琉球王国を作った男〜尚巴志の物語〜

首里城正面の写真 琉球の人物録

琉球王国の祖・尚巴志

存在だけは薄っすら知っている「琉球王国」

皆さんは、「琉球王国」という現在の沖縄県にあった国はご存知でしょうか。割とマイナーなようで意外と知っている人も多く、筆者の知人でも「それ聞いたことある!」なんて言う人も結構いたりします。とは言え「琉球王国」が存在していたことは知っていても、成立するまでの過程について知っている知人は一人としていませんでした。

実は筆者自身もキチンと調べるまで全然知らなかったのですが、調べていくうちに琉球史独特のテンポ、そしてちょっと神秘的な物語に引き込まれてしまいました。今回の記事ではこの「琉球王国」ができるまで、初代王の「尚巴志(しょうはし)」が国を作り上げていく場面をご紹介したいと思います。

尚巴志が生まれた時代は「三山時代」

尚巴志が琉球王国が立ち上げる前の沖縄は、三人の王がそれぞれ領土拡張に勤しむ「三山時代」と呼ばれる時代です。要するに日本本土で言うところの戦国時代だった訳で、そんな中で琉球統一を果たした人物こそが尚巴志となります。ちなみに中世の琉球では国号、つまり国の名前に「山」が用いられており、「◯山」という国が3つ並び立っていたから「三山時代」と呼ばれています。

尚巴志は三山のひとつ「中山」と呼ばれる国に生まれていますが、裕福な王族として人生のスタートをきった訳ではありません。この尚巴志の物語は琉球の成り上がりストーリーに欠かせない、「子供の頃から才能がありそう」「でも頑張り屋な苦労人」、といったところから始まります。それでは尚巴志の子供時代から見ていきましょう。

尚巴志の中山王への道のり

才能溢れる青年・尚巴志

尚巴志は、1372年、南山王国内の佐敷の按司(あじ/地方豪族の首長の呼び名)である尚思紹(しょうししょう)の長男として生まれました。巴志は、生まれつき身体が小さかったのですが、とても賢くやると決めたことは最後まで貫き通す意志の強い子供だったと言います。巴志は、青年期からその才能を余すことなく発揮していた逸話がいくつもあり、中でも剣の逸話が有名になっています。

尚巴志は幼少期、鍛冶屋に命じ3年がかりで作らせた剣を持っていました。その剣を、与那原(よなばる/沖縄本島南部にある港町)に来ていた大和(やまと/沖縄で日本本土を指す言葉)商人が買い求めます。すると、巴志は船一杯の鉄塊とその剣を交換し、その鉄塊を農民に分け与え、農具を作らせたと言います。そのことに感動した領民は彼を敬うようになったと言います。

佐敷ようどれの写真
尚巴志の父・尚思紹と家族が祀られる「佐敷ようどれ」

また、尚巴志は二期作を導入した、もしくは推進したのではないかと言われています。当時の農業技術としては最新であった二期作と鉄製農具の使用により、他の豪族と比べ大きく国力を高めた可能性があるのです。

こうして領民から敬われ、国力を高めることに成功した巴志は31歳の若さで、父・思紹の後を継いで佐敷按司になります。ここから、尚巴志の琉球統一の道が始まることになります。

領内統治から始まった琉球統一事業

琉球の統一を夢見る巴志は、拠点としていた佐敷城付近の港である馬天(ばてん)港や与那原(よなばる)港を利用し、交易を盛んに行って財力を蓄え、軍備を整えていきました。

巴志が佐敷按司になった頃、中山王には察度王統(三山時代の前に沖縄に存在した王族。察度王とその息子武寧王の2代56年続いた)の血を継ぐ武寧でした。武寧は明から冊封使を迎え入れ、明と政治的な繋がりを強めるなど外交的な手腕はなかなかのものでしたが、傲慢な性格と酒乱で政治をないがしろにしていたとされ、領民や各地の按司たちからの人望は無かったと言われています。

領民から慕われ、力も蓄えつつあった尚巴志は、いよいよ琉球統一へ向けて動き出しました。その手始めとして、1402年、勝連(かつれん/沖縄県中部、うるま市の一部)、中城(なかぐすく/沖縄県中部の村)、首里(しゅり/沖縄県那覇市の地域)の動向が一望できる島添大里城(しましいおおざとじょう)を攻め落とします。この城は、本城が首里城に移転した後も離宮として使用されたほど規模の大きい城でした。ここを拠点として、巴志の琉球統一事業が進められていきます。

察度王統の中山王を討つ

1406年、佐敷、島添大里の両城を得て大いに力をつけた巴志は、いよいよ人心の離れてしまった察度王統を倒すために軍を動かします。この頃には按司たちの心も武寧からは離れてしまっていたと思われます。按司たちは、南山に拠点を持つ巴志の軍勢の通行を止めることも、武寧からの出陣要請にも応じることはありませんでした。

こうして尚巴志は戦わずして武寧を降伏させ、察度王統を滅ぼしました。そして、父・思紹を新たな中山王に即位させると、翌年、明からの使者を受け入れて正式に王位を継がせました。これが琉球王国の王統である、第一尚氏王統(琉球王国には第一尚氏王統、第二尚氏王統がある)の始まりとなりました。

尚巴志の琉球統一

勇猛な北山王・攀安知(はんあんち/はねじ)

巴志が察度王統の中山王・武寧を倒した頃、北山には羽地(はねじ)王統の王である攀安知が、今帰仁(なきじん/沖縄県北部の村)城を拠点に活動していました。攀安知は、勇猛な将として知られており、奄美に遠征してその支配下に置く活躍を見せていたほどでした。ですが、攀安知は粗野で暴力的な王で、部下からの信頼は厚くなかったと伝わっています。

そんな攀安知が治める北山の地にも中山を攻め滅ぼし、日の出の勢いとなった尚親子の名が轟いてきました。そこで、北山の中でも剛勇で知られる本部平原(もとぶていばら)と言う人物が「中山を討つべし」と攀安知に進言し、今帰仁城に兵馬を集め、中山討伐の気勢を上げました。しかし、日頃から攀安知に不満を抱いていた羽地(攀安知と同じ血筋と推測されている)・国頭(くにがみ/沖縄県北部の村)・名護(なご/沖縄県北部の都市)の諸按司たちは、挙兵を中山王である思紹へ伝えます。機先を制しようと、巴志を大将として中山の軍勢と北山諸按司の連合軍が今帰仁城へと攻め寄せました。しかし、天然の要害である今帰仁城を攻めあぐね、なかなか落とすことが出来ませんでした。

そこで、巴志は一計を案じます。剛勇で知られていた本部平原は、強欲なことでも有名だったため、巴志は彼に賄賂を送ったのです。案の定、本部平原は攀安知を裏切り、攀安知が表の敵を討っている隙に城内に火を放ったのです。その様子を見て攀安知は怒り狂って馬首を返すと、裏切り者である本部平原を宝刀・千代金丸(ちよがねまる)で一刀のもとに切り伏せました。そして、そのまま城の守護神であったカナヒヤブの霊石を斬りつけました。代々北山王として君臨してきた羽地王統の王として、その王統を自分の代で終わらせてしまうという悔しさや、なぜ守ってくれなかったのかという悲しみが噴出したのかもしれません。しかし、その霊石は宝刀をもってしても斬ることは出来ず、攀安知は城壁の外を流れる志慶真(しじま)川へ向かうと、宝刀を投げ捨て、別の刀で自害して果てたのです。宝刀・千代金丸は、その後に拾い上げられ尚氏の宝刀として大切に保管されることになります。

こうして、1416年、巴志は中山に続いて北山をも滅ぼし、琉球の大部分を手にすることになったのです。琉球統一という夢を叶えるのに、残すは南山ただ一つとなりました。

琉球統一の夢を果たした尚巴志

首里城からの海と町並み
尚巴志もここから町並みと海を眺めたのでしょうか

巴志が北山を攻め滅ぼす2年前、南山は大いに乱れていました。クーデターによって王位を奪った達勃期(たふち)が、南山の按司連合によって攻め滅ぼされてしまったのです。按司たちは先先代の国王の息子であるという理由だけで、他魯毎(たるみい)という男を王座に就けてしまいます。

こうして王に担ぎ上げられた他魯毎は、毎日酒宴を開くなど贅沢な生活を送り、部下の忠告に耳を貸さない、政治に無関心な王として記録が残されています。

このような王から領民や部下の心が離れていき、巴志に南山攻略の足掛かりを与えてしまうエピソードが残されています。

贅沢な暮らしを送るだけは飽き足らないほど強欲だった他魯毎は、巴志が所有する眩いばかりに輝く金屏風が欲しくてたまりませんでした。他魯毎は我慢が出来ず、巴志に対し金屏風が欲しい旨を伝えると、巴志は「嘉手志(かでし)川を貰えるなら、金屏をあげましょう」と答えたのです。他魯毎は喜んで巴志に嘉手志川を差し出し、どうしても欲しかった金屏風を手に入れました。しかし、この嘉手志川は南山城のそばを流れ、周辺住民の農水路として使われていた川でした。嘉手志川を手に入れた巴志は、南山の人間がこの川を利用することを禁じてしまいます。この怒りの矛先は、愚かなことをした他魯毎に向かうことになります。

この事態を受けて、按司たちは余りの愚かさに呆れ果て、出仕を拒むようになります。他魯毎は領民ばかりでなく、自分を王に推挙してくれたはずの按司たちからも嫌われてしまうのです。

出仕を拒む按司たちに怒った他魯毎は、討伐のための軍を起こします。それを知った按司たちは、なんと中山王である巴志へ援軍を求めました。これを好機と見た巴志は、軍を率いて南山に攻め込みます。ところが、領民たちは中山の軍が侵入してきたにもかかわらず喜んで迎え入れたのです。

こうして、あっさりと中山の軍勢の侵入を許した南山の軍は勝てるはずもなく、簡単に破れ去りました。時に1429年、巴志は遂に中山、北山、南山を制し、琉球の統一を果たしたのです。

その後、尚巴志は察度が建造していた首里の城を改築し、そのまんまのネーミングとなる「首里城」を築き上げました。そして主な経済活動として貿易に力を入れ始め、那覇港を建設し中継貿易の拠点として栄えることになります。この尚巴志が立ち上げた王統、つまり血縁による琉球王の系譜は第一尚氏王統と呼ばれ、後に尚円金丸が立ち上げる第二尚氏王統とは区別されています。

琉球王国を立ち上げた男「尚巴志」のまとめ

いかがだったでしょうか。琉球王国成立以前は、日本の戦国時代と同じように各地で按司と呼ばれる豪族たちが力を競いあっていたのです。琉球王国建国の話はここまでとしますが、この後も琉球王国の歴史にはまだまだ面白い話があります。そのお話は、また別の機会にさせていただきたいと思います。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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参考サイト様

第3章 尚巴志とは誰か?の整理

https://www.city.nanjo.okinawa.jp/sp/user files/files/kanko_bunka/375/03.pdf

那覇港湾・空港整備事務局 港の歴史

http://www.dc.ogb.go.jp/nahakou/rekishi/01_2.html

文化遺産オンライン 島添大里城跡 しましーおおざとじょうあと

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/174434

史跡夜話 今帰仁城

http://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/okinawa/nakijin.j/nakijin.j.html

マルキヨ製菓 上に立つ者に必要なもの

https://www.marukiyo.jp/blog/person/person_r/2109/

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