今回の記事では、徳川家康の次男として生まれながら将軍職に就くことのなかった結城秀康についてご紹介いたします。
微妙な生い立ちを持つ結城秀康
双子の兄として生まれた結城秀康
徳川家康には男女合わせて10人を越える子供がいましたが、秀康は徳川信康の次に双子の兄として生まれています。ですが戦国時代当時の価値観では、双子は動物と同じ(大体の動物は一度の出産で多くの数が生まれる多産です)と見なされ厭われていたため、双子の弟は家康から子供として認知されることなく、母方の実家となる永見家に養子として出されてしまいました。
双子の兄だった秀康はなんとかそのまま徳川家に残ってはいますが、生まれた時のハンデはその後も強く影響することになります。
結城秀康の母は身分低め
嫡男の徳川信康は徳川家の元主君・今川家の一族となる築山殿であり、また、3男の徳川秀忠は源氏出身の良血な母を持っていました。ですが秀康の母は女中出身でかなり身分が低く、また双子として生まれたこともあり、秀康は生まれた時から家康に嫌われていたと伝えられています。
そのため秀康は3歳になるまで家康から全く相手にされず、抱っこどころか対面すらしたことがありませんでした。そんな秀康は3歳でようやく家康との対面を果たしますが、それも15歳年上の兄となる信康があまりの冷遇ぶりを見かねて必死に取りなし、その結果ようやく実現するという悲惨な幼少期を送っています。
徳川家の跡継ぎから除外されるまで
秀康の兄・徳川信康の死
結城秀康が生まれた次の年には長篠の戦いが起きており、その後も武田勝頼と徳川家康の国境間の争いは延々と続いていました。
長篠の戦いについてはこちらからどうぞ。
この一連の争いはかなり泥沼化していたのですが、その間に徳川信康とその母・築山殿が武田家と内通した疑いをかけられ、投獄されるという事件が起こります。この事件は織田信長の娘として信康の正室となっていた徳姫が信長に通報したことが発端となっており、事件当初から信長が強く関与していました。そして信長が家康に2人の処分を命令すると、家康は織田家との友好関係を重視してこの命令を受諾、信康と築山殿に切腹を強要します。
この信康自刃事件が起きたことで家康の後継者が急に不在となり、新たな後継者を指名する必要に迫られました。本来であれば次男の秀康が指名されるのが妥当なのですが、ここで後継者に指名されたのは、名家の血筋を引く生まれたばかりの3男・徳川秀忠でした。
豊臣秀吉の養子に
徳川家康の男児の中で最も年長であるにも関わらず、徳川家の跡継ぎではないという事実は秀康が成長するにつれ悩みを深めたことでしょう。皮肉なことに秀康は非常に体格が良く、また武芸にも優れた才能を見せていました。まだ戦争にこそ出てはいませんが、血筋や双子として生まれたこと以外は、武将としても徳川家の当主としても充分すぎる能力を持っていました。
そんな秀康に転機が訪れます。徳川家と豊臣家が激突した小牧・長久手の戦いで勝ちきれなかった豊臣秀吉は、和睦交渉の中で秀康を人質として出すことを要求し、家康はこの要求をあっさり受諾します。もちろん家康は自身の後継者に決めている徳川秀忠は当然人質になど出さず、代わりに秀康を人質として出しました。そして徳川家の中でも微妙な立場だった秀康は、今度は豊臣家で人質兼養子というこれまた微妙な立場で過ごすことになります。
九州征伐で初陣を飾った結城秀康
豊臣家に養子に出された秀康は羽柴姓をもらい、「羽柴秀康」と名乗り始めました。豊臣秀吉は秀康をかなり気に入っていたようで、島津義久の討伐にも同行させており、先鋒という敵と交戦する機会の多い位置で初陣を飾らせています。秀康もその信頼に応えるように九州征伐で大きな軍功を挙げており、優秀な武将としての能力を見せつけています。
九州征伐で多大な功績を挙げた秀康は豊臣姓をもらい受けており、順調にいけば秀吉の跡継ぎもあり得る地位を手に入れています。ですが淀殿との間に鶴松が産まれると状況は一転、秀吉は生後四ヶ月の鶴松を後継者に指名し、すぐに秀康の居場所がなくなっています。秀康は国内平定の最後の戦いとなる小田原征伐にも参加していますが、戦後には追い払うように養子に出されることになります。
今度は結城家に養子入り
結城家は鎌倉幕府初代将軍・源頼朝に仕えた源氏一族であり、室町時代にも下野国(現在の栃木県)の守護を務めた名家でもあります。結城家の当主・結城晴朝には男児がおらず、隣国の宇都宮家から養子として迎えた結城朝勝を後継者としていましたが、そんな折に豊臣秀吉から秀康を養子にする話が舞い込みます。結城晴朝からすれば秀康は関東の大部分を統治していた徳川家康の実子であり、また豊臣秀吉の養子でもある、大物大名との縁が非常に深い最適な人物でした。そのため結城晴朝は二つ返事で承諾し、秀康はここでようやく「結城秀康」を名乗ることになります。
秀康が養子として結城家にやって来ると、結城晴朝は即座に隠居し家督権を譲り渡しました。結城晴朝は秀康の家督継承を大いに喜び、天下三名槍の一つ・「御手杵」をも譲り渡しています。
御手杵や日本号など天下三名槍についてはこちらからどうぞ。
本来であれば徳川家康の後継者となっていても全くおかしくないはずの秀康は、徳川家でも微妙な扱いを受け、豊臣秀吉に子供が産まれるとすぐに追い出されていますが、ここでようやく立派な大名として自身の領土を手に入れています。ちなみに秀康が養子入りするまで後継者とされていた結城朝勝は、相続権を失い宇都宮家へ戻されるというちょっと切ない出来事も起きています。
関ヶ原の戦いでは江戸の防備に
関ヶ原の戦いでの結城秀康はもちろん東軍に所属、会津の上杉景勝の江戸侵攻を防ぐ防波堤として宇都宮に布陣しています。秀康は積極的に攻撃せず伊達政宗ら東軍武将と牽制を続けたことで、上杉景勝は江戸攻略をひとまず諦め、出羽国の最上義光への攻撃に転じています。その間に徳川家康は関ケ原で石田三成率いる西軍に勝利、秀康は一度の交戦も行うことなく関ヶ原の戦いは幕を閉じています。
家康にとって西軍の首謀者である石田三成を倒せば勝ちであり、上杉景勝は積極的に打ち倒す必要のない相手でもあります。そういった家康の事情を汲み取っていた秀康は、戦場での活躍を望みながらも鉄壁の防御布陣で上杉景勝を戦わずして退けています。家康はこの秀康の判断を高く評価し、10万石程度の領土だった結城家の領土を越前北之庄68万石に大きく転封加増します。
関ヶ原の戦いの7年後に病死
越前北之庄で藩主となった結城秀康は、伏見城での留守居を勤めている最中に持病が急激に悪化し、自国となる越前北之庄へ帰国しました。伏見城ですでに弱りきっていた秀康は帰国後にも容態が回復せず、そのまま34歳の若さで生涯を終えています。
家督を継承した秀康の長男・忠直は、結城の姓から松平姓に復姓し、松平忠直と名乗っています。そのため結城の名はここで断絶していますが、秀康の5男・松平直基が藩主となった折りには結城家の家紋を使い続けており、結城家という家名は残りませんでしたが家紋だけは幕末まで残っています。
結城秀康のエピソード
体格が良く武勇に優れた人物
結城秀康は戦国時代が終わりかけの頃に生まれており、一人前に成長する頃には戦乱の世がほとんど終わっており、戦場で活躍する機会がかなり限られていました。その数少ない機会である九州征伐や小田原征伐でキッチリと成果を出し、また関ヶ原の戦いでは戦闘こそ起きていませんが自身の役割をしっかりと果たしています。
周囲の同僚となる武将や家臣達にも秀康の能力は認められており、また父親である徳川家康をも驚かせるエピソードが残っています。家康と秀康が一緒に相撲を見ていた折に、次第に観客が興奮していき、ついには暴動が起きそうな騒ぎとなっていました。ここであまりの騒ぎを見かねた秀康は、最前列から振り返り一言も発さずに騒ぐ観客を睨み回します。すると秀康のあまりのド迫力な睨みように驚き、一瞬にして騒ぎが収まったと言われています。
2代将軍の可能性もあった?
関ヶ原の戦いで東軍が勝利を収め、すでに徳川家の天下となっていた頃のお話です。徳川家康はすでに自身の後継者に次男の徳川秀忠を考えていましたが、迷いが出たのか家臣を集め、誰を後継者とするかを問いました。ここで満場一致の秀忠推しとなるかと思いきや、意外にも意見が割れることになります。
重臣の大久保忠隣はすでに後継者指名されていた3男の秀忠を推しましたが、井伊直政は自身の娘婿となる4男の松平忠吉を、そして参謀の本多正信はとっくに後継者から外されていた結城秀康を強く推します。本多正信は最後まで諦めずに秀康を推し続けますが、結局最後には当初の予定通りに3男・秀忠を後継者として改めて決定します。家康としては家臣達に秀忠の家督継承を確認するための軍議だったのでしょうが、話の流れ次第ではひょっとしたらもあったのかもしれません。
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