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平均寿命30歳の時代で97年の生涯を
戦国時代頃の日本人の寿命は、平均して30歳前後だったそうです。もちろん全国的に戦争が起き続けていた時代ですので、寿命ではなく戦いの中で命を落とした人もカウントされた数字ではあります。ですが80歳を越える現代人の平均寿命を考えれば、戦国時代当時の平均寿命はかなり短い印象を受けてしまいます。
それでも江戸幕府の創始者である徳川家康を始めとして、織田有楽斎(織田信長の弟の一人)や毛利元就など、過酷な戦国時代の中で70歳以上生きた人物もチラホラと存在しています。そんな長寿武将たちの中でも群を抜いて長命だった人物が、「北条家の生き字引」こと「北条幻庵」です。幻庵は現代人でもかなりの長寿と言える97年の生涯を過ごしており、その間北条家という関東の覇者を支え続けています。
「信長の野望」シリーズをやり込んでいる人であれば、ゲームの中で見たことがあるという人もいるのではないでしょうか。ですが実際にどのような業績を残した人物なのか、またどのような能力を持っていた人物なのか、世間的にほとんど知られていないことも事実です。今回の記事では、この戦国時代随一の長寿武将・「北条幻庵」についてご説明したいと思います。
伊勢盛時の末子として北条幻庵誕生
「幻庵」という名前は「雅号」という、小説家や画家が名乗るペンネームのようなものに当たります。北条幻庵という人物の本名は北条長綱と言い、伊勢盛時という人物の末っ子として明応2年(1493年)に誕生しています。
「父の苗字が伊勢?」というちょっとした疑問が沸き起こってしまいますが、伊勢盛時という人名は、戦国大名の先駆けとされる「北条早雲」が生存していた間の名前です。実のところ北条早雲は自ら北条姓を名乗ったことは一度もなく、二代目・氏綱の時代から「北条」という姓を名乗っています。早雲が亡くなった後に父にも北条姓の名前を付けておこうということで、「北条早雲」という名前が贈られています。
関東地方を席巻した後北条氏とは
父から領土を受け継いだものの、改姓前の氏綱は頻発する領内の反乱に手を焼き続けていました。そういった中で氏綱は「伊勢」という姓が関東では馴染みが薄く、このままでは領民からの支持が得られないという判断を下します。
実際のところ北条早雲はただの侵略者ではあったのですが、悪いイメージはいつの時代でも統治者にとってマイナスでしかありません。そのため氏綱は自身と一族のイメージアップのために、鎌倉時代に幕府執権を勤めた「北条氏」の姓を勝手に流用して名乗りました。実在した日本史上の名族の姓をパクることで、「ヨソ者ではなく関東の由緒正しい家が統治している」感を出そうとした訳ですね。また姓だけでなく家紋も執権北条氏のものを完全に踏襲しているため、成りすます気満々の北条氏綱の気合が窺えます。
ですが北条氏綱の凄いところはただ名乗っただけではなく、朝廷に申請を出して執権北条家の後継だと正式に認めさせた点でしょう。このことによって北条氏の家格が一気に向上し、近隣の名門・扇谷上杉家や武田家とも同格となり、領内だけでなく近隣の大名にまで強い影響力を発揮することになります。
ちなみに伊勢氏と鎌倉時代の北条氏は血縁的に全く無関係であるため、日本の歴史学者によって鎌倉時代の北条氏とは区別され、「後世」の「北条氏」ということで「後北条氏」とされています。また後北条氏は別の名称として、「小田原北条氏」や「相模北条氏」とも呼ばれています。
北条幻庵は5代の当主の元で
箱根神社の僧侶として
北条幻庵は幼少の頃に、父・早雲の命により箱根権現社にある金剛王院の僧となっています。現代では箱根神社とされている箱根権現は、鎌倉期には源頼朝が熱い信仰を捧げたとされており、関東武士にも人気の高い由緒正しい神社です。さらに箱根という関東地方の入り口に当たる地理上の理由もあり、箱根の麓となる小田原を本拠としていた早雲にとって、箱根権現を自由にできるメリットは非常に大きかったものと思われます。
父・早雲の後押しと援助もあり、幻庵が30歳になる頃には別当という神社の長官職に就任しています。別当に就任したことで幻庵は箱根権現が持っていた領地を手にしていますが、その座を後継に譲った後も社殿内の権力者として君臨し、箱根権現領は長きに渡って幻庵の支配下に置かれ続けています。こうして幻庵が箱根をガッチリと支配したことで、早雲は西側の心配をする必要がなくなり、相模国から東や北に遠征軍を出す余裕が生まれています。
北条氏綱の下で武田信玄の叔父を討ち取る
僧侶として北条家を支えていた幻庵でしたが、意外と言ってはアレですが、戦場においても活躍を見せています。北条早雲が亡くなった後に長男・氏綱が跡目を継いでしばらくすると、甲斐国の武田家との関係が悪化し、甲斐中山合戦が勃発しています。幻庵は当主の氏綱、甥の氏康、為昌らと共に一軍を率いて参戦すると、武田信虎の弟・勝沼信友と戦い討ち取ったとされています。信長の野望シリーズのイメージしかない筆者にとっては、戦闘力が下から数えて何番目という幻庵が、武田信玄の叔父に当たる人物を討ち取ったことに驚きを隠せません。
また同年に扇谷(おうぎがやつ)上杉家との間に起きた、武蔵入間川合戦や川越城の戦いにも参戦しており、やはり一軍の将として部隊を率いて戦っています。さらに上杉謙信が小田原まで襲来した際には幻庵も応戦、たびたび関東を脅かしていた謙信を撃退することに成功しています。上杉謙信との戦いに臨んだ時の幻庵はすでに60歳を越えていましたが、家臣達を叱咤しながら勇ましく戦ったのでしょう。
北条家全体の一割を所有
天文10年(1541年)に二代当主北条氏綱が死去すると、北条氏康が後を継いで三代当主となっています。氏康が跡目を継いだ当初は弟・北条為昌と二頭体制をとっており、所領を2分して統治していました。ですが為昌は氏康が跡目を継ぐとすぐに病死してしまい、為昌には子供がいなかったため、後継者不在ということで為昌の所領は家臣に分割して与えられています。ここで北条幻庵にも領土が分けられ、武蔵国にあった小机領を受け取っています。幻庵は箱根権現領に加えて小机領をも所有することになり、家臣団の中でも大きな領土を持った人物として重要な地位を持つことになります。
永禄2年(1559年)に作成された「北条家所領役帳」において、幻庵の所領は5457貫86文となっており、次に多い松田憲秀の2798貫110文のほぼ倍となっていました。「貫」や「文」は戦国時代の通貨単位であり、この所領に対して使われている金額は地域の生産高を表しています。北条家家臣団の所領全ての合計が64250貫文だったため、幻庵一人で北条家全体の1割の収入を得ていたことになります。この段階で幻庵は1人で中小規模の大名とも充分に渡り合える実力を持ち、北条家だけでなく他大名からも一目置かれる存在となっています。
当代随一の教養人
連歌で北条家の土台を支える
後北条氏の前身である伊勢氏は、室町幕府と朝廷との間の交渉役を担っていたためか、北条早雲を通じて幻庵にも京都の文化・教養が伝えられています。特に和歌・連歌においても幻庵は一流と自他共に認める腕前であり、また当時の一流歌人たちと深い親交を持っていました。京都からはるばる貴族を呼び寄せて歌会を催し、また既存の歌集についての注釈書を残すなど、かなり精力的な活動を行っています。
北条幻庵の和歌や連歌の才能は、北条家と他大名や朝廷との関係を保つために大いに役立っています。当時和歌や連歌は「一流の師匠から学ぶもの」という風潮があり、それは身分が高ければ高いほど顕著なものとなっていました。そのため売れっ子連歌師は各国で引っ張りダコとなり、そして指導を受ける人には貴族だけでなく武将や大名も含まれます。幻庵は自らの連歌の腕前を連歌師達に認めさせ、その連歌師を通して朝廷との繋がりを深め、他の大名との友好関係を維持する手段として使っています。また連歌師などの文化人は各国を往来する機会が多いため、他国の情報収集や連絡の手段としても非常に都合の良い存在でした。幻庵はそういった文化人たちとの交流を通じて、間接的に北条家を有利な立場に押し上げていたとも言えるでしょう。
マルチな才能を発揮
北条幻庵は尺八作りの名人としても知られていました。一節切りの尺八を製作していましたが、その作りは独特であり音色があまりに良く、「幻庵切り」という固有名詞で呼ばれる程の品物だったようです。そして「幻庵切り」の噂は京都にまで及び、朝廷からも所望されて献上したという記録が残っています。作った本人である幻庵自らも尺八を演奏し、数々の曲を作ったとも言われています。
尺八以外にも馬の鞍や弓細工、石台や茶臼など、それぞれに関連性がありそうでなさそうな数々の品物を製作しています。手先が器用だったというのもあるのでしょうが、現代風に言うならば、単純にモノづくりのセンスがあったのでしょう。さらに造園工事にも手を出しており、後に北条家五代の墓が置かれる早雲寺の庭園まで造っています。
北条幻庵という「北条氏の生き字引き」
幻庵は天正17年(1589年)11月1日に、97歳という当時の平均寿命の数倍を過ごした後に死去しています。幻庵が亡くなってからすぐに豊臣秀吉による小田原征伐が始まり、そしてその半年後には北条家は滅亡しています。北条家のまとめ役であった幻庵の死と共に、関東で覇権を握り続けた北条氏は、屋台骨を失った家が崩れ落ちるように朽ち果てています。
もちろん幻庵1人が北条家を支え続けていた訳でもなく、また晩年は大きな活躍をしていないことも確かです。ですが後北条氏を長年に渡って支え続けた宿老の死は、危機に瀕した北条家をより一層不安定にしたものと思われます。幻庵という人物は戦場での活躍だけでなく、文化・教養を用いて北条家の外交や戦略行動に貢献するという、並の武将では決して務まらない役割を果たしていました。北条幻庵という人物の成長とともに後北条氏は拡大し、またその死と共に終わりを迎えるという、文字通り「北条氏の生き字引」として生涯を過ごしています。
参考サイト様
戦国ヒストリー「北条幻庵(宗哲)」一族の長老的な存在として後北条氏を支え続けた重鎮
戦国武将列伝Ω武将辞典 北条幻庵の解説 実は文武両道の名将である北条家の長老
お城解説「日本全国」1000情報【城旅人】 北条幻庵屋敷(北条幻庵居館)
徒然探訪録 北条五代を支え続けた重鎮 北条幻庵
https://ameblo.jp/code5050-0309/entry-11949151530.html
今日は何の日?徒然日記 一族とともに生きた北条氏の長老軍師~北条幻庵
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2018/11/111-766e.html
戦国史探求室 伊勢家→北条家伝統の秘技とは?