天子とは天帝の子として人の世に舞い降りた徳の伝道者

天子たる中国皇帝のイラスト 用語集

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天子とは

天命を受けて天下を治める「天帝の子」という意味で、古代中国では君主を指して「天子」という呼称が用いられていました。この呼称は中国の周の時代に用いられ始め、秦の始皇帝が「皇帝」を自称してから使用されなくなっていますが、後に漢帝国が成立して以降は歴代の皇帝が「天子」の呼称で呼ばれています。また日本においても天皇を意味する別号となっていますが、こちらは飛鳥時代に聖徳太子が送った遣隋使に由来しています。

儒教精神に基づく天帝の子=天子

天子という単語は、古代中国において「孔子」によって体系化され、その後も発達し続けた「儒教」の思想に由来しています。中国では古くから「人」の上にある存在「天」が強調され続け、この「天」は全ての「人」に宿命を与えるものとされていました。この宿命は「天命」とも呼ばれますが、「天命」に逆らった人には「天罰」、「天命」に従い善行を続ける者には「天恵」を与えるなど、それぞれの行いによって裁きを下す一面も持っていたりします。この「天」が「人」の世界を治めるべき、そして人々の徳を喚起するために遣わした唯一の存在が「天子」とされています。

「天」は場合によって「天帝」という言葉に置き換えられますが、要するにキリスト教でのゼウスやイスラム教でのアッラーなど、一神教における神とほぼ同じ扱いだったりします。またキリスト教では神の子としてキリストが、イスラム教では神の使徒としてムハンマドがそれぞれ教えを伝える役割を担っているのと同様に、儒教世界では「天帝」の子である「天子」が教化の役割を持っている訳です。

「天子」という概念がキリスト教やイスラム教と大きく異なっている点は、「指導者が交代する可能性を含んでいる」ことでしょう。キリストやムハンマドは1代限りで終わりと言えば終わりですが、「天子」は血筋によって代々受け継がれていくという特徴があります。また「天子の一族が徳を失った場合には、天命を受けた新たな一族が現れる」という設定になっているため、例え政権交代があったとしても「天子」の役割は次に引き継がれていくことになります。なんとなく都合が良すぎる設定な気がしないでもないですが、この設定があったことで王朝をまたがって「天子」が存在できたとも言えます。

天子の成り立ちとその後

紀元前1,000年頃に成立した古代中国・周王朝の時代、周公旦という人物が最初に「天子」を名乗りました。その後周王朝の王は歴代「天子」を名乗り続けていますが、春秋戦国時代の混乱期には勝手に「天子」を名乗った王もチラホラ見られます。その後秦王によって中国が統一されると、自らを中国神話に登場する神々「三皇五帝」に等しい存在であるとして「皇帝」の称号を用い始め、始めての皇帝ということで「始皇帝」を名乗りました。ですがこの「始皇帝」は儒教に対して弾圧の姿勢をとっており、また天帝の「子供」という神より一段下がった称号を嫌ったため、「天子」という呼称を用いることはありませんでした。

後に秦が倒れて「漢」が興ると、前王朝である秦への反発心からか、国家まるごと儒教一色になっています。そして漢王朝も「皇帝」という呼称を用いたため、「天子」の呼称は使わないかと思いきや、ここで「皇帝=天子」という謎のドッキングが発生しました。これ以降は歴代王朝の皇帝達も「天子」を名乗り続け、これは日本が近代に入った時期の清王朝まで2000年もの間続いています。

聖徳太子が始めてしまった天皇=天子の概念

日本は儒教を部分的に取り入れてはいますがガチガチの儒教国家ではなく、また日本古来の神々に天帝は含まれないため、当然本来の意味での「天子」などいる訳がありません。そもそも「天子」はいかなる時も一人しかいない設定のため、中国大陸に「天子」がいれば他所には絶対にいないことになります。

ところが日本では天皇を指して「天子」と表記している事例がかなり多く、このことは推古天皇の摂政・聖徳太子が送った随皇帝・煬帝への国書に由来しています。

日出ずる国の天子、日没する処の天子に書をいたす

この引用文は「日が出る側の天子が日が沈む側の天子に手紙を書いてます」くらいの意味になりますが、この文中では明らかに「天子」が2人存在していますよね。このことは「天子」という言葉の意味と重みを知っている当時の中国人からすれば、あり得ない挨拶文であり無礼すぎる内容だった訳です。

遣隋使を含む聖徳太子のお仕事についてはこちらからどうぞ。

この文を読み上げた「天子」本人である煬帝さんはもちろん大激怒、遣唐使としてはるばる海を越えた小野妹子はほうほうの体で帰国しました。ところが日本への返書は途中で盗賊に奪われてしまったとのことで、煬帝さんの怒りは日本に届かずじまいとなってしまいました。これ以後日本国内での公式文書にも天皇を指して「天子」というワードがしばしば使われていますが、幸い海の向こうである中国にバレなければ済む話であるため、結局そのまま使用され続けたようです。平安京を中国の大都市・洛陽になぞらえて、京都へ向かうことをわざわざ「上洛」といった言葉で表現したりと、中国への憧れの強さが伺えるエピソードでもありますね。

ミスっても涼しい顔の聖徳太子さん
間違えても割と涼しい顔の聖徳太子さん

天子の徳を示した冊封体制

世界規模で見ても歴代の中国王朝はいつでも超大国ですが、アジア圏に限定すれば同等の国などまず存在しないレベルの圧倒的存在です。そのためアジア各国にとっては中国王朝との付き合いは最優先事項であり、逆に攻撃を受けるとなればほぼ滅亡確定の絶望的な状況となります。そんな中小の国々は国内問題が片付けばひとまず中国との友好を図るのが定番でしたが、歴代の「天子」は高圧的な態度で臨むことはなく、むしろ寛容な態度で友好の使者を受け入れていました。もちろんこの友好は対等ではなく従属関係ではありましたが、攻撃を加えれば大半の国は消し飛んでしまう国力差を考えれば、ゴリゴリの上から目線を出していても不思議ではありません。この中国王朝がとっていた体制は「冊封体制」と呼ばれ、歴代の「天子」達は来る者を拒まずの姿勢を取り続けていました。

このことは「天子」が持つ「徳」で近隣諸国を教化するという、儒教的発想に基づいています。そのためかアジア圏では意外な程に儒教精神が根付いており、日本でも「目上の人を敬おう」みたいな儒教の教えは常識レベルにまで浸透していますよね。

また「天子」は前述の通り「交代」の可能性を含んでいるため、歴代の皇帝達は政権を維持するために自身に「徳」があることを周囲に見せつけ続ける必要がありました。そのため近隣諸国に対して施しに近い関係を結ぶことで、外国だけでなく国内に向けても自身の「徳」をアピールしていたという訳です。そういった発想から「冊封体制」が生まれているため、従属している国々には何年かに一度貢物を持って中国に向かう義務がありましたが、帰りには貢物以上の価値を持つ豪華すぎる返礼が贈られていました。つまり「冊封体制」に入った国は中国に守ってもらえる上にかなり儲かるという、全面的においしすぎるボーナスゲーム状態だったりします。

ちなみに上の見出しでご紹介した聖徳太子の「日出ずる国~~」の国書では、「天子」の概念を完全に無視しただけでなく、多くの冊封国を抱える中国と対等の関係を結ぼうとしていた訳です。情報が圧倒的に少ない古代の時代ということで、聖徳太子がその辺の事情をどこまで把握していたかはわかりませんが、全てを知った上でやっていたとすれば信じられないほどの強心臓ですよね。

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