日本三大怨霊

平将門イラスト その他考察
平将門イラスト

「怨霊はいるのが当たり前」の平安時代

ホラーというジャンルの物語はほぼ全てフィクションであり、普通に考えればあり得ないことだらけではないでしょうか。それでも怨念や悪霊を頭の片隅で信じている人は多く、それゆえにいつの時代も怪談話の類に事欠かず、人々の好奇心や恐怖といった感情をくすぐり続けるのでしょう。今回の記事では日本三大怨霊という、ちょっと関わっただけですぐに祟られてしまいそうな3人と、怨霊とされるにいたった経緯をご紹介したいと思います。

菅原道真・平将門・崇徳天皇の3人は全て、平安時代という日本でまだまだ呪いや悪霊が当たり前のように信じられていた時代の人物達です。陰陽師が呪いの応酬を繰り広げていた時代では、人の恨み、特に不遇な死を遂げた人の怨念は災厄を招くものとされていました。そんなファンタジーな世界観の時代に誰から見ても不幸な最後を迎えた3人は、ある意味で怨霊化して当然だったのでしょう。そのために様々な自然現象やちょっとした不可解な出来事が簡単に怨霊と結びつき、人々の恐怖を盛大に煽り怪談話のように伝わっていったものと思われます。

ちなみに上記の3人が怨霊として特に取り上げられた江戸時代頃であり、歌舞伎や読本の影響が強いようです。人の好奇心を満たすためのオカルトチックな創作は、平安時代や江戸時代といった平和な時代ならではの物なのかもしれませんね。

怨霊から神様へ・菅原道真

菅原道真のイラスト

スピード出世と太宰府への左遷

代々学者を多数輩出している菅原氏に生まれた菅原道真(すがわらのみちざね)は、18歳で官僚を育成する大学寮に入り、主に中国の文学や歴史を学んでいます。そして大学寮入学から8年後には、登用試験に合格し官僚としての道を歩み始めます。特に文学の才能については、当時の政治の第一人者であり後に関白就任を果たす藤原基経からも高い評価を受けており、何度も代筆を依頼される程に信用されていたようです。

その後もそこそこ順調な出世を続けていた道真でしたが、ひょんなことで宇多天皇に大抜擢されると、突然天皇の側近としての地位を手に入れています。側近として天皇に仕えてからの道真はトントン拍子に昇進しており、わずか2年で公卿の仲間入りをするという快挙を成し遂げています。その後も出世が止まらずついに右大臣というトップ3の官職に就きますが、そこから天皇を廃位しようとしたとする「昌泰の変」が起き、菅原道真は主犯格として太宰府への左遷が決定してしまいます。この事件は藤原時平など藤原氏一門を始めとした貴族達から、あまりの出世ぶりに妬みを買いすぎてしまったという背景の中、多くの貴族の同意があった捏造事件であるとも言われています。

菅原道真病没後の怨霊騒ぎと神格化

左遷が決定すると北九州へ向かうための費用すら朝廷から出ず、そのため道真は自腹で移動の費用を賄っています。しかも大宰府に着くと役職に伴っているべき従者が1人も付かず、また政務も禁じられた上に俸給も一切出ないという、もはやイジメを通り越して処刑に近い待遇となっていました。食べる物や着る物にすら事欠く有様となった道真は、左遷されてから2年後に己の境遇を嘆きながら静かに亡くなっています。

道真が悲嘆に暮れた死を迎えてから数年後、当時の関白・藤原時平を始めとして数人の公卿が様々な死因で相次いで亡くなっています。特に藤原菅根という道真の左遷に関わった人物は、当時としても滅多に無い落雷という死因で命を落としています。その20年程後には内裏の清涼殿という建物に雷が直撃、折悪しく会議で多くの貴族が集まっていたため、多数の死傷者が出るという事故まで起きています。さらにそれを目撃してしまった醍醐天皇も体調を崩してしまい、3ヶ月後には亡くなってしまいました。

さすがに病死や事故が連続しすぎたためか、朝廷では真剣に原因が検討され、これらは全て菅原道真の恨みによるものという結論が下されました。そして道真の怒りや恨みを鎮めようと、京都の北野天満宮に神として祀っています。さらに時代は下って一条天皇の時代頃からは、道真を「祟り神」ではなく「ありがたい神」として扱うようになり、現代に至っては「学問の神様」として太宰府天満宮に多くの参拝者を集めています。

太宰府天満宮の桜門
太宰府天満宮の桜門

関東の独立を掲げた「新皇」平将門

日本初の晒し首に

日本三大悪人にもランクインしている平将門は、こちら三大怨霊部門でも登場するマルチな活躍(?)を見せています。平安時代中期頃に関東に広く分布していた平氏一門は、それぞれの影響力拡大を目指し氏族内で抗争を繰り広げていました。その中の一人として平将門は関東を駆けずり回り、自身を頼る人々を助けながら転戦を続けていました。ですが匿った人の中に朝廷の地方統治機関と揉め事を起こした人物がいたため、将門は本人の意志とは関係なく朝廷に反抗したことにされてしまいます。

日本三大悪人についてはこちらからどうぞ。

将門はここで開き直って新たな天皇という意味合いの「新皇」を自称し、関東に独自の政権を作りました。この事態を聞いた朝廷側は慌てて大軍を派遣して将門軍を攻撃、数に任せた大軍の大波に関東勢は抗いきれず、追い詰められた将門は額に矢を受けて戦死してしまいました。その後将門の首は平安京へと運ばれて晒し首にされていますが、実は日本史上で初めて確認できる晒し首の例はこの平将門であるため、朝廷としてはこの男を絶対に許さない、という意志を人々に見せつけたかったのでしょう。

後の世に絶大なインパクトを残した平将門

晒し首となった後に何ヶ月も目を見開いていた、ずっと歯ぎしりしていた、などといういかにも恨みが込められていそうな逸話が数多く残されています。さらには首だけとなった将門が突然笑い出し、「俺の胴体はどこだ?」といいながら東へ飛び去ったという逸話すらあり、実際に将門の首塚は京都にはなく関東に多く残っています。また関東へと飛び去る将門の首が岐阜県辺りで射落とされたという伝承すらあり、その現場には御首神社というそのまんますぎるネーミングの神社が建てられています。

御首神社の写真
岐阜県・御首神社

余りに大きかった将門のインパクトは、江戸時代頃には創作物の格好のネタにされています。浮世絵や歌舞伎のテーマとしても幾度となく取り上げられており、またそのために怪談話の普及に拍車がかかるという雪だるま式の展開を見せています。現代ではNHK大河ドラマで関東の英雄として取り上げられたりもしていますが、「帝都物語」という昭和末期の小説作品では完全な怨霊となっていたりと、作品によって多様な将門が登場しています。

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悪人とされながらも信仰を受け続ける

将門が自身を「新皇」として新政権を作ろうとした事実は、朝廷にとっては国家存亡の一大事であり、後々にまで強い影響を残しています。平将門の乱が鎮圧されてからも、しばらくの期間は悪いことがあれば全て将門の怨霊とされていましたが、実は平安末期の源平合戦や室町初期の南北朝の頃にも頻繁に将門の名前が上がっています。それ程に天皇家や朝廷貴族達にとって将門ショックは大きかったのでしょう。

明治時代に入って天皇が神格化されるに伴い、平将門は日本政府によって天皇家に背いた大悪人という汚名を着せられてしまいます。そのため将門の首塚は政府主導で何度も破壊されていますが、逆に一般民衆からの信仰が厚かったためその都度再建され、さらに破壊を防止するための怪談話が余計に盛り上がるという不思議な人物でもあります。

平将門公の首塚
平将門公の首塚

天皇家を呪う第六天魔王・崇徳上皇

父であるはずの鳥羽上皇にハメられる崇徳天皇

三大怨霊最後の1人は、天皇家に生まれながら不遇の死を遂げ、最強の怨霊ともされた崇徳上皇です。崇徳天皇として即位した頃は、ちょうど藤原北家主導の摂関政治から「院政」主導に切り替わった時期であり、白河法皇というモンスターが朝廷内の全てを仕切っている状態でした。上皇という「院政」でイニシアチブを取るべき立場になった崇徳天皇の父・鳥羽上皇も、いまだ健在の白河法皇の影に隠れ宙ぶらりんの日々を過ごしていました。また崇徳天皇の母である藤原璋子には義父であるはずの白河法皇との不倫疑惑があり、鳥羽上皇は崇徳天皇が我が子であるかを疑い、むしろひっそりと敵対心を持つという背景の中で事件は起こります。

後に白河法皇が病没すると、ようやく鳥羽上皇に「院政」の大ナタを振るう機会が回ってきました。すると鳥羽上皇は次代の「院政」の可能性を示唆して崇徳天皇に譲位を迫り、崇徳天皇はこれを信じて天皇位を譲ってしまいます。ところが次の天皇には「皇太弟」近衛天皇が即位したため、「天皇の父」という肩書で権力を振るう「院政」の権利がなくなり、ただ口車に乗って天皇の座を降りただけという形になっています。ここら辺りのややこしい事情は、崇徳上皇のページでご説明しております。

保元の乱で流刑に処された後に

将来的に「院政」を布けないことが確定してしまった崇徳上皇は、鬱々とした毎日を過ごしていました。そんな中で弟である近衛天皇が17歳で亡くなると、崇徳天皇の息子も有力な候補者となっていましたが、今度は藤原氏や他の皇族によって阻止されてしまいます。そうこうしている内に鳥羽上皇が亡くなると、権力の座を巡って藤原忠通と藤原頼長が争う「保元の乱」が勃発、崇徳上皇は巻き添えを食う形で藤原頼長に加担していたため、首謀者扱いされて讃岐国への流刑が決定してしまいました。

騙され巻き添えを食った挙げ句に罪人扱いという身の上を嘆いた崇徳上皇は、せめて戦乱で亡くなった戦没者を供養しようと、仏教の経典を書き写し朝廷へと送りました。ところが、この写本には呪いが込められているのでは、という疑いまで掛けられてしまい、写本は崇徳天皇の元へ送り返されてしまいます。自身の気持ちを踏みにじられた崇徳上皇は絶望し朝廷を恨み、自らの舌を噛み切って突き返された写本に天皇家を呪う言葉を書き連ねました。そして亡くなるまで爪や髪を伸ばし続けたため夜叉と見紛う姿となり、死後崇徳天皇の棺からは血が溢れ続けたという逸話すら残っています。

「保元の乱」が終わって数年の間は平安京も平和そのものでしたが、崇徳上皇の死後数年すると、事件や火災が立て続けにおきてしまいます。そして1176年には天皇家の人間が4人連続して病死するという不幸が相次ぎ、しかもその4人は全て「保元の乱」の勝者・藤原忠通と縁が深いという共通項がありました。そのため負けた崇徳上皇の怨霊騒ぎが突然ピックアップされ、これまでの罪人扱いから一転して神様扱いとなり、白峯神社の主祭神として現代に至るまで祀られています。

白峯神社の写真
京都・白峯神社