明智光秀と南光坊天海の同一人物説について

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南光坊天海と同一人部雪のある明智光秀

南光坊天海の正体は明智光秀?

江戸幕府の土台を構築した南光坊天海

徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利して天下人の地位を得ましたが、その偉業は多くの家臣に支えられたからこそでしょう。それは江戸幕府が樹立された後も同様なのですが、その中でも抜群の功績を挙げたのが南光坊天海という仏教僧です。

明智光秀との関係が噂される南光坊天海

この南光坊天海は家康の参謀としての役割を果たしながらも、朝廷との交渉や幕府の宗教政策、また江戸の都市計画にまで関与するなどマルチな働きを見せつけました。その働きぶりは徳川家康の信頼を得るにも十分だったようで、日光東照宮には天海・家康・藤堂高虎が居並ぶ廟が今も残っています。

多分テレビ番組の一コマ、下のサイト様からの転載です。

https://plaza.rakuten.co.jp/masterless/diary/201607290000/

南光坊天海の出自は謎だらけ

ところがその活躍っぷりに反比例し、この南光坊天海という人物については不明な点が多く、特にその前半生は諸説が入り乱れています。それは会津辺りの領主・蘆名氏の一族だという話や、11代将軍・足利義澄のご落胤説などがあり、また出生地に関しても一貫性など全くありません。

要するにその前半生について確定的な話は全然ないのですが、この人物の厄介なところは徳川家康に仕えて以降もなぜか不明点だらけ、それなのに会話の内容とかエピソードだけはガッツリ残っていたりします。つまり「やったこと」だけは記録されているのにプロフィールが全然伝わっていないのですが、そういった薄暗い背景の中で明智光秀との関連性が浮上してきたという訳です。

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優秀すぎる織田家家臣・明智光秀

この南光坊天海という謎のスーパー坊主に対し、同一人物説が提唱される明智光秀の実績も全く見劣りしていません。織田家に加入した後の明智光秀は、軍事に朝廷交渉にと大車輪の活躍を見せており、特に近畿地方の平定に関しては抜群の功績を残しています。その能力と手腕に関しては織田信長も大絶賛だったので、順調すぎて謀反を起こす理由なんかどこにもなさそうな気がします。

本能寺の変が起きた理由と考察についてはこちらから。

とは言え、明智光秀は本能寺の変の後に山崎の戦いで羽柴秀吉に惨敗、本拠・坂本城への逃亡の途上で落ち武者狩りに遭って最後を遂げました。しかし、その首に関しては不思議とアヤフヤな扱いになっており、発見されたとか発見されずじまいだったとか、資料によってマチマチだったりします。

生存説が同一人物説の根拠に

実はこの明智光秀なのですが、羽柴秀吉との戦いで負けた後にキッチリ逃げ切っており、どこかに身を潜めていたという説があったりします。近畿や故郷の岐阜には明智光秀をかくまったという伝承もあり、またその他にも戦後の生存を示す資料がチラホラ残っていたりします。

まあ実際のところはサッパリ分からないのですが、この生存説があるからこそ南光坊天海との同一人物説も成り立つ訳ですね。という訳で前置きの方が長くなってしまいましたが、今回の記事では眉唾モノの同一人物説の根拠と、それに関する考察を交えてご紹介したいと思います。

同一人物説の根拠

南光坊天海が名付けた「明智平」

現代の栃木県日光と言えば徳川家康が眠る東照宮が有名ですが、ここから数キロ西には「明智平」と呼ばれる地域があったりします。この地名を名付けた人物が南光坊天海なので明智光秀と同一人物です、と言い切りたいところですが、残念ながら命名された経緯はあくまで伝承レベルでしかなく、「天海さんに名付けられたと聞いとります」程度の話です。

現代ではロープウェイがある明智平

そもそも、明智平と命名したのが天海だったとしても、2人が同一人物だったという根拠としてはちょっと弱めですよね。名も姿も変えた明智光秀もちょっとだけ自分の爪痕を残したかった、そんなセンチメンタルな解釈がこの根拠の根底にあるのかと思われます。

大奥で優遇された明智光秀の縁者

ザ・大奥として「春日局(かすがのつぼね)」は余りにも有名ですが、この女性は実のところ明智光秀の重臣・斎藤利三の娘さんです。この斎藤利三は山崎の戦いで羽柴秀吉に敗北し戦死していますが、娘である春日局はなんやかやあった後に徳川家光の乳母になり、大奥の主となった後は国政にすら口を出す存在へと進化しました。

大奥と言えばこの人しか思い付かない「春日局」

とまあ大奥の怖さは置いておいて、さらに4代将軍の徳川家綱の乳母も明智光秀の重臣の孫だったりします。そもそも大奥は徳川将軍家の家政を預かる場ですので、「そんなところに謀反人である明智光秀の縁者がいるのはなぜ?」、という疑問が南光坊天海と結びついて同一人物説の根拠になったものと思われます。

明智光秀を裏切った武将への制裁?

筒井順慶(つついじゅんけい)という武将は元より明智光秀と親しく、長らく与力(よりき)として共に戦う間柄でした。ところが本能寺の変が起きると筒井順慶は態度を翻し、山崎の戦いでは静観を決め込んでいます。その後筒井家は筒井定次がその跡を継ぎ、関ヶ原の戦いでは東軍に所属して勝利に貢献しました。

簡単に明智光秀を見限った疑惑の筒井順慶

ところが関ヶ原の戦いが終わってから数年後、筒井定次の伊賀上野藩はあっという間に改易され、しかも大阪の陣では内通の罪を疑われて自害を命じられてしまいました。まあ要するに明智光秀が反逆した者に報復したのかな?という話なのですが、同一人物説が真実でなら40年越しの復讐劇という粘着質なお話でした。

坂本にある南光坊天海の墓所

この事実は眉唾モノの話の中でも最も信憑性が高く、同一人物説を信じる人にとっては一筋の光明となるでしょう。それは南光坊天海の墓所が明智光秀の本拠、近江国(滋賀県)坂本にあることです。

比叡山のお膝元なので京都県大津市坂本には文化財だらけ

とまあ大袈裟に切り出してみましたが、坂本はもともと比叡山延暦寺の門前町として栄えた経緯があるため、ぶっちゃけ当時の仏教関係者には馴染み深い土地だったりします。それでも明智光秀が本拠にしていた土地であることは間違いないため、偶然にしては出来すぎ、ということで最有力の根拠ではないでしょうか。

明智光秀・南光坊天海の同一人物説あとがき

ここまで同一人物説の根拠をつらつらと書いてみましたが、これを信じるのは相当難しいと言わざるを得ません。そもそも南光坊天海が活躍したのは江戸時代初期、つまり本能寺の変からせいぜい20年後くらいの時期ですので、もし同一なら「あいつ明智光秀じゃん!」とか言う奴が湧きまくったことでしょう。

という事で、当時の資料にそんな話が一切ないこと、しかも資料の散逸が少ない江戸時代ですので、残念ながらこの説はかなりの確率でデッチアゲかなと思います。とは言え、20年の雌伏の後に徳川家康の下で才能を煌めかせた明智光秀、そんなロマンあるストーリーも個人的には大好きです。

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