気遣い人間で説教魔な毛利元就のエピソード集

戦国時代の人物録
毛利元就と毛利家家紋・一文字に三ツ星

周囲の人々が気分良く過ごせる圧倒的な気遣い力

「毛利元就」は戦国期を代表する智将として名高い人物ですが、なんとなく油断もスキもないイメージがあったりします。ですが元就の冷酷そうな印象とは裏腹に、実際は家臣達からも相当に慕われていたようで、日常的に付き合いを重ねて親密な関係を築いていたようです。また家臣だけでなく地下人といった低い身分の人間とも親しくしていたらしく、時には採れたての野菜や魚が元就の屋敷に届けられることもあったそうです。

そんな時の元就は、持ち込まれた食材を調理させながら「酒が飲めるか飲めないか」を尋ねました。その相手が酒を飲める人間であれば、「酒っていいよね~」的なことを言いながらなみなみと酒を杯に注いであげたそうです。ですが酒が飲めない人間であれば、「おれも酒飲めないし嫌いだわ」とか言いながらお餅を差し出していたとか。このように元就は身分の低い人間にすらものすごく気を遣い、相手に合わせた柔軟な対応をとっていたようです。神算鬼謀の智将というイメージからかけ離れた逸話ではありますが、こういった元就の態度が「百万一心」というスローガンとともに家臣の団結を促したのでしょう。ちなみにこのエピソードは江戸時代に入ってからも結構有名だったらしく、歌舞伎や浄瑠璃の一つ「吉田物語」の作中でも語られています。

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他人に飲ませても毛利元就は下戸で通す

毛利元就は家臣や領内の人々にはニコニコしながら酒を勧めていたようですが、本人は下戸であると称して決して飲むことはありませんでした。また家臣への態度とは裏腹に、家族の飲酒に関しては相当厳しかったらしく、酒の飲み方についてクドクドと書き記した手紙が結構残っていたりします。元就が期待していた長男・毛利隆元が若くして亡くなっているためか、隆元の長男であり毛利家の後継者でもある毛利輝元には尚更厳しかったようです。

毛利輝元は元就が亡くなる数年前にようやく元服していますが、この頃の元就はすでに説教魔と化しており、酒がいかに健康を害し人間関係を損ねるかを延々と諭していたようです。そして元就の説教は輝元本人のみならずその母にまで及び、輝元にあまり酒を飲ませないように、という内容の手紙をひたすら送り続けました。実は元就の父は酒の飲み過ぎで体調を崩して亡くなっており、毛利家の人間があまり酒に強くない体質であることを知っていたからこその説教だったのかもしれません。

説教大好き毛利元就

「三矢の訓」という超有名な毛利元就の逸話がありますが、この書状は「3人で力を合わせなさいよ」というくだりだけでなく、14条に渡って幅広い内容が書き記されていました。この「三矢の訓」が書かれた紙はなんと3メートル弱にもなる長さであり、家族関係やら家臣の扱い方、元就の後悔していたことやその時の気持ちなど、教訓と言うよりは長めのツイートくらいにまとまりがありません。しかも14条もの条項には重複する内容がかなり多く、まるで同じ説教を何度もするお父さん的な書き方だったりします。またこれ以外にも元就から家族に宛てた手紙は多く残っていますが、どれもこれも説教じみた内容のものが多く、「これは言っとかなければ」という内容をその都度手紙にして送りつけていたものと思われます。

元就は安芸国(広島県西部)の国人から8カ国を領有する大大名になってはいますが、順調に事が進み始めたのは「厳島の戦い」あたりからであり、50歳を越えたあたりでようやく苦労が実を結んだ訳です。そんな苦労人である元就からすれば息子達もチャラついて見えたでしょうし、孫の毛利輝元に至っては尚の事だったでしょう。輝元は1,553年に生まれていますが、この2年後には宿敵・陶晴賢を討ち滅ぼしており、つまり輝元が物心付いた頃にはすでに毛利家は立派な大名として名を馳せていました。元就は輝元を立派な後継者に育て上げるため、そして輝元を支える小早川隆景・吉川元春に気持ちを引き締めさせるため、クドクドと必死で言い聞かせようとしていたのでしょうね。

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人物評の達人・朝倉宗滴にも称賛される統率力

越前国(福井県あたり)の名将・朝倉宗滴は各地の情報収集にかなり積極的だったようで、大名の性格や領内の統治方法まで細部にわたって調べ上げていました。その調査範囲は異常なまでに広く、北陸の地にありながらも関東から中国地方までガッツリとカバーしています。朝倉宗滴は調査した大名の中で特に優秀な人物を列挙していますが、武田信玄や三好長慶、上杉謙信といった大物の中に毛利元就の名も挙がっています。

この朝倉宗滴は応仁の乱をくぐり抜けた世代の人間であり、戦国時代の最初期から活躍している生き字引のような人物だったりします。この朝倉宗滴は1,555年に亡くなっているのですが、この年号は元就にとって「厳島の戦い」という躍進のキッカケがあった年であるため、つまり朝倉宗滴は元就が躍進する前の時期に高評価を付けていた訳です。当時の毛利家はあくまで安芸国(広島県西部)の中小勢力でしかなかったため、朝倉宗滴は結果ではなく統治方法や家臣達の様子を見てそんな評価を出したのでしょう。

ちなみにこの朝倉宗滴の評価は当時二十歳前の織田信長にも及んでおり、信長の名前も「優秀」としてキッチリ挙げていたりします。信長の名を全国に知らしめた桶狭間の戦いは1,560年ですので、この朝倉宗滴の評価は恐ろしいほど人の真価を言い当てていたことになります。

朝倉宗滴についての記事はこちらからどうぞ。

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