(おののえみし)という名を持っています。「蝦夷」や「毛人」は異民族への侮蔑のニュアンスを含む単語でもあるのですが、逆に子供の名前に付けたくなる程にパワフルなイメージもあったのでしょう。

蝦夷との関係を強みに変えて成長した豪族も

坂上田村麻呂が蝦夷征討から戻ると、国家予算を使いすぎたということで国軍が解体されることとなりました。ですがさすがに蝦夷との境界に兵がいないのはマズいということで、東北の軍だけは維持されていますが、相次ぐ反乱で東北の朝廷軍もアップアップの状態になっていました。ここでようやく反乱が起きる根本的な解決が図られ、中央から派遣される官僚ではなく現地人、つまり蝦夷の人々に統治を任せようという発想が生まれています。

当時の東北地方にいた大和政権に従属する豪族の中には、安倍氏や清原氏といった蝦夷との関係が深い氏族も存在していました。この関係が深いというのも結構アヤフヤで、直接蝦夷の血を引いているといった説や俘囚の監督官だった説など様々ありますが、まあ要するに蝦夷に反乱を起こさせずに統治できる氏族だった訳です。安倍氏は朝廷への貢物を怠ったせいで「前九年の役」で滅亡していますが、清原氏は上手く立ち回り、安倍氏の統治領域まで一気に勢力圏を広げました。そして清原清衡(きよはらのきよひら、きよきよ)の代で朝廷に上奏して藤原氏に改姓し、奥州藤原氏として凄まじい繁栄の時代を迎えています。

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