日本近世・江戸時代の貨幣事情

小判と古銭の写真 その他考察

豊臣政権までの貨幣制度

地味に日本の貨幣制度を変革していた「灰吹法」

戦国時代までの日本経済における貨幣は銅銭が主流となっており、金や銀はほとんど貨幣の素材として使用されていません。その理由は単純に金や銀の精錬技術がなかったからなのですが、1530年代に中国地方に「灰吹法(はいふきほう)」が伝わると、この精錬技術は瞬く間に全国的に普及しました。純銀・純金を精製する技術があるということは純度のコントロールもできる訳で、これによってようやく金貨・銀貨の国内生産がスタートしています。

「灰吹法」が伝えられた石見銀山についてはこちらからどうぞ。

近世貨幣制度のベースとなった織田信長の「三貨制度」

そして時は下って戦国時代末期、京都の強奪に成功した織田信長は、銅銭に加えて金貨・銀貨を貨幣とする「三貨制度」を使用し始めました。この制度は流通している貨幣の量と価値を増やすのが目的だったのですが、裏を返せばこれ以前の日本は圧倒的に貨幣不足、しかも銅銭ばかりが流通していたため高額な品物の売買が非常に困難でした。例えば「鉄砲一挺=銅銭5万枚」とすれば重さにして200kgくらいになるのですが、こんな重さのお金を持ち歩くこと自体があり得ないですよね。

ということで「三貨制度」は一気に普及し、金貨や銀貨といった高額貨幣によって活発な商取引が行われるようになりました。まあ実際は灰吹法伝来以降は全国的に独自の金貨・銀貨が鋳造されていたようですが、中央政権による統一された貨幣制度という点で「三貨制度」は日本経済に大きな影響を与えたと言えるでしょう。そして本能寺の変を経て天下人となった豊臣秀吉も同じ制度を踏襲していますが、彼のいきすぎた派手好きは謎の貨幣を生み出すに至っています。

鎌倉時代頃の通貨事情や織田信長の貨幣制度についてはこちらからどうぞ。

「天正大判」という使い所のない謎貨幣

天正大判の写真
天正大判は縦17㎝のビッグサイズ

豊臣秀吉は天正大判というド派手な金の大判も発行したのですが、こちらはあくまで褒賞専用の見せびらかしアイテムだったらしく、一般的な通貨として全然出回らなかったようです。一般の流通向けには天正通宝を発行し国内通貨の統一をも図りましたが、豊臣政権は十数年という短い間しか存続しなかったため、天正通宝は地方にまで浸透する間もなく発行を終えています。そして関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が江戸幕府を樹立し、日本は通貨の面でも新たな時代を迎えます。

関ヶ原の戦いについてはこちらからどうぞ。

江戸期の貨幣制度

徳川家康も豊臣政権の貨幣制度を流用

徳川家康が関ケ原の戦いに勝利し江戸幕府が成立していますが、貨幣制度は相変わらず変わることなく豊臣政権と同様の三貨制度が継続されています。もちろん江戸時代は270年にも渡って続き、またその間に大量の金銀が採掘されているため、江戸幕府によって多くの貨幣が鋳造されました。とは言え貨幣に希少な金属を用いる点は全く変わっていないため、素材となる金・銀・銅の不足に合わせて貨幣不足が慢性的に続いたこともまた事実です。それでは江戸時代の貨幣の種類からご紹介したいと思います。

江戸時代の貨幣の種類と一枚あたりの価値

偽造に非常に気を使う「小判」

慶長小判の写真
慶長小判・横線だらけです

我々日本人のDNAに刻み込まれてしまっているのか、時代劇で小判が大量に出てくるだけでちょっと気分がウキウキしたりしますよね(筆者だけかもしれませんが)。ですが小判は一枚で大変な価値を持つ貨幣ということで、江戸時代以前から数々の偽造事件を巻き起こしてきました。そういった経緯もあり、金メッキの偽造品ではないことを明らかにするため、小判の表面には必ず大量の横線が刻まれるようになりました。時代劇でたまに小判の端っこを噛んでいる人がいますが、これは噛んだ所から別の金属が顔を出していないかを確認する行為だったりします。

小判は一枚が一両という「計数貨幣」ではありますが、庶民の手にはまず渡らない大変高価な貨幣でした。現代のお米の価格と当時のお米の価格を基準とすると、一両が現代日本の約13万円となるそうなのですが、実際にはその数倍の価値があったものと思われます。このページ下部の見出し、「時代ごとの両替相場と物価」で物価や両替相場をご紹介しておりますので、よかったらそちらも御覧ください。

銀貨は主に秤量貨幣

丁銀の写真
丁銀
豆板銀
豆板銀

金は小判1枚が「1両」というスッキリとした単位がありますが、江戸時代の銀は「秤量貨幣」であり、商品売買の際にその都度秤で重さを計り、「銀が◯◯匁」といちいち確認して取引されていました。江戸時代の後期には計らずに数えるだけで使える銀の計数貨幣がようやく作られ始め、8枚で一両の価値となる「2朱銀」も流通していたようです。ですが丁銀や豆板銀といった秤を使う前提の貨幣も並行して同時に流通しており、計って使用する場合には「匁(もんめ、3,75グラム)」という単位が用いられています。

庶民から大商人にまで親しまれた銅銭

寛永通宝の写真
江戸時代を通じて最もポピュラーな寛永通宝

江戸時代以前からごく当たり前に流通していた一文銭は、江戸時代に入っても同様の価値を保ち続けています。小判や銀貨に馴染みがない庶民にとってお金とは銅銭のことであり、庶民から商人まで日常生活には欠かせない最も基本的な貨幣でした。

かつての日本は銅銭を宋や明といった中国との貿易を通して手に入れていましたが、江戸時代初期の寛永通宝が製造されたあたりから、逆に銅銭で他国の品物を買い付けるという銅銭輸出国に転じています。ですがやっぱり銅の国内産出量は多くなかったため、結局国内の一文銭が不足してしまい、江戸幕府は別の対応を強いられることになります。

一文銭の不足に伴って「鉄銭」も製造

特に民衆が持つ機会が多く、また最も流通している「銅貨」の不足は深刻だったようで、江戸幕府はたびたび対応に苦慮しています。銅は金や銀に比べて産出量が多かったのですが、貨幣だけでなく建築物や調度品に用いられる機会も多く、またオランダとの貿易の支払いに使用されていたため海外流出も激しかったようです。銅銭はそもそも宋や明など中国から輸入してきたという経緯がありますが、鎖国した日本は貿易をむしろ制限していたため、銅銭不足は当然解消するわけもなくむしろ慢性化していました。

輸入できないなら自前で作ればいいじゃないか、というのも素材が十分にあればの話であり、銅も不足している状態ではそんなこともできません。ですが江戸幕府はここで発想を逆転し、銅ではなく「鉄」を素材として一文銭を作るという荒業を敢行しています。

寛永年間(西暦1620年頃)に鋳造が始まった寛永通宝という通貨は、当初は銅を素材として一文銭を製造していました。ですがあっという間に銅の不足に陥ってしまい、代替用の素材として鉄が用いられています。また鉄だけでなく銅も合金にして量を増やすという手段が採られ、真鍮(銅と鉛の合金)の一文銭まで製造されています。ちなみに江戸時代前期に鋳造された寛永通宝の鉄一文銭は、60億枚という膨大な量が作られています。

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一文ではない銭貨も登場

たまにはちょっと夫婦で温泉旅行にでも行こうかな、なんて平和な時代ならではの庶民の楽しみ方もあったでしょう。例えばですが3泊4日の旅行に行くとして、宿代が100文・1食の食費が30文だったとします。すると宿泊費と食費だけで1000文を越える金額となりますが、余裕を持って遊ぼうとするなら2000文が最低限といったところでしょうか。ですが一枚が一匁(もんめ・1匁が3.75グラム)の重さを持つ一文銭を2000枚持って出るとすれば、75キロという凄まじい重量となってしまいます。

4文銭の写真
4文銭は裏に模様があります
百文銭の写真
百文銭は俵型に

こんな悩みを解決するためなのかはわかりませんが、江戸時代の後期・天保年間には一文銭の上位版が作られています。ちょっと模様が違うだけの4文銭や、ちょっと小判を意識した形の百文銭も発行されており、これら「天保通宝」によってようやく少しだけ高額な銭貨が登場しています。ですがこの天保通宝が製造されたことで「1文」あたりの価値が下がってしまい、ちょっとしたインフレ現象を起こしてもいます。

江戸と大阪の通貨価値のズレ

江戸の金遣い・上方の銀遣い

物流が凄まじく進歩した現代においても、やはり土地や地産の品物の価格には地域差がありますが、江戸時代の頃は「お金の価値そのものが違う」という謎現象が起きています。江戸は当時も今も日本最大の都市ではありますが、本格的な開発の手が入ったのは徳川家康が関東に移封されてからであり、当時としてはかなり新しい新興都市となっていました。そして江戸幕府が成立すると幕府直轄地での金採掘量が急上昇し、大量の金鉱石が流入したため江戸の街は「金」を使った取引が根付いています。

これに対して大阪や京都といった、いわゆる平安時代の頃から日本の中心とされていた地域では、「銀」を支払いに使う大口取引が浸透していました。もともと金よりも銀の流通量の方が段違いに多いため、特に頻繁に商取引が行われる大阪では大口でも細かな取引もできる銀の方が便利だったのでしょう。江戸から見て天皇がいる京都方面を意味する「上方(かみがた)」という単語は主に大阪の街を意味し、主な流通貨幣の違いから「江戸の金遣い・上方の銀遣い」なんて言葉も生まれています。

秤の写真

混ぜ物を入れて流通量を増加させるもインフレ発生

経済の発展に伴って高まる貨幣の需要に、絶対的な流通量の不足が続いたため、江戸幕府は貨幣に混ぜ物を入れるという手段で対応しました。金の貨幣には銀を、銀の貨幣には銅を混ぜ込むことで流通量を増やし、なおかつ価値の低い金属を混ぜて高価値な貨幣を製造することで、差額で儲けてしまおうという作戦ですね。この混ぜ物を入れる方策は江戸時代初期から採られておりますが、初期は9割近くが本来の貴金属を使用していたのに比べ、19世紀に入った頃には半分近くが銀という小判まで作られています。銀の丁銀や豆板銀に至ってはさらに悲惨で、江戸時代の末期には8割を越える銅が含まれた銀貨も鋳造されています。

ほぼ銅貨という銀貨というのはなんとなく認めたくないのが人情ではありますが、これは当時の人々も全く同じだったようで、特に品物を販売する側となる商人は認めていなかったようです。例えばお米を一石買いたい人がいたとして、この値段が銀7匁だったとします。そこで買い手側が混ぜ物たっぷりの銀を7匁分出すと、商人側としては、こんなお粗末なお金じゃ同じ額面では売れないよ、ということで銀10匁を請求するといった現象が頻発、貨幣そのものの価値が落ちたことで物の価値が相対的に上がるという、いわゆるインフレーションが起きています。お金がないなら増やせばいいじゃないか、なんて簡単に思ってしまいますが、過去のジンバブエの例を見ても単純にお金を増やせばいいということではないようです。

ジンバブエの国旗
最大で1米ドル=2億5600万ジンバブエ・ドルという時期もありましたが、現在は米ドルが流通しているとか

時期ごとの両替相場と物価

国際社会からの影響を受け続ける現代日本も同じではあるのですが、江戸時代当時も様々な要素によって貨幣の価値が変わり続けています。急な鋳造や混ぜ物の混入によるインフレ、そして他国への貨幣流出によるデフレは何度も起きており、お金の価値は乱高下を繰り返しています。Wikipediaからの抜粋ではありますが、江戸時代の特定の時期を例にして物価や両替相場をご紹介して記事の締めとさせていただきます。

以下はwikipedia:江戸時代の三貨制度から抜粋

元和元年場所不明ですが多分江戸(西暦1616年)

  • 金1両=銀65匁=銅銭4貫文=銅銭4000文
  • お米1石=銀20匁=銅銭1200文(米の単位・石については石高の記事を参照)
  • お米1升=銅銭12文
  • 豆腐1丁=4文

明暦3年江戸(西暦1657年頃、明暦の大火があったため物価高)

  • 金1両=銀70匁
  • お米1石=銀39匁
  • 大豆1石=銀37匁

明和3年大阪(西暦1766年)

  • 金1両=銀15匁=銅銭4200文(江戸と比べて銀が凄まじく高いです)
  • お米1石=銀61匁
  • 大豆1石=銀75匁

慶應3年京都(西暦1867年)幕末インフレ期

  • 金1両=107匁=銅銭8500文
  • お米1石=銀1213匁(100年前と比べて20倍!)
  • 大豆1石=銀810匁
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