戦国時代 比叡山焼き討ちに至るまで

炎 戦国時代

今回の記事では、織田信長が1571年(元亀2年)に比叡山延暦寺を焼き討ちし、滅ぼすに至った理由や経過についてご説明いたします。

戦国当時の宗教は信仰を集める経済・武力団体です

この時代の背景として、貴族や武士といった上位の階級にあった者達から一般庶民まで、人々は神や仏に対して現代では考えられない程の信心深さを持っていました。現代ではある程度科学的に証明できる地震や台風、それに伴う川の増水や津波なども、当時の人々にとってはただの不思議で恐ろしい現象であり、神や仏に結びつけて考えられることがほとんどでした。そんな恐ろしい神や仏の代理である寺社が、恐怖や崇拝といった感情によって当時の人々の支持を得ていたのは割と当然であり、これは支配階級の人々も例外ではありません。

比叡山の焼き討ちをした織田信長ですら1560年桶狭間の戦いで、出撃前に熱田神宮という神社で必勝を祈願しています。もちろん武将や兵達の士気を高める狙いもあったのでしょうが、追い込まれた状況の中で信長自身にも「神頼み」といった気持ちは少なからずあったでしょう。

そんな畏れ多く有り難い存在であるはずの寺社ですが、人々の崇拝の対象となる宗教的な活動以外にも経済的な活動を行っていました。その経済的な部分で信長とぶつかってしまったため、結果的に比叡山を丸ごと焼き討ちされるという事件が起きています。

それではまず、比叡山延暦寺がどのように経済活動を行っていたかを見ていきましょう。

比叡山延暦寺の経済活動

そもそも比叡山延暦寺とは

比叡山延暦寺が建立された時期は、平安時代にまで遡ります。当時の中国王朝である唐で修行を積んだ最澄により開かれた延暦寺は、平安貴族の支持を集めてどんどん規模を拡大していきました。最盛期には3千を越える寺社があったといい、最大の寺社勢力として日本の仏教界に大きな影響力を及ぼしています。

比叡山で修行を積んでから、自身の宗派を立ち上げた者も数多くいます。日蓮宗の日蓮や浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞・曹洞宗の道元・臨済宗の栄西など、鎌倉時代にできた新宗派の開祖はほとんど比叡山で修行を積んでいます。当時の日本の仏教界では延暦寺を無視することなどできず、大きな影響力を持っている寺院でした。

延暦寺の収入源

いかに人々の信仰を集めていた延暦寺とはいえ、収入がなければ運営は立ち行きません。ですが平安時代の貴族全盛の頃にできた延暦寺は、貴族や王族からの寄進により多くの領土を受け取っていました。そういった寺社領から税として入ってくる収入と貴族や富裕層からの寄付といった収入以外に、延暦寺はもう一つの大きな収入源を持っています。

それは「座」という商人団体の元締めをすることで、言い方は悪いのですがピンハネすることで大きな収入を得ていました。この「座」の元締めをしていたのは延暦寺だけでなく、奈良の興福寺や滋賀の日吉大社なども同様に「座」を支配下に置いています。

鎌倉時代あたりまでは、延暦寺は寺社領からの収入も順調で大いに潤っていました。ところが室町幕府に移ってからは状況が激変し、武士による寺社領からの横領が相次ぎました。室町幕府初代将軍・足利尊氏を始めとして軍部は寺社領の保護に興味を示さず、むしろ自身の部下となる武士による横領を看過します。足利尊氏の弟・直義は寺社領を保護するため必死に争いますが、観応の擾乱で敗れていなくなってしまいます。その後にも寺社領はさらに荒らされ放題となったため、寺社勢力の収入は「座」からの収入に頼っていくことになります。

観応の擾乱についての記事はこちらからどうぞ。

「座」とは?

「座」というのは、本来は商人や芸能者などによる同業者組合を指します。現代でも劇団や劇場の名前で「〇〇座」となっているのは、この時代の「座」の名残ですね。

当時の商業に関する「座」は非常に多くの種類があり、また地域によって別々の「座」が結成されていました。山城大山崎の油座、摂津今宮の魚座、鎌倉の材木座、博多の油座、といった具合に、「〇〇の○座」が全国の至るところで結成されています。ちなみにこうした同業者組合は日本だけでなくヨーロッパでもできており、ギルドやカルテルといった呼ばれ方になっています。

「座」のメンバーとなった商人は同業者内で商売の範囲を決め、その範囲の中で対象品を独占販売することで利益を上げていました。「座」のメンバー以外が対象品の商売を始めた場合には、仕入れ・営業の妨害や地域からの締め出しをすることで、「座」のメンバーの利益を強引に確保します。それでも頑固に営業を続けるメンバー以外の商人がいた場合には、バックにいる寺社の僧兵による店の打ち壊しなど、強硬な手段に出る場合もありました。もちろん僧兵による乱暴など許さないといった正義感に溢れた領主もいたのでしょうが、民衆の支持を得ている宗教性と強大な武力を持った寺社に抵抗できず、結局は領主側が折れて寺社にとってメリットのある「座」が存続し続けています。

極端な言い方をすれば、「座」に入っていない商人には商売をする権利がなかったと言えます。逆に「座」に加入すれば、ピンハネされはするけどある程度の利益が保証される、といったプラスの要素もあります。こうしてほとんどの商人が「座」の支配下に入ることで日本の商売はほぼ「座」を経由することになり、そこからのピンハネは相当な額となったことでしょう。

元締めとなっていた寺社にとって、要するに「座」は金のなる木だったんですよね。たまに商人同士の揉め事に口を出したり僧兵を派遣するだけで、莫大な収入を得ている状態です。こういった寺社が経済的特権を得ている状態に、空気を全く読まない織田信長が鋭すぎるメスを入れます。

織田信長の政策

美濃復興のための楽市楽座

織田信長が斎藤義興から美濃を攻め取った時には、美濃の国内から戦乱を恐れた人々が多く他国へ移っていました。土地はあっても人がいないのでは意味がない、ということで織田信長は人を集めるために商業振興の政策を打ち出します。この時に出された楽市楽座令により、多くの人々が美濃へ戻り、さらに移住してくる民衆も数多くいました。

楽市楽座の「楽」という字は、やりやすいことや気軽にできる、といったニュアンスで使われています。楽市の部分では市場に出店する権利、つまり仕入れのための荷運びでは他国との境界にある関所の通行の無料化や、市場の警備体制を整えて治安維持に努めるといった内容を保証しています。

そして楽座の部分では「座」による専売特権を排除し、「座」に加入していない商人も普通に商売できることを保証しています。ここでビジネスチャンスの匂いを嗅ぎつけたニワカ商人達が美濃に押し寄せ、人口の流入によって美濃の城下町は賑わいを取り戻します。また「座」に加入しているメリットが薄くなったというかなくなったため、メンバーの脱退といったことも多くあったでしょう。

実は楽市令という政策は信長が初めて行ったわけではなく、駿河の今川氏や近江の六角氏など、信長よりも前にすでに成功事例もありました。つまり楽市の部分は割とメジャーな手法でありそれ程問題にはなりませんが、楽座の方はかなりの問題となります。「座」によって商売をしている地域が減れば減るほど元締めの収入も減ってしまうため、多くの「座」の元締めとなっている比叡山延暦寺はここから織田信長を敵対視することになります。

織田信長の領土と楽座地域の拡大

美濃を領有して拡大に成功した織田信長は、その後も南近江や山城を領有した後に楽市楽座令を使い続けます。美濃で人口を増やすために使ってすでに成功している政策なのですから、信長としては使わない手はありません。

ですが比叡山延暦寺からすれば自身の収入が減り、なおかつ「座」の存在意義すらなくなりかねない信長の施策は大きな脅威です。信長の領土が拡大すればするほど、延暦寺の収入はその分減っていくことになります。比叡山延暦寺としては自身の存亡を掛けて意地でも信長を叩き潰し、「座」による収入を確保する必要があったんですね。

延暦寺 信長包囲網に参加

浅井長政や朝倉義景、本願寺顕如や三好三人衆が一斉に信長と敵対し、追い詰める形となった信長包囲網のタイミングは、比叡山延暦寺としても千載一遇のチャンスだったのでしょう。快く浅井・朝倉の軍勢を京都から近い比叡山に滞留させ、攻め込む機会を一緒に伺っています。本来であれば神域であるはずの比叡山に、武器を持って甲冑を身につけた軍を長居させることはないはずですから。

信長包囲網についての記事はこちらからどうぞ。

ですが結局本願寺顕如と織田信長の間で和睦が成立したのを皮切りに、信長包囲網はどんどん勢いを失っていきます。さらに将軍足利義昭から調停が入り、浅井朝倉の軍も自国へと引き上げていきました。そして頼みの綱の三好家も攻撃することなく撤退し、すでに延暦寺の周りには味方はいなくなってしまいます。

それでも比叡山延暦寺は自身の利益を守るために、信長との敵対を表明し続けました。直接戦っては負けが明白であったため、信長がやってきた戦争や政策を残虐なものとして批判し、信長を悪であるとして味方を集めようとします。

第六天魔王 織田信長

比叡山延暦寺の批判も虚しく、織田信長は浅井家の領土を削り取るなどして領土をさらに拡大、さらに北伊勢の長島一向一揆の鎮圧にも成功したため、ついに比叡山延暦寺へ視線を向けました。

ここで織田信長は再三に渡って比叡山に使者を送り、なんとか話し合いで決着をつけようとします。信長からすればいざ戦争になれば、いかに大きな軍事力を持っている比叡山とはいえ簡単に捻り潰せます。ですがやはり多くの人々の信仰の対象となっている比叡山延暦寺を攻撃するのは、気持ち的にも立場的にもやりたくはなかったのでしょう。世間の人々から大きな批判を受けるのは目に見えていますから。ですが延暦寺側としてはもう後には引けません。ここで和睦をしたとしても、信長の成長とともに比叡山延暦寺は衰えていくのが目に見えています。いくら信長とはいえ、歴史ある比叡山延暦寺を攻撃するなんて畏れ多いことはしない、と多寡をくくって反抗を続けていたのかもしれません。

再三に渡る交渉も全て破談となってしまったため、ここでようやく信長は比叡山延暦寺への攻撃を決意します。明智光秀や他の武将に命じ、比叡山全山を焼き払うよう指示を送りました。この時は武装していた僧兵だけでなく、女子供や僧侶まで殺害されたといいます。記録上のことなので実際の場面はわからないのですが、かなり悲惨な現場だったことは確かでしょう。

比叡山焼き討ちを行った後には、信長は仏教に敵対する悪魔であるとして「第六天魔王」というとんでもない渾名をつけられてしまいます。「第六天魔王」という自分の渾名を聞いた時には、信長の心境はどういったものだったのでしょうか。仏敵というレッテルを貼られて世間の人々から嫌われる状況となることも、きっと信長にはわかっていたことでしょう。天下布武を悲願とする信長にとっては、せいぜい苦笑いをして流す程度のことだったのかもしれません。

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