松平定信が「寛政の改革」に取り組んだ理由
災害続きだった田沼時代
寛政期の前は田沼時代と呼ばれる時期ですが、これは田沼意次(おきつぐ)という人物が幕政を主導していたためにそう呼ばれています。この田沼時代の特徴は、「享保の改革」の流れを引き継ぎ商業に力を入れた時代でもありますが、同時に数多の災害に見舞われたキツい時代でもあります。
田沼時代では雨が降らないことによる大旱魃、また大雨による洪水がそこかしこで発生していますが、残念ながらこんなものは序の口です。「明和の大火」と呼ばれる江戸での火事では15,000人に近い犠牲者が出ており、桜島や浅間山は狂ったように噴火し始めました。そしてさらに日本全土で天候不順による飢饉が発生していますが、苦しむ民衆の怒りが爆発するのはまだこれからです。
多発した打ちこわしと一揆
この連発した災害で都市部の人々も苦労したでしょうが、自然環境への依存度が高い農村部へのダメージはより深刻です。特に「天明の大飢饉」と呼ばれる壮絶な食糧難では、なんと90万人を越える犠牲者が出ています。
そんな状況であれば誰だって必死で生きようとするため、「食い物が有るところ」に人々が群がり始めました。という流れで田沼時代では一揆が日本全土で起きており、また都市部では裕福な商人の家に集団で押しかけて奪う「打ちこわし」が多発しています。
ピンチに立ち上がった松平定信
ここまで飢饉の被害が拡大した理由として、田沼時代の緊縮財政、つまり幕府が出費をケチり続けたことが背景にあります。本来は飢饉への対策として備蓄米があるはずなのですが、財政難の解決のためにすでに売却しており、これが大きく裏目ってしまった訳ですね。
農村の荒廃は幕府の税収を大きく減らし、さらに都市部に流入した飢民達は治安悪化の原因ともなってしまいました。財政難と治安の悪化、そして農村の再建というボリューミーな課題に対し、時の老中・松平定信が立ち向かった行動こそが「寛政の改革」です。
「寛政の改革」の農政・民政
故郷へ帰ろう「旧里帰農令」
災害続きで荒れ果てた農村部
寛政期の前に当たる宝暦・明和期は天災が続き、米を中心とする農作物の収穫高が激減していた時期です。そのため農村の人々は活路を求めて都会を目指したのですが、当時日本一の都市だった江戸には特に多くの人が集まってしまいました。
こういった元農民たちには職を探して普通に生活した者も多かったのですが、中には治安を乱す者もいたようで、幕府にとっては悩みのタネだったようです。とは言え農村が衰退すれば徴収できる年貢も減ることになるため、松平定信はまず農村の復興を目指しました。
帰郷の費用を用意してあげた優しい政策
という訳で松平定信はまず都市部に偏った人口比率の改善に着手、元農民達に対して農村への回帰を呼びかけました。とは言え元農民とて地元では食っていけないから都市部に来ていた訳で、帰れと言われてスゴスゴと帰れるはずもありません。
ところが松平定信は帰農する、つまり農村に戻る元農民にはお金をプレゼントし始めたため、お金に釣られた人々は続々と帰路につきました。ちなみにこの「旧里帰農令」は強制ではなく、あくまで帰農を促しただけのマイルドな政策だったりします。
減少してしまった農村人口の増加政策
飢饉による農村部のジリ貧状態
例え都市部から人が戻ってきたとしても、すでに農村は荒れ果てた状態です。稲作をするための種を食べてしまった人もいたでしょうし、仕事道具を質入れして食べ物を買った人もいたでしょう。
つまり飢饉を生き残っても楽な生活は待っておらず、むしろ先細りのジリ貧状態がそこにありました。そんな状況で生まれた子供にお金を掛けるのもなかなか難しいでしょうが、国や地域の将来を考えるならこの状況は相当マズいですよね。
江戸時代にもあった子ども手当
という訳で松平定信は子供に対する投資を決断、現代で言うところの「子ども手当」の支給を始めました。この制度では生まれた赤ちゃん一人に対して給付金1両とされていましたが、1両なんて当時の庶民はなかなかお目に掛かれない金額ですので、松平定信のかなりの本気度が窺えます。
ちなみにこの子供に対する給付金は「寛政の改革」が終わっても継続され、むしろ1799年には支給額が2両に増やされています。このことは幕府が国の将来に対して本腰を入れた証でもありますが、逆に言えば飢饉による人口減がいかに凄まじかったかを表してもいます。
災害時にも安心の「囲米」「七分積金」
「寛政の改革」では、田沼時代に失われた食料の備蓄も再開されています。ここで始まった備蓄システムは「囲米(かこいまい)」と呼ばれ、年貢の一部や富裕層からの寄付で着々と食料が蓄えられました。ちなみにこの制度は幕府直轄地だけに留まらず、諸藩でも同じように備蓄するよう指示が飛んでいます。
また松平定信は災害時の迅速な復興をも視野に入れていたようで、主に都市部で「七分積金」という積立制度も始めています。この「七分積金」には幕府もかなりの資金を援助していたためか、相当厳格に扱われていたようで、明治維新でこの制度が廃止された折にはなんと170万両ものお金が溜まっていたそうです。
無宿者や元犯罪者も利用できる「人足寄場」
犯罪に手を染めた流入民も
「旧里帰農令」で農村への復帰を促しても、やはり大都会である江戸に住み着いた者も多くいました。とは言え急に職探しを始めてもなかなか難しく、全員が仕事にありつけた訳ではありません。
もともと難民のように都会に流れてきた者達にとって、犯罪に手を染めることは生きる手段として仕方がないことだったのかもしれません。まあ全員ではないにしろ、地方からの流入民が治安を乱していたことも事実、松平定信はこの問題を解決するために「人足寄場」を設立しました。
地味に世界初の更生プログラム
この「人足寄場」は現代で言うところの職業訓練校ですが、その目的は犯罪の抑止です。そのため主な対象者は軽犯罪者や虞犯者(犯罪予備軍のこと)だったようで、彼らに手に職を付けさせることで犯罪の芽を摘んどこう的な発想ですね。
つまり「人足寄場」は職業訓練校であると同時に、ちょっと道を外れてしまいそうな人の更生施設でもあった訳です。この「人を更生してマトモな人生を歩ませる」という発想は、当時としてはかなり進んだアイデアだったようで、「人足寄場」は世界初の更生施設だったとされています。
人足寄場の設立には「鬼平」も関与
この「人足寄場」の初代長官は、テレビドラマでも有名な「鬼平」こと長谷川平蔵が就任しています。鬼平はもともと火付盗賊改方という、強盗犯や放火犯に対応する部署の長官を務めていました。まあ要するに実力行使で犯罪者を捕らえる武闘派警察のトップだったのですが、そんな鬼平だからこそ防犯の大事さを知っていたのかもしれません。
ちなみに「人足寄場」の設立後、財政難すぎて幕府からの資金が止まった時期があったようです。その際には鬼平自ら借金をし、銭相場にお金をブッ込んで資金を捻出していたとか。さすがに鬼の異名を取る長谷川平蔵さん、色々な意味ですごすぎですね。
現代の銭相場と言えばコレ!
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質素倹約を強制した「倹約令」
被害の拡大は贅沢が招いた?
冒頭でも触れていますが、田沼時代に災害対策としての余剰資金や備蓄米は消し飛んでいます。このことが飢饉の被害を拡大させたとも言えますが、視点を変えてみれば田沼意次は財政難に対応しただけだったりします。
江戸幕府は大体いつも財政難に苦しんでおり、その主な理由に米本位制度が経済状況と合わなくなったことがあります。また見栄を張るために儀式典礼は無駄に華美になり、それに合わせて大奥の出費も増大し続けました。つまり収入が大して変わらないのに出費だけが増え続けていたため、そりゃまあ財政難にもなりますよね。
倹約で各費用を捻出するも
「寛政の改革」における子ども手当の支給、人足寄場の運営、囲米や七分積金といった新たな取り組みは、全て追加の出費が伴います。つまり財政難の中でより多くのお金が必要だったため、松平定信はこの費用をどこからか捻出する必要がありました。
ということで、松平定信は華美な儀式を必要最低限の規模に抑え、また大奥だけでなく将軍や官僚、そして民衆にまで質素な生活を強要する「倹約令」を発布しました。ですが当時の人々は200年もの太平を謳歌していたためか、松平定信の必死の取り組みは受け入れられることはありませんでした。
「寛政の改革」の結末
老中を解任された松平定信
1787年に始まった「寛政の改革」は、1793年に突如として中断されることになりました。その理由は松平定信の老中解任で権限を失ったからですが、その解任劇の主導者は時の将軍・徳川家斉(いえなり)ですので、抗いようもありません。
その背景には大奥の予算を大幅に削減したことによる不満、また幕府官僚からは松平定信の独裁体制への疑問があったとされています。ハタから見たら倹約令も含めて史上稀に見るグッドな指導者な気がしますが、まあ贅沢に慣れきった人々からすれば「アイツ余計なことばっかしやがって」くらいだったのかもしれませんね。
6年間の軌跡は受け継がれる
結局松平定信が老中として活躍したのは約6年、これを長いと見るか短いと見るかは個人差があるでしょう。現代日本で総理大臣が6年続けばかなりの長期政権ですので、敵に回した人間の数を思えばかなり頑張った方かもしれません。
将軍やら幕府官僚、そして大奥という古狸だらけの世界において、松平定信はあまりに清らかな政治生活を送り、そして6年で退場を余儀なくされました。この優秀すぎて清廉すぎるという感想は筆者の偏見ではありますが、実は当時の官僚達にも同様の想いを持つ人が結構いたようで、その後もひっそりと「寛政の改革」の路線が継続されていたりします。
江戸時代の三大改革のまとめはこちらからどうぞ。
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