器用だけどぶきっちょな愛嬌たっぷり人間 | 藤堂高虎のエピソード

江戸時代

喧嘩っ早くて人情家な藤堂高虎

7回主君を変えた理由は単純に性格のせい?

「藤堂高虎」を語る上でどうしても外せないのはその多すぎる主君遍歴ですが、問題は主君を変えるに至った理由ですよね。実は浅井長政の元を飛び出した理由はケンカ、阿閉貞征(あべさだゆき)の元を去ったのもケンカ、さらに織田信澄の元でも同僚とケンカに及んだ上で出奔しています。特に織田信澄に仕えていた頃のケンカ相手は「母衣衆」というエリート部隊に所属していた上役だったため、ケンカの相手は全く選んでいなかったことが分かりますね。

当時の藤堂高虎はまだ若かったせいでしょうか、相手が気に入らなければ誰彼構わず突っかかっていくタイプだったものと思われます。とは言え織田家の母衣衆と言えば前田利家や佐々成政、そして河尻秀隆など、名だたる名将が所属していた「エリート養成部隊」だったりします。そんな相手に対しても言いたいことはキッチリ言う、不満を溜め込めなさすぎる不器用な高虎さんでした。

藤堂高虎の主君遍歴・略歴はこちらからどうぞ。

豊臣秀長に仕えて以降はケンカなし

そんなあまりにも喧嘩っ早すぎる藤堂高虎でしたが、豊臣秀長に仕えて以降はケンカに及んだ記録がなく、むしろ部下想いのナイスガイなエピソードばかりが残されています。大将首をなくしてしまって狼狽える足軽を許し、また他家へと去ろうとする家臣に茶を振る舞った上で丁寧に送り出すという、なにかとケンカに及んでいたとは思えない懐の広さを見せつけています。何かと怒っていた人が急に優しくなると逆に不気味な気もしてしまいますが、このいかにも優しげな部下への振る舞いについては、5人目の主君・豊臣秀長の影響が強かったようです。

豊臣秀長は人格破綻者の豊臣秀吉とは大きく異なり、大大名から家臣まで誰からも信頼される温和な人物だったとされています。高虎は豊臣秀長との良好な主従関係、そして贈り物として受け取った儒教の経典から多くのことを学んだのでしょう、ケンカ以前に他人とモメる機会そのものを無くしていったものと思われます。やりたい放題に振る舞っていた若手時代を経て、いざ自分が人の上に立ったら急に物分りの良い上司になるという、苦労を積み重ねてきた中小企業の社長のような人物だったりします。

藤堂高虎とは対象的な人格破綻者・豊臣秀吉のエピソードはこちらから。

藤堂高虎は殉死を許さない

戦国時代や江戸時代の初期にはまだまだ殉死の習慣が残っており、主君と仰ぐ人が亡くなった際には自主的に後を追う家臣も多かったようです。この殉死は武士の間で根強く残っていた風習でしたが、当然殉死によって優秀な家臣が減ることもある訳で、武士のロマン的にはOKではあれど「家」という集団の運営的には完全にマイナスですよね。むしろ当時は殉死しない家臣が批判を受ける風潮すらあったため、殉死しないといけない!なんて思う家臣もいたでしょうし、なかなかバランスが難しいところではありますね。

そんなご時世でありながらも藤堂高虎は早い頃から家臣の殉死を禁止しており、次世代以降の藤堂家を助けるよう求めています。ですがそこは戦国の残り香が濃厚な時代ということで、藤堂高虎がピンピンしていた頃から70人が殉死する意志を示していたそうです。そこで高虎はわざわざ徳川家康に依頼し、家康から「殉死するという意志を示しただけで十分なので切腹したつもりで藤堂家・徳川家のために働きんさい」と家臣の殉死を徹底的に禁じました。頑固な家臣とは言えさすがに幕府将軍に言われてはということで考えを曲げたそうなのですが、元気なうちから70人もの家臣に殉死を決意させた高虎の人望も相当なものですよね。

徳川家から大絶賛の人格者

藤堂高虎はやたらと徳川一族に気に入られていたようで、徳川家康は高虎の人格だけでなく能力面も高く評価していました。また家康の側近達とも異様に仲が良かったらしく、特に「南光坊天海」とはよく一緒に仕事をしていたようで、2人して江戸幕府の樹立から武家諸法度と呼ばれる法整備、そして江戸城の城下町作りにも取り組んでいます。家康が臨終の際には天海和尚と高虎を枕元に呼び寄せ、

われ来世において、権現となろう。天海と藤堂高虎は長く我の左右にあって徳川家の守護となれ

なんてセリフを残して亡くなったそうです。実際に日光東照宮には家康を中心に2人が左右にいる像があるらしいのですが、こちらは残念ながら未公開となっています。

テレビでやっていたであろう番組の画像、下のリンクのブログサイト様からの転載です。

https://plaza.rakuten.co.jp/masterless/diary/201607290000/

また高虎は2代将軍・徳川秀忠からも頼られるというか親しまれていたようで、誰かと歓談する際にはいちいち呼ばれて同席していました。いるだけでなんとなく場が落ち着く人ってたまにいますが、高虎もそんな感じで頼りにされていたのかもしれませんね。

そんな藤堂高虎も年齢には勝てなかったようで、60代の半ば頃には視力が低下しほとんど見えていなかったそうです。秀忠はそんな高虎が気軽に江戸城を訪ねられるようにわざわざ廊下の曲がり角を修築し、地位も何も関係なく秀忠自ら出迎えてすらいたそうです。高虎はそんな秀忠の行為に感極まってしまい、涙を流しながら廊下を渡ったとか。7度も主君を変え泥水をすすりながら出世を果たした人物ではあれど、高虎は多くの人に愛されながら75歳の生涯を終えています。

藤堂高虎のその他のエピソード

デカイ体は満身創痍

身長が190センチもあったら現代でもそうそう見ないレベルのノッポさんですが、戦国時代当時の男性の平均身長は160センチに満たなかったようで、そんな中での藤堂高虎の190センチは異彩を放っていたのではないでしょうか。整列でもしようものなら両側の頭の天辺が肩口くらいになる訳で、そんな人がウロウロしていたら何をどうやったって目立ってしまいます。本人の気性の荒さも手伝っていたのでしょうが、どうしても目立ってしまうその存在感もあって毎度毎度のケンカに及んでいたのでしょう。

戦場においてもそのデカすぎる体格は格好の的となったようで、高虎は生傷が絶えない満身創痍の体だったようです。高虎が亡くなった後に近習が体を清めようとしたところ、右手の薬指と小指は千切れ、左手の中指も爪が無く、また左足の爪もスッポリと無くなっていたそうです。そして全身は槍傷や鉄砲傷で埋め尽くされており、傷のない場所を探す方が難しい程の傷だらけの体だったようです。生涯戦場で無傷伝説を持つ本多忠勝あたりと比べると華麗さでは完全に劣りますが、泥臭く不格好に戦場を這い回った高虎の苦労が窺い知れる気がします。

三大築城家の一人として多くの城を築く

日本のお国柄として「三大」や「四天王」が好まれる傾向がありますが、普通に生きていると滅多にお目に掛かることのない「三大築城家」なんて言葉もあったりします。こちらは戦国時代末期に活躍した3人の築城家を指し、黒田官兵衛・加藤清正という豊臣秀吉の家臣達に藤堂高虎を入れてそう呼ばれています。高虎も豊臣秀長の家臣として長く働いた経歴があるので、3人とも築城マイスターである豊臣秀吉から技術を学んだのかと思いきや、実は藤堂高虎だけは現場の職人達から直接学んでいたりします。

藤堂高虎は豊臣秀長に仕えている頃、織田信長の安土城や井伊直政の彦根城など、多くの城の石垣を手掛けた「穴太衆」という職人集団と親交がありました。そのためか高虎の城郭建築は石垣に特長があり、異様なまでに高く積まれた上で美しく、また頑丈で長持ちという高い耐久性もあったそうです。

また藤堂高虎は「層塔型天守」の創始者でもあり、現代にも残る多くの城郭の天守閣を手掛けた実績があります。残念ながら筆者は「層塔型天守」と他の型式の違いが全くわからないのですが、この型式で建てられた城としては伊予国(愛媛)の「宇和島城」、伊予国の「松山城」、備後国(広島県東部)などがあります。

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