徳川家康の三大危機の一つ・三河一向一揆
桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られると、松平元康(徳川家康のことです)は今川家との同盟を破棄し、新たに織田信長との同盟を選んでいます。この「清洲同盟」によって松平家は今川家と交戦状態に入りますが、この戦いは松平家に有利な展開で進みました。松平元康はこの機会に今川家からの完全なる脱却を図り、今川義元から与えられた1字「元」を捨て去り、この時から「家康」の名を名乗り始めました。
当時の松平家康はまだ20歳の若者ということで、胸の内には将来への野心が煮えたぎっていたことでしょう。ところが織田信長との同盟から3年後、松平家康は突然これまでにない異質な戦いを強いられることになります。その相手は大名ではなく戦国時代に急成長を遂げた浄土真宗、この時に初めて家康は「宗教」というモノがどれ程恐ろしいかを味わうハメになります。徳川家康の三大危機にも数えられる「三河一向一揆」、まずは起きるに至った背景からご説明したいと思います。
徳川家康の三大危機のまとめ記事はこちらからどうぞ。
ちなみにこの段階での家康はまだ「松平元康」を名乗っている段階ですので、この記事ではそのまま松平姓で表記しています。一応ではありますがご承知おきください。
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三河一向一揆が起きた背景
浄土真宗の信者を取り込みながら成長した松平家
事の発端は松平家康の祖父、松平清康の時代にまで遡ります。同じ松平でも家康の系統は本家ではなく分家筋だったのですが、松平清康が武力で強引に勢力を伸ばし、気付けば三河国(愛知県南部)の大部分を勢力下に収めました。その際に領内にあった多くの浄土真宗寺院と協力関係を結び、信者を家臣に取り込みながら松平清康は急成長を遂げています。
足元を固めて勢いに乗る松平清康は、さらなる拡大を望んで隣国・尾張国(愛知県北部)に侵攻を始めました。ところが尾張国の織田信秀の防衛体制は万全だったらしく、むしろ松平清康が戦死するという切ない結果に終わっています。ここで強力なリーダーを突然失った松平家が弱体化したところで、今度は家康の父・松平広忠の時代に移ります。
「守護使不入」の特権を与えられた三河国の浄土真宗
松平清康の嫡男は松平広忠という人物ですが、父が戦死した当時はまだ元服前の10歳の子供でしかありません。しかも松平清康のパワーで無理やり従わされていた人々も息を吹き返し、松平広忠の命まで狙われるというカオスな展開が始まりました。そのため松平家の家臣たちは松平広忠を連れ、西に東にと近隣諸国を転々と逃げ続けました。ですが逃げ続けているだけではラチがあかないということで、松平広忠はここでようやく今川家と従属関係を結び、その見返りとして本拠・岡崎城の奪還に成功しています。
とは言えこの時の松平広忠はただ岡崎城に戻っただけであり、領内を安定させる力などありません。そんな松平広忠は領内の平定策の一環として、特に大きな浄土真宗寺院に対し「守護使不入(しゅごしふにゅう)」の特権を与えました。この「守護使不入」とは守護、つまり領主による介入を拒める権利ですので、納税の義務もなければ犯罪者がいようとも手出しできないことになります。つまり松平広忠は安定の代償として、領内に浄土真宗という「半独立国」の存在を許してしまっていた訳ですね。
浄土真宗の特権を許したくない松平家康
ここでようやく松平家康の時代に入り、織田信長と同盟を結んだ後のところにお話を戻します。家康は結構手堅い性格だったのか、領土拡大に向けてたぎる野望を抑えつつ、まずは領内の安定と完全な統治を考えました。ですが父・松平広忠が領内安定のために与えた特権がネックになり、これによって税収が減るばかりでなく、反乱を企てた者がいてもそこに逃げ込めば余裕で逃げ切れてしまう訳です。
領内の統治体制の強化を図るならば、この「守護使不入」の特権を持った寺院は邪魔でしかありません。とは言え一旦与えてしまったものをいきなり取り上げるのも難しいもので、家康としては歯噛みをしながら寺院を眺めていたのではないでしょうか。ですが今川家の力を借りてやっとのことで国主に返り咲いた松平広忠とは違い、今川家と縁を切って互角以上の戦いをしている家康からすれば、ちょっと嫌がらせでもしてやろうかくらい思っても不思議はなさそうな気がします。
松平家を揺るがした三河一向一揆
松平家康の家臣が侵害した「守護使不入」の特権
1,562年、三河国にある浄土真宗の大寺院・本證寺(ほんしょうじ)に、とある無法者が逃げ込みました。この時松平家康が命令したかどうかは定かではありませんが、特権を剥奪するためのキッカケ作りだった可能性もあるかなと思います。なにはともあれその無法者を追っていた家康の家臣が本證寺の敷地に入り、ひっ捕らえて連れ帰ったところまでは記録として残っています。
この一見すると普通のこと、むしろ無法者をひっ捕らえてめでたしになりそうなものですよね。ですが本證寺はこのことに対し「守護使不入」の侵害を訴え、近隣の信者を集めて「三河一向一揆」を起こしました。この説以外にも「寺院の土地で松平家家臣が勝手に米を刈り取った」なんてのもありますが、いずれにしても大規模な内戦のキッカケとしてはあまりに弱い気がしますよね。実際のところは、浄土真宗側が家康からのハラスに将来的な不安を感じて猛反発した、くらいが妥当なのかなと筆者は考えております。
一向一揆に付く家臣が続出
この「三河一向一揆」という事件の恐ろしさは、ただ単に一部の領民が敵になっただけでなく、松平家康の家臣までもが一揆勢に参加したことでしょう。実はこの時一揆勢として敵になった武将の中には、後に「徳川十六神将」に数えられた渡辺守綱や蜂屋貞次もおり、また参謀として江戸幕府創立に大いに貢献した本多正信・正重兄弟もいたりします。もちろん家康の下に残り一揆勢と戦った者も多く、本多忠勝などはわざわざ改宗した上で家康側についていますが、ついこの間まで一緒に戦っていた味方と命がけで戦う状況にはやっぱり変わりはありません。そんな想像すら嫌な戦いの舞台は、いきなり家康の本拠近辺でスタートしています。
本拠・岡崎城にまで及んだ一向一揆の攻勢
本證寺から端を発した一向一揆は近隣の信者を取り込み続け、大型台風のように勢いを増しながら松平家康に襲いかかりました。元々本證寺と家康の本拠地・岡崎城は結構近くにあり、直線で測れば6キロか7キロ程度でしょうか。一向一揆は近隣の砦を陥落させながら岡崎城に接近、後に江戸幕府を創立する偉人に対して容赦のない攻撃を仕掛けました。
家康からすれば自身の居城に敵が詰め寄ってくること自体が只事ではないですが、その敵は自身の領民や家臣な訳で、どちらかと言えば精神的にしんどい戦いだったのではないでしょうか。この「三河一向一揆」は1563年の正月あたりから一年に渡って続き、家康の領内は日々の戦いでどんどん荒れ果てていきました。結局松平軍は大きな会戦で勝利し、優位を勝ち取ったところで和議を成立させていますが、身内同士で戦ってしまったトラウマは家康にある種の決意を促したようです。
一年続いた三河一向一揆の収束
一向一揆の解体と浄土真宗の弾圧
1564年の1月に一揆が収束すると、三河国にはこの一年が嘘であったかのように平和が戻りました。一揆の原因となった浄土真宗寺院は割とシレッとしていたようで、多分ですが「まあこのくらいでいいか」程度の感覚だったのではないでしょうか。ですが松平家康にとっては無駄に領民と家臣を失っただけであり、得る物が一切ない不毛な戦いでしかありませんでした。そのため家康はこの「三河一向一揆」が終わった後、浄土真宗という宗派そのものを禁教として扱い、弾圧とも言える締め付けを始めています。
家康は一揆が解体した後に領内の浄土真宗寺院や信者に対し、他の宗派に改宗するよう高圧的に迫りました。一応戦い自体は松平軍が優勢なまま終わっていたこともあり、宗派そのものを排除するという極端な行動に出た訳ですが、領内にまだ多くの信者がいることを考えればかなりの冒険とも言えるでしょう。ですがこの家康の冒険は成功に終わり、かなり多くの信者と寺院が宗旨変えに従ったようです。中には宗旨変えに逆らった寺院もありましたが、大部分の人々が従っている状況ではさすがにもう一揆は起こせず、寺院は破却され僧侶は追放されています。
敵対した家臣への処遇と団結した家臣団
これで浄土真宗の教団と民衆の信者はカタが付きましたが、やはり一番の問題は一向一揆に参加してしまった松平家の家臣たちでしょう。一揆に参加した家臣としても気持ちは人それぞれでしょうし、大なり小なり忠誠心と信仰心の狭間で揺れ続けたのではないでしょうか。松平家康はこの時点で20過ぎくらいの若者だったのですが、意外とその辺のデリケートな気持ちに理解が深かったようで、再度の仕官を望む者にはお咎めなしで寛大に迎え入れています。
もちろんこのことは家康にとっても打算というか事情があり、甲斐国(山梨県)の武田信玄、そしてまだまだ健在の今川家がいる以上は戦力を落とせなかったこともあります。とは言え家康は結構本気で家臣の出戻りを歓迎していたようで、三河一向一揆について恨み節を言った、なんて後日のエピソードは見たことがありません。出戻りした家臣としても大きすぎる失点を取り返すべく働き、夏目吉信というマイナー武将は後に起きた武田信玄との三方ヶ原の戦いで、家康の身代わりを自ら買って出て名誉の戦死を遂げています。同士討ちという辛すぎる状況を踏み越え、松平家の家臣団は「犬のように忠実」とすら言われる忠誠心、そして鋼のような強固な団結力を手に入れました。この時から2年後に家康は「徳川姓」を名乗り、屈強な戦国大名の一人として躍進の時を迎えることになります。
徳川家康が三河一向一揆で得たもの
後に徳川家康は江戸幕府を開き、日本の統治という大事業に取り組むことになります。江戸時代の民衆統治は「寺請制度」が主となっていますが、この政策では仏教を介して民衆の管理をする、という形式がとられていました。とは言え仏教教団そのものの統治も怠ることはなかったようで、特に浄土真宗に対しては本山を分割するという方法で教団の力を削いでいます。その上で寺社奉行に教団の管理をさせることで、仏教そのものを体制に取り込んだという訳です。
家康が「三河一向一揆」で学んだことは、多分ではあれど「人は簡単に流されてしまう」だったのではないでしょうか。民衆だけでなく家臣すら敵に回ったという事実は、家康にとって統治というものを根本から見直す要因になったのでしょう。そのため日本人全てを最寄りの寺院に所属させ、人が流されやすい感情的な部分を仏教でコントロールしつつ戸籍も管理させるという、人の気持ちを知り抜いた家康ならではの管理体制ができ上がっています。家康のトラウマの御蔭で日本は250年もの平和を手に入れているということで、なんだかちょっと皮肉な話ではありますよね。
「寺請制度」の詳細はこちらからどうぞ。
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