明智光秀が謀反を起こした理由は謎のまま
天下統一まであと一歩の織田信長を明智光秀が討ち取った理由については、研究が進んだ現代においても謎のままとなっています。しばしば理由とされる怨恨説についても実は根拠なんて全くなく、どちらかと言えば創作の域を出ない不確かな説でしかありません。唯一確実にわかっていることは「明智光秀が織田信長を討ち取った」という事実だけであり、事件を起こした光秀の心情や背景については不明のままです。
本能寺の変が日本の状況を引っくり返した歴史的な大事件であるにも関わらず、事件が起きた理由が不明という不思議な事実は当時から多くの人の関心を引き寄せ、時には創作のテーマとなり様々な物語を生み出してきました。今回の記事のエピソードは後世の創作の可能性も大いにあるのですが、通説としてあるものをいくつか考察しながらご紹介したいと思います。
明智光秀の恨み節・怨恨説
徳川家康を饗応している際に叱責され解任
先の徳川家康の饗応の際に責任者に任命されていた明智光秀が不手際から信長に解任され、恨んだことで本能寺の変に繋がった、といった説があります。料理に使うための魚から腐臭がしており、それを嗅ぎつけた織田信長が苛烈に追求し、怒りながらその場で解任したというエピソードですね。これを恨みに思った光秀が凶行に及んだ、という筋書きです。
この一連のストーリーは「川角太閤記」という豊臣秀吉の伝記にもっともらしく記載されており、江戸時代や明治時代には「史実」と考えられていました。ですが他の資料には普通に饗応役を勤め上げたと記録されており、解任されたことだけでなく信長の強烈な叱責についても見当たりません。この「川角太閤記」という本は豊臣家の正当性を補完するために作られているため、「信長キレる→光秀もキレる→秀吉が解決!」という流れを作るための創作と考えられます。
そもそも「川角太閤記」の話が事実であれば、接待の責任者となっていた光秀が強烈な魚の臭いに気づかなかったわけもなく、また実際に魚を買い付けた人としてもわざわざ腐りかけの魚を買う訳もないですよね。というわけで、なんとなく有名な話ではありますが、やはりありえないかなという結論です。
本能寺の変・本編はこちらからどうぞ。
領地を取り上げられて恨んだ説
住み慣れた近江と丹波を奪われた遺恨か
「明智軍記」という本の中では、明智光秀が中国地方への出陣命令を受けた後に近江坂本城で支度をしていると、織田信長からの使者が追いつき、光秀の領地である近江国と丹波国を引き渡すよう通達されます。
その代替地として出雲国・石見国を渡すという通達も受けるのですが、この2国はまだ毛利家の領土であるため、事実上ただ単に取り上げることになります。長年織田家に尽くしてきたのにこの仕打ちは許せない、ということで謀反に至ったという筋書きですね。
配置換えはむしろ栄転だった可能性
この内容が記載されているのは「明智軍記」という本なのですが、そもそもこの本は本能寺の変から100年後に作られています。本のタイトルに「軍記」といういかにも歴史的に重々しい雰囲気の言葉が使われていますが、この本は立派な小説であり、要するにフィクション作品でしかありません。情報が少なかった江戸時代にはこの本も立派な根拠とされていたのですが、現代に入ってキチンと調べてみると光秀の領地替えに関する他の資料は一切なく、全て創作であったという結論が出ています。
また領地替えが事実であったとすれば、出雲国と石見国の2国は左遷にあたるような土地ではなく、むしろ栄転とも取れる経済的に豊かな土地でもあります。出雲国には出雲大社があるため多くの人が参拝のために訪れる地であり、また石見国には石見銀山がある経済的に豊かな土地です。特に石見銀山は1533年に灰吹法が伝来してから産出量が激増し、日本で産出される銀の大部分を占めていたため、もし石見国に領地替えされたのであれば金のなる木を手にしたも同然です。というわけで、もし領地替えが事実だったとしても、恨むような話でもないかなという結論です。
世界有数の銀産出量を誇った石見銀山についてはこちらからどうぞ。
我こそが天下人!明智光秀の野望説
本来明智光秀は天下人となる野心があり、本能寺の変は自身の意志によって引き起こしたという説もあります。織田政権のナンバー2では物足りず、また他人から見ればかなり傲慢だった織田信長を討ち取ることで、光秀自身の手で思い描いた日本を創るという壮大な野望のための第一歩、という筋書きですね。
この野望説は、光秀の明晰な頭脳や気持ち的には充分すぎる程信憑性があるのではないでしょうか。自身の野心に従って「下剋上」を起こすことは戦国時代においては多くの例があり、また成功事例も数多くあります。なにがしかの怨恨説に加えた野望説というストーリーも簡単に考えつく、ちょっと「ありえる話」ではないかと思います。
ですが光秀が信長を討ち取った後は細川藤孝などの血縁関係もある親密な大名すら味方にできず、明智家だけで羽柴秀吉と戦い、そして敗れています。信長を討ち取った後に京都を制圧していた光秀は味方集めに奔走しますが、かなり身分の低い人にまで協力を断られたという悲しい記録が残っています。周囲目線での光秀はあくまでただの「謀反人」であり、信長に代わる「天下人」として見た人など誰一人としていなかったでしょう。また他の織田家家臣に前もって根回しをした形跡も全くないため、長く考え抜いた計画ではなく突発的な行動である気がします。頭脳明晰な光秀が計画的な行動でこういった状況に陥るとは到底考えられず、従って野望説もなさそうという結論です。
実は明智光秀の背後には・・・黒幕説存在説
最後の室町将軍・足利義昭が黒幕説
室町幕府の15代将軍・足利義昭は織田信長に京都を追い出され、200年も続いた室町幕府を滅亡させてしまった人物でもあります。その足利義昭が室町将軍の権力を取り戻すために明智光秀に信長暗殺を命令、明智光秀はその通りに実行しただけ、という筋書きの説ですね。光秀は元々室町幕府直属の家臣であるため、足利義昭の命令に従ってもそんなに不思議はない人物であることも確かです。
足利義昭の京都追放劇はこちらからどうぞ。
義昭が本能寺の変後しばらくして毛利家の家臣に宛てた手紙で、いかにも自身が首謀者であるかのように書き綴っていることが足利義昭黒幕説の大きな根拠となっています。この手紙以外にも毛利輝元や毛利家一門・小早川隆景に対して京都へ軍を向けることを要請しており、一見すると足利義昭が全て画策したかのように見えたりもします。
ですが光秀を討つために「中国大返し」をした羽柴秀吉を小早川隆景は普通に見送っており、背後から追撃するといったことは一切していません。「中国大返し」があまりのスピードで進軍したため追いつかなかったのではなく、そもそも小早川隆景は備中高松城が落城してからすぐに兵を引き上げています。もし毛利家と足利義昭が裏で糸を引いていたとしたら、むしろ秀吉を追撃して光秀との挟み撃ちを考えるでしょう。
また光秀と旧知の間柄である織田家家臣・細川藤孝とのやり取りについても、ちょっと腑に落ちない点があります。細川藤孝も元は幕臣という立場から織田家家臣になっており、共に長く足利義昭に仕えた仲でもあります。ですが光秀が細川藤孝を味方につけようとした手紙では、一言たりとも足利義昭について触れていません。過去に2人して仕えていた旧主の命令で信長に謀反したのであれば、義昭の名前を出すのは当然のことではないでしょうか。信長がいなくなった段階で足利義昭の名前を隠す必要が全くなく、触れていないのはあまりに不自然ということで、足利義昭黒幕説もありえないという結論となっています。
結局一番おいしい思いをした羽柴秀吉が黒幕説
本能寺の変が起きたことで結果的に得をした人といえば、後に天下統一を果たし豊臣姓を名乗る羽柴秀吉でしょう。犯罪推理のセオリーである「もっとも利益を得た者を疑え」に当てはめてみれば、容疑者リストのトップは秀吉ということになります。ついでに謀反を起こした明智光秀自身は全く得なことなどなかったため、むしろ詐欺被害に遭った人ということになります。また「中国大返し」のあまりの見事なスピードに、準備していたか事前に移動を始めていたのでは?という疑念すら湧いてしまいます。さらに元々順調に進んでいたはずの毛利家との戦場に、わざわざ援軍を呼ぶ必要があったのかという疑問も重なり、羽柴秀吉黒幕説が成り立っています。
謀反人である光秀を倒し、後に織田家の乗っ取りに成功した秀吉の「得」の大きさも相まって、この秀吉黒幕説はかなり信憑性が高い気がしてしまいます。光秀をそそのかして織田信長を討ち取らせ、その上で「正義の味方」ヅラをして光秀を討ち取るという、秀吉にとって旨味しかない筋書きが上手くいったとも考えられます。
ですが秀吉と戦うことになった光秀が、なぜ誰にも黒幕の存在を伝えなかったのか、という点でちょっと無理があります。秀吉が謀反人である光秀を打倒するため「中国大返し」と呼ばれる異常なスピードでの移動にも、なんだかんだで5日間もの日数を使っています。自分自身を攻撃するために移動する秀吉に対して、光秀は誰にも黒幕の存在を伝えずただ愚直に味方集めに奔走しています。もし秀吉が黒幕であるとすれば、結託していたはずの秀吉が自分を攻撃しようとしていることを知れば、光秀とて他の武将を味方につけるために真相を打ち明けるでしょう。秀吉が黒幕であることを伝えたという記録が一つたりとも存在しないということは、そうではなかったと結論付けるには充分な気がします。光秀はかなり下級の武士にまで味方につけるために声を掛けていますが、その上で噂の一つも出なかったというのはあり得ないでしょう。という訳で秀吉の黒幕説はなさそう、という結論です。
最後の最後においしい思いをした徳川家康が黒幕説
妻や子を織田信長によって失うことになった徳川家康が、復讐のために光秀をけしかけたという説です。また織田家にとって武田家を抑えるための役割を担っていた家康でしたが、甲州征伐が済んだことで不要となり、信長に暗殺されることを恐れて先手を打ったという説もあります。これらの説に江戸時代初期に家康のブレーンとして活躍した謎の僧侶・南光坊天海という人物の存在が加わり、家康黒幕説と同時に「南光坊天海=明智光秀」という壮大なストーリーまで作られています。
甲州征伐が済んだ後には織田家や徳川家の中で信長による家康暗殺の噂が、結構真剣に取沙汰されていたようで、ルイス・フロイスの「日本史」にも記述がある程です。しかも柴秀吉黒幕説と同様に、「もっとも利益を得た者を疑え」理論を当てはめると、家康は容疑者リストの上位に挙がります。
ルイス・フロイスについての記事はこちらからどうぞ。
甲州征伐についてはこちらからどうぞ。
ですがこの家康が黒幕であるという説には一切の根拠がなく、光秀が家康の言いなりになって信長を討ち取る理由が見当たりません。家康が光秀の将来を約束していたために本能寺の変を起こした、という説もなくもないのですが、当時の徳川家は地方の大きめの一大名でしかなく、日本全土を統治する江戸幕府の成立なんて夢のまた夢です。そのため天下統一を目前にした織田家の中で確固たる地位を築いていた光秀にとって、家康からの謀反の誘いに乗るメリットがなかったように思われます。この説はフィクションとしては非常に面白いのですが、やっぱりないかな、という結論です。
「南光坊天海=明智光秀」という話には結構それっぽいエピソードが多いため、また別記事にてご紹介したいと思います。
本能寺の変の真相は結局わからない
ご紹介した説以外にも天皇や皇族を主犯格とする朝廷黒幕説や、織田信長が神になろうとしたために宣教師に見捨てられ画策されたとするイエズス会黒幕説など、たくさんの学者によって様々な説が提唱されています。特にイエズス会は後に長崎をキリスト教都市として「占領」するという事件も引き起こしており、「キリスト教の浸透=植民地化」を国の方針としていたポルトガルが絡む壮大なスケールの話となっています。
どの説にもそれっぽい理由付けがありはするのですが、違う、とハッキリ言えてしまう否定材料が存在しています。これからも数多くの説や創作が作られることになるでしょうが、真実は日本史の闇の中に融け込んでおり、今後余程大きな発見がない限り明智光秀の真意は謎のままとなるでしょう。
ちなみに、明智光秀が山崎の合戦後も生き抜き、南光坊天海として活躍した同一人物説はこちらから。
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