足軽から大大名に成り上がった藤堂高虎
職場替えは今も戦国時代も当たり前
7度主君を変えねば一人前の武士とは言えぬ
このフレーズはしばしば藤堂高虎という人物の発言とされますが、実は当時の武士としてはごくごく一般的で当たり前の考え方だったようです。現代でも能力のある人は転職を重ねながらキャリアアップしたりしますが、当時の武士も全く同様だったようで、「自身を高く評価してくれる主君にこそ仕えるべき」というのが普通だった訳です。
とは言え自身の能力をキチンと評価してくれる、そして最大限に活かしてくれる上司はそうそういない訳で、だからこそ何度も主君を変えてベストな環境を探しましょう、ということですね。
三英傑に認められた誠意と実力
藤堂高虎は浅井長政の足軽からキャリアをスタートしたにも関わらず、三英傑全てを渡り歩いて大大名にまで成長したためか、自身の利益のために手段を選ばないズルそうなイメージがこびりついていたりします。ですが高虎は手足の指や爪をいくつも失うほど果敢に戦い、仕えた主君それぞれに高い評価を受け続けました。
特に江戸幕府の成立以降は徳川家康から厚すぎる信頼を受けていたようで、東照大権現には南光坊天海・徳川家康・藤堂高虎の3人が並んでいる像まであったりします。この高虎にはかなり面白いエピソードが残っていますので、この記事ではその主君遍歴だけをご紹介し、エピソードについては下のリンクから御覧ください。
藤堂高虎の簡単な身分と俸禄・主替えの理由をざっくりと
この藤堂高虎という人物のことを記事にまとめようとしたところ、あまりにも情報量が多すぎて整理が付かなくなったため、ものすごく大雑把な略歴にしてみました。実際は豊臣秀吉に使えた後は豊臣秀頼、徳川家康の後は秀忠・家光にも仕えていますが、あまりに多くなってしまったので割愛しています。
- 浅井長政(磯野員昌隊)足軽 石高不明 ケンカして脱走
- 阿部貞征(あべさだひろ) たぶん足軽 石高不明 ケンカ(殺害)で脱走
- 磯野員昌(いそのかずまさ) 足軽 80石
- 織田信澄(磯野員昌隊) 足軽 80石 給料安すぎて浪人に
- 豊臣秀長 足軽大将→大名 300石→2万石
- 豊臣秀保(ひでやす) 大名 推定2万石 秀保が亡くなって出家
- 豊臣秀吉 大名 7万石 秀吉が亡くなって関ケ原で東軍に
- 徳川家康 大名 20万石→32万石
藤堂高虎の出世街道
足軽としてキャリアをスタート
藤堂氏の元を辿れば藤原北家という貴族に行き当たるらしいのですが、戦国時代頃にはほぼ普通の農民という完全な没落貴族だったようです。高虎の父・藤堂虎高はそんな藤堂氏を再興するためか、甲斐国(山梨県)の武田信虎に仕えたこともあったようですが、同僚のヒガミなどでうまくいかなかったらしくすぐに地元の近江国(滋賀県)に戻っています。一応虎高の「虎」の字は武田信虎から1字もらったということになっているので、割と優秀な人物だったのかもしれません。
藤堂高虎が成人すると北近江の大名・浅井長政に足軽、つまり雑兵として父・虎高と共に仕え始めました。この時は浅井家家臣・磯野員昌の部隊に配属されて姉川の戦いにも参加しており、ここでは織田家の援軍だった徳川家の大将首を取るなど結構な武功を挙げています。その後も高虎は他の戦場でちょこちょこ活躍していたのですが、勲功を巡って同僚と言い争いになった末に頭にきて斬り殺してしまい、罪の追求を逃れるために軍から脱走するというヤンチャなことをしています。ちなみにこの高虎の事件のせいで、父・虎高はとばっちりで謹慎処分を食らっていたりします。
仕えるべき主を探して転々とする
浅井家を脱出した藤堂高虎はしばらくブラブラしていましたが、浅井家が織田家に滅ぼされると、浅井家の旧臣だった阿部貞征(あべさだゆき)という中小大名に仕官しました。ですがここでも同僚とのケンカに及んでまた殺害、結局すぐに居場所がなくなり、次は浅井家で自身が配属されていた磯野員昌の元に舞い戻りました。この頃の磯野員昌はすでに織田家に従属していたため、高虎は間接的にではありますが織田信長の下についていた訳ですね。
高虎が磯野員昌に仕官した直後、磯野家は織田信長の甥・津田信澄を養子に取ることになり、高虎は配置転換で織田信澄の部隊に配属されました。ですが高虎は給料の加増がなかったために不満タラタラ、そしていつもの定番・ケンカを起こし、またも浪人生活を送ることになりました。高虎はここまですでに3回もケンカで居場所を無くしており、相当にケンカっ早い人物だったことが窺えます。
高虎は織田信澄の元を離れた後もしばらくの間ブラブラしていたのですが、以前に仕えていた磯野員昌の仲介により、当時織田家で勢いのあった羽柴秀吉の弟・羽柴秀長に仕え始めました。この秀長との出会いが高虎の運命を大きく変え、そして上昇気流に乗った分岐点になっています。
羽柴秀長の下でぐんぐんと出世
この羽柴秀長は藤堂高虎に対してなぜか好待遇を用意、これまで石高にして80石程度の給料だったところ、突然300石という4倍近い給料で召し抱えました。また秀長はこれまでケンカばっかりしていた高虎に何の才能を見たのか、儒教の本を与えて勉強させ、なおかつ建築技術の習得のために穴太衆(あのうしゅう)という築城集団も紹介しています。この以前とは違いすぎる高待遇に高虎は奮起し、羽柴秀吉の中国攻略戦でも自ら奇襲作戦を敢行し、他の戦場でも目まぐるしい功績を挙げました。この高虎の働きっぷりに秀長は加増で応え、高虎は給料にプラス1,000石、そして足軽大将への昇格をも果たしています。
織田信長が明智光秀によって倒された本能寺の変は、高虎が所属する羽柴家にとっては飛躍の起爆剤となりました。羽柴秀吉は山崎の戦いで明智光秀を破って織田家のイニシアチブを握り、清州会議を経て賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破ると、ほぼ織田信長の勢力をそっくりそのまま乗っ取っています。高虎は特に賤ヶ岳の戦いで抜群の働きを見せ、ここで1300石加増されちょうど倍の2600石取りにまで成長しています。
持ち前の建築技術でさらに出世
豊臣家と徳川家の戦い「小牧長久手の戦い」が引き分けに終わった後、藤堂高虎はその後の紀州征伐にも参加しいくつもの大将首を挙げています。豊臣秀吉はこの紀州征伐で得た地に新たな城を立てることを思いつきますが、豊臣秀長は穴太衆から建築技術を学んだ高虎を推薦、ここで抜擢される形で高虎が築城の奉行に任命されています。この時できた「和歌山城」は高虎が初めて作った城ではあったのですが、建築に関して一家言ある秀吉が認める程に出来が良かったようで、これ以降高虎は築城名人としてそこら中の城を作って回ることになります。
和歌山城を作り終えて大阪に戻った高虎は、秀吉から今度は徳川家康の大阪屋敷の建築を命じられました。この屋敷の図面はすでに出来上がっており図面通りに建てるだけの仕事だったのですが、高虎は図面に警備上の問題があるということで勝手に図面を変更し、費用は自分で負担するという謎の行動に出ています。いざ家康が屋敷に着くと高虎の勝手な変更点に気付いたのですが、家康は高虎の変更に文句をつけるどころか感謝の言葉を述べたとされています。この功績があったためかさらに加増を受けてトータル1万石になり、足軽として武士の世界に入った高虎はついに大名の仲間入りを果たしました。
恩人・豊臣秀長の死から豊臣家直臣に
九州征伐や小田原征伐を経て豊臣秀吉が天下統一を果たした直後、藤堂高虎の大恩人・豊臣秀長が病のために亡くなりました。秀長の家は養子の豊臣秀保(ひでやす)が継いでおり、さすがの高虎も今回は浪人にならずにすんなりと世代交代を受け入れています。その後秀吉の命令で朝鮮出兵が始まると、高虎は豊臣秀保の代理として文禄の役にも参戦し、朝鮮半島でも築城するという名人ぶりを見せつけています。ですが文禄の役が失敗に終わって数年後、今度は豊臣秀保が17歳の若さで亡くなってしまいました。
ここでの行動はかなり謎なのですが、この豊臣秀保が亡くなってすぐに高虎は出家し、全てを捨てて高野山に籠もるという行動をとっています。足軽という身分から身を起こして20数年も戦場を駆けずり回り、やっとの想いで手に入れた大名の地位をあっさりと手放してしまった訳です。自身の主君が短い間に2人続けて亡くなったことでセンチメンタルになったのかもしれませんが、この時の高虎は40歳くらいであり、まだまだこれからな時期に全てを捨てるには惜しすぎる気がしてしまいます。
これは天下人として君臨していた秀吉も同じような気持ちだったようで、秀吉は家臣を通じて高虎の現役復帰を説得し続けました。天下人からの説得にやる気が出たのか、あるいは出家を後悔していたのかはわかりませんが、高虎は復帰を決意し、今度は豊臣秀吉の直接の家臣として仕えることになりました。秀吉も無理やり復帰させてしまったことに後ろめたさがあったのか、高虎の石高を大幅に加増し7万石の大名として復活を遂げています。
江戸幕府になぜか譜代大名として扱われた藤堂高虎
豊臣秀吉が老衰で亡くなると、豊臣家の家中は武断派と文治派に分かれて盛大な派閥争いが起こりました。高虎は屋敷の一件で徳川家康と親交が深く、またどちらかと言えば福島正則など武断派寄りの立ち位置だったため、その後に起きた関ヶ原の戦いでも東軍に味方しています。関ヶ原の戦いでは西軍の名将・大谷吉継の部隊と激戦を繰り広げる中、西軍武将達に使者を送り寝返り工作もちゃっかりやっていたようです。高虎のそんな工作が実ったのか西軍からは寝返り武将が続出し、家康が率いる東軍が勝利を収め江戸幕府の樹立に至っています。
高虎は家康が作った新政権では重臣待遇で迎えられており、ここでトータル22万石の大名に成り上がりました。江戸時代の大名達は徳川家に歴代仕えている譜代大名と、後から徳川家の家臣になった外様大名に大きく分けられますが、なぜか藤堂家は関ヶ原の戦いから徳川家に味方したにも関わらず、ちゃっかりと譜代大名格として扱われていたりします。高虎はその後の大坂の陣にもガッツリと参戦し、さらに加増を受けて32万石の大大名にまで成長しました。藤堂高虎は家康だけでなく次世代の将軍達にも不思議な程愛されていたようで、2代将軍秀忠や3代将軍家光との間にも多くの良いエピソードを残しています。
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