子供から成人になるための通過儀礼・元服

成人のお祝い 用語集

元服とは

成人になったことを表す儀式です

「元服」とは子供が成人になったことを示す儀式です。現代日本(令和4年)では満18歳になると成人扱いになりますが、奈良時代から明治維新を迎えるまでの日本では、この通過儀礼を済ませて初めて大人扱いされていました。「元服」の慣習は武士貴族だけでなく一般民衆にも普及していますが、儀式の様式は身分や地域・時代によってそれぞれ違いがあります。

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元服の年齢は人によってマチマチです

子供から成人になる儀式を意味する元服ですが、実のところ年齢についてはかなりアバウトです。男性の場合は大体数え年で15歳から21歳くらい、女性の場合は12歳から16歳という広めの基準はあるのですが、これに当てはまらない元服をした日本史上の有名人も数多くいます。戦国時代の風雲児こと織田信長は結構早い13歳ですが、元寇の対応でお馴染みの北条時宗に至ってはなんと7歳で元服しています。しかも北条時宗は10歳で将軍警護の長官に任命されているため、実年齢で言うところ8歳くらいの子供が大人として長官職に就いていた訳ですね。

7歳で大人になった8代執権・北条時宗についての記事はこちらからどうぞ。

「元服」の語源と別称「加冠」

「元」という文字はもともと人間の首や頭を意味しており、また「服」の文字は何かを身に着けることを意味しています。つまり元服という単語そのものが、そのまんま「頭に何か身に着けること」を意味している訳ですね。儀式の際に頭に着ける物は時代や地域・身分によってだいぶ異なるのですが、公家の場合には冠を、それ以外の場合には主に烏帽子を身に着けて儀式を済ませていました。元服は別称として「加冠(かかん)」とも言われますが、こちらも「冠を加える」ということで字面通りだったりします。

元服のざっくりとした手順

いざ男子が元服の儀式を行う時には、自分のが所属している神社へ行き、まずは子供向けの衣服から大人用に着替えます。次に髪の毛を結い上げて土台を作り、そこに烏帽子や冠を被せてあげるという儀式になります。そして最後の締めとして、幼名、つまり子供用の名前を捨て、ちょっと物々しい大人用の名前を名乗って終了となります。ちなみにこの烏帽子や冠を被せる役目を烏帽子親(えぼしおや)と言うのですが、この役を担った人は新成人にとって特別な存在となっていました。

元服で烏帽子を被せる役・烏帽子親

元服の儀式で烏帽子親を務めた人物は、父親の替わりを意味する「仮親」とされ、新成人と烏帽子親が擬似的な親子関係を結ぶ慣習がありました。烏帽子親を務めるのは庶民であれば地元の有力者、武士の場合では主君や一族の棟梁だったようで、一族や地域の結束を強める意味でも重要な儀式とされていたようです。実際に鎌倉幕府では親子に準ずる関係として公に認められており、御成敗式目の追加法には烏帽子親と新成人、つまり烏帽子子のことについても触れられていたりします。

また烏帽子親から烏帽子子が名前の1字を譲り受けたケースも多く、鎌倉時代以降の人名がやたらと似通っているのはこの慣習のせいだったりします。特に室町時代の登場人物はかなりの頻度で名前に将軍家の通字「義」が入っており、ちょっとややこしさを増してしまっている感があります。

時代や身分によって異なる元服の様式

源氏と平氏の元服儀式の違い

一口に元服と言っても儀式の形式は家や氏族によって結構異なっていたようで、大体の流れは同じであれど結構オリジナリティが高かったようです。同じ天皇家から分かれた源氏平氏でも儀礼の装いから違っており、平氏系の武家の場合には厚化粧を施して眉も剃り落とし、お歯黒もするという公家風の儀式を行っていました。また貴族に染まった平氏と対照的に、源氏系の武士は特に化粧もせず、ある意味普通の儀式だったようです。平氏政権は朝廷の官位を独占するという貴族寄りなスタンスをとったため、儀式的な部分もそちらに合わせたのかもしれません。

能面も公家スタイルですね

室町時代以降の武士や庶民は月代を

武士達の戦いが激化した室町時代以降では、実用性を最優先し元服の儀式もやや趣を変えています。武士達は戦場に出る際には当然「兜」を被っていたのですが、「兜」の重みが掛かる頭頂部がこすれてしまうため、頭の前方から頭頂部に掛けて髪を剃り落とす慣習が生まれました。この髪を剃った部分を「月代(さかやき)」と言うのですが、これが時代劇でしょっちゅう見かけるチョンマゲ頭というヤツですね。

おでこから上の剃った部分が月代です

戦争が頻繁に起きていた室町時代・戦国時代では、「月代を剃る=戦場に出られる=一人前の武士」ということで、元服の際には烏帽子を被らず代わりに「月代」を剃るようになりました。ちなみに烏帽子を使わないなら烏帽子親はいなくなったかと思いきや、「月代」を剃る人が烏帽子親扱いになっていたようで、やはり烏帽子親システムは欠かせない大事な仕組みだったようです。この髪を剃り落とす慣習は本来武士だけのものだったのですが、農民や町民も段々とマネするようになり、気付けば日本全国「月代」の頭だらけになってしまいました。この慣習は平和な江戸時代が訪れてもなぜか廃れなかったため、日本の男性達は明治維新を迎えてようやくチョンマゲから開放されたという訳ですね。

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